2012年02月06日

バトゥ

バトゥ 能力データ
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 8 / 政治力 6 / 知力 7

バトゥはジュチ家の第2代当主でキプチャク・ハン国(ジュチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・ハーンの長男ジュチの次男で、後にモンゴル人からは「サイン・ハン(偉大なる賢君)」とまで称される。父ジュチの死により、病弱だった異母兄オルダに代わって次男で母の家柄も良かったバトゥがジュチ家の当主となる。
1236年春2月、モンゴル帝国第2代ハーンであるオゴデイの命を受けてヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、四狗の一人であるスブタイやチンギス・ハーンの4男トゥルイの長男モンケ、そしてオゴデイの長男であるグユク等を副司令として出征。各王家の長子クラスの皇子達、又領民を持っていない皇子達、更に帝国全土の王侯・部衆の長子達、すなわち次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子達が出征するという超大規模なものでバトゥは遠征軍に参軍する皇子達を統括、グユクはその下で皇帝オゴデイの本営軍から選抜された部隊を統括、チンギス・ハーンの功臣筆頭ボオルチュの世嗣ボロルタイがバトゥの本営・中軍の宿将としてこれを率いていた。この時バトゥが率いた兵力は4個千戸隊(約1万人)。遠征軍の征服目標はジュチ家の所領西方の諸族、アス、ブルガル、キプチャクの諸勢力、ルーシ、ポーランド、ハンガリー、更に西方のドイツ、フランス方面をも含んだ。

遠征軍は秋までに当時のジュチ家のオルドがあるイリ方面に到着。冬季にまず宿将スブタイはブルガル市を攻撃、春にキプチャク草原全体に囲い込み作戦を実施、左翼をモンケに任せてカスピ海沿岸を進軍、キプチャクの有力首長バチュマンとアスの首長カチャル・オグラと交戦、捕殺。カスピ海沿岸からカフカス北方までの地域にいたブルタス族、チェルケス族、サクスィーン人(アストラハン周辺)等が帰順、或いはこれを征服。
1237年秋、ルーシ(現ロシア)方面に侵攻。12月下旬にはリャザン、コロムナが劫略され、2月にはウラジーミル大公国を攻略し3月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦してこれを討ち破り戦死に追いやる。ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガリーチ公ダニール等の帰順を受け、モスクワも攻略。その後遠征軍は南に進路を転じてコゼリスクを陥落させ、カフカス北部方面へ一時撤退、諸軍を休養させる。4月からはカフカス北部の諸族の征服を行い、この頃に総司令官バトゥはグユク、ブリ等と論功行賞で激しく対立。その報告を受けたオゴデイの帰還命令によってグユクとモンケは遠征軍を離れモンゴル本土へ出発する。
1240年初春にはルーシ南部に侵攻、キエフを包囲して同地を攻略、破壊。ここでバトゥはカルパチア山脈の手前で遠征軍を5つに分け、ポーランド方面とワラキア方面、カルパチア正面からトランシルバニア経由でハンガリー王国へ侵攻。3月にはクラクフを占領、続いてワールシュタットの戦いでポーランド軍を破ってポーランド王ヘンリク2世を敗死させ、シレジア、モラヴィア地方へも侵攻。カルパティア山間に居住していたサーサーン人を破り、山脈のワラキア人を撃破。
一方、同年3月にはバトゥ本隊はトランシルバニアからハンガリーに侵入、ベーラ4世に降伏勧告を行う。やがてモラヴィアからバイダル、カダアン及びスブタイが合流、ペシュト市を陥落させ、ティサ川流域のモヒー平原でハンガリー王ベーラ4世を急襲してこれを破り、ベーラ4世はオーストリア経由でアドリア海へ敗走。こうしてモンゴル軍はハンガリー全土を支配・破壊するに至る。まさにバトゥの行くところ、敵無しの状況だったのである。続く1241年はトランシルバニア全域の征服、クマン人、マジャール人等のハンガリー王国の残存勢力の掃討、冬には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市を包囲攻撃する。

しかし1241年にオゴデイが死去すると、ほどなくバトゥの本陣にもその訃報が届く。バトゥはオゴデイの死去にともなう遠征軍全軍の帰還命令を受けると、ただちにエステルゴムを陥落させ、カダアンにベーラ4世の追撃を命じる。モンゴル軍の一部はウィーン近郊のノイシュタットまで迫るが、この地域の征服は諦めドナウ流域を経由してキプチャク草原へ撤退。こうしてバトゥ指揮下のモンゴル帝国西方遠征軍は、ハンガリー支配を放棄して帰国することを余儀なくされた。しかし、バトゥの支配したカルパチア山脈以東のルーシ諸国を中核とする東欧の領土は、その後のジュチ・ウルスの基盤となる。
オゴデイ死後、バトゥとルーシ遠征中に険悪な仲となったグユクが第3代ハーンになろうとすると、これに強硬に反対してモンケを擁立。オゴデイが後継者と指名していたのはシレムンであったことを主張、帝国西方の重鎮として不参加を表明しトゥラキナの動きを牽制した為、帝国は5年近く大ハーン位が空位のままという状態に陥った。
結果的にグユクが第三代皇帝(大ハーン)に即位するが、バトゥはクリルタイの決定に不満を抱き大ハーンに即位した後も、グユクから再三にわたり臣従の誓約に赴くようモンゴル本土への召還命令を受けるものの、病気療養を理由に拒み続ける。これに対し、以前から患っていたリューマチの療養のためエミル近辺のオゴデイの放牧地へ行幸すると称し、グユク自ら遠征軍を率いて討伐にやって来るが、同年4月にグユクがビシュバリク付近で急死した為、モンゴル帝国は最有力王族とモンゴル皇帝との内戦という最悪の事態を回避。
グユク死後はモンケを新たなハーンとして推挙し、モンケを強行的に即位させる。この時、バトゥが次代のハーンになることを望む声もあったが、バトゥはあくまで帝国の影の実力者に徹して遂にモンゴル皇帝になることはなかった。その後はジュチ・ウルスの領土の統治に尽力し、ヴォルガ河下流域のかつてのイティル周辺に冬営地サライを首都として定める。バトゥの宮廷を訪れたウィリアム・ルブルックによると、バトゥの宮廷は季節によって南北に移動し、春にはヴォルガ河東岸を北上してブルガール方面に留まり、8月には南に戻っていたと言う。そして1256年、ヴォルガ河畔のサライにおいて48歳で死去。
posted by ただの中国史好き at 23:16 | Comment(3) | 宋・遼・金時代
2012年02月05日

ジェルメ

ジェルメ 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 6

ジェルメはモンゴル帝国最古参の将軍で、四狗と呼ばれるチンギス・ハーンの功臣の一人。同じく四狗の一人でスブタイは弟。
テムジン(後のチンギス・ハーン)が生まれた時、ジュルチダイはテムジンに黒貂の産衣(ネルケイ)を献上し、そのとき産衣にくるまれていたジェルメをテムジンに仕えさせたいとイェスゲイに申し出た。
長じてボルテと結婚したテムジンがトオリルと義父子の関係を結んだ後、ジュルチダイに伴われてテムジンに仕える。弱小だったころのテムジンがメルキトの襲撃を受けた時にはブルカン嶽への逃亡を助け、チンギスがハーンに即位すると、ボオルチュと共にケシクの統率を命じられる。 ナイマンとの戦いではジェベ、スブタイ、クビライら他の四狗と共に先鋒を務め、1206年のチンギス・ハーンの第2次即位にて第9位の功臣として顕彰され、罪を九度まで犯しても罰せられない特権と千戸を与えられる。ジェルメ率いる部衆は六千戸に増え、これをハラチンと号した。モンゴル統一後早くに亡くなり、短命だった為に後世における武名はジェベ、スブタイに比べて低いものとなった。

ジェルメの忠誠を示す逸話として、タイチウトとの戦いにおけるチンギス・ハーンの看護が挙げられる。戦いの中でチンギス・ハーンが毒矢を受けると、ジェルメは意識を失ったチンギス・ハーンに常に付き添って毒血を口で吸出し、夜半にチンギス・ハーンが目を覚まして「喉が渇いた」と言うと、単身タイチウトの中に忍び込んで酸乳を運び出す。チンギス・ハーンは献身的な看護と命がけで敵陣に忍び込んだ勇気を称え、これにブルカン嶽での奮戦を合わせた三つの恩は決して忘れないと言った。また他の者も単身で敵中に入ったジェルメの豪胆さを称賛。
子のイェスン・テエはコルチに任ぜられ、チンギス・ハーンに近侍。チンギス・ハーンが将軍に必要な資質の一つを説いた時、イェスン・テエを引き合いに出す。 「諸将の中でイェスン・テエの武勇に並ぶ者はいないが、イェスン・テエは配下の士卒の疲労を考慮しておらず、将軍には適していない。」と、個人的武勇は高いが指揮官には不向きな人物と評価。後にモンケの治世に諸王が起こした反乱に参加し誅殺される。
posted by ただの中国史好き at 19:46 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
2012年02月02日

スブタイ

スブタイ 能力データ
魅力 8 / 統率力 9 / 戦闘力 9 / 政治力 1 / 知力 5

スブタイはチンギス・ハーンの家臣で、同じくチンギス・ハーンのもとで活躍したジェルメの弟であり、四狗の一人。武勇に優れた猛将で、チンギス・ハーンが即位する以前にタイチウト氏、ジャムカと袂を別かった時に帰順した部将達の一人に数えられている。
1216年にメルキト族追討に派遣され、戦死したメルキト王トクトア・ベキの世嗣達を討ち取るなど功績を挙げる。更にチンギス・ハーンの大西征に従って本営である中軍に近侍、サマルカンドから逃亡したホラズム朝のムハンマドを追撃。これは取り逃がしたものの、その後ジェベと共に各々1万騎を率いてムハンマド捜索のためホラーサーンからエルブルズ山脈南麓を経由しイラン西北部、イラク、アゼルバイジャン、グルジアの各地を劫略、カフカース山脈(コーカサス山脈)を越境。ロシア平原など東欧に進出し、カルカ河畔の戦いにおいてキエフをはじめとするルーシ諸侯の大軍勢を打ち破るという大功を挙げる。

チンギス・ハーンの死後もオゴデイに従って宿老として活躍、1232年にはトゥルイ指揮下で左翼軍団の千戸長として従軍し、汴京(開封)陥落など金の滅亡戦でも功績を挙げる。その後は1236年に始まるバトゥのヨーロッパ遠征に副司令格として本営・中軍の宿将として従軍、更に功績を挙げたがオゴデイの死とともにヨーロッパ遠征軍が帰還すると隠退し、グユク治世に生地のトウラ河畔にあったウリャンカイ部の牧地において72歳で死去した。ちなみに子のウリヤンカダイ、孫のアジュも軍人としてモンゴルに仕えた。
posted by ただの中国史好き at 23:10 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
2012年01月30日

ジェベ

ジェベ 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 9 / 政治力 2 / 知力 4

ジェベはモンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)であるチンギス・ハーンの家臣で四狗(スブタイ、ジェルメ、クビライ、ジェベ)の一人。1206年のチンギス・ハーン即位時の功臣表では第47位に数えられる。
ベスト部の出身ではじめタイチウト部に属する隷属民だったが、1201年にタイチウト部がチンギス・ハーンと敵対した為にこれと戦い、チンギス・ハーンの乗馬を矢で射殺するという活躍を見せるものの敗北して投降。チンギス・ハーンは彼の武勇を賞賛して「矢」(もしくは戦馬)を意味するジェベの名を授け家臣に迎える。その後は万人長に昇進、チンギス・ハーンの先鋒を常に務め、金王朝やナイマン部、西遼攻略などで常に戦功を挙げ、大西征においても従軍。ホラズム朝討滅戦ではムハンマドを追撃して憤死せしめ、更に東欧の一部にまで進撃してカルカ河畔の戦いにおいてルーシ連合軍を破る戦功を挙げた。

チンギス・ハーンと敵対したことがあった為に警戒され、ジェベと常に行動を共にした四狗の一人スブタイはチンギス・ハーンの命令でジェベの監視役も含んでいたといわれる。ジェベは軍律に厳しい一面があり、部下が戦利品を私物化したのを知るとそれを没収して処罰、またチンギス・ハーンの帰還命令に対してスブタイが開戦を強硬に主張した時もスブタイを説得してチンギス・ハーンの命令にあくまでも従ったという。西遼征服後にかつて射殺したチンギス・ハーンの乗馬の特徴を備えた馬を大量に献じたりしたが、1225年にモンゴルに帰還途中で病を発し、死去。チンギス・ハーンはその死を深く惜しんだという。
posted by ただの中国史好き at 22:41 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
2012年01月28日

ボロクル

ボロクル 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 4 / 知力 5

ボロクルはモンゴル帝国初期の武将であり、四駿の1人。1206年のチンギス・ハーン第2即位での功臣リストでは第15位。
テムジン(後のチンギス・ハーン)がキヤト・ジユルキン氏族を滅ぼした時に、降服して来たジャライル部族の首長達のうち、後にジョチ・カサルの傅役となるジェブケという人物がジュルキン氏族の幕営地からまだ幼児だったボロクルを連れて来た。ジャライル部族の首長達は自分の子弟などをテムジンに目通りさせてテムジンやその家族のもとで養育や側仕えさせ、このなかにはムカリ等もいた。
成長すると、チンギス・ハーンの側近として活躍。ナイマン部に襲撃されたケレイト部の為に援軍を率いて活躍、その後ケレイト部と対立して決戦に至った際には重傷を負ったオゴデイを救い出す。

ボロクルはチンギス・ハーンに仕えた当初、侍衛集団であるケシクの一員として大膳職に任じられる。その後ケシクの長であるケシクトゥとなり、同時に万戸長にもなる。更にその後にチンギス・ハーン旗下の諸軍編成中、右翼軍の第二位に列せられる(右翼軍総司令官ボオルチュに準ずる副司令)。
1206年にオノン川河源で開かれたクリルタイによってモンゴル帝国が成立した時、88名の千戸長の1人に任ぜられてダルハン(モンゴル帝国において功臣に与えられる称号で、9度罪を犯しても免ぜられる)の特権が与えられた。1217年に帝国に叛旗を翻したトマト部討伐に向かった際に敵の斥侯に捕えられて殺される。
ボロクルの子孫はその功績によって第1ケシク(怯薛)の宿衛長を世襲。息子のトガンは父の職権を継ぎ、トガンの子シレムン、タガチャルの子孫はフビライの時代以降も代々万戸長になるなど譜代の功臣として栄えた。特にシレムンの息子ユチチャルはフビライ、テムルに仕え、録軍国重事、和林(カラコルム)行省左丞相となる。モンゴル高原駐留時のカイシャンには近侍してこれに仕え、太師、和林行省右丞相さらには淇陽王に封され、父トガンも淇陽王に封されている。タガチャルの息子にはベルグテイ、スルドタイがおり、ベルグテイはモンケの代に南宋遠征のおり蒙古・漢軍四万戸を率いたが戦死、スルドタイもモンゴル軍1万戸を率いてフビライの南宋遠征に従って襄陽・樊城の包囲に参加、更に鄂州、岳州、漢陽などへ攻め進み武功をあげる。
posted by ただの中国史好き at 00:04 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
2012年01月23日

チラウン

チラウン 能力データ
魅力 8 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 6

チラウンは父と共にタイチウト部の家人であったが、タイチウト部に捕えられていたテムジン(後のチンギス・ハーン)が逃亡した時に父と共にこれを助けた。後にタイチウト部がテムジンに敗れるとこれに仕え、ナイマン部との戦い等で活躍、モンゴル帝国成立後、父ソルカンシラが千戸長となり、チラウンは父や弟と共にダルハン(モンゴル帝国において功臣に与えられる称号で、9度罪を犯しても免ぜられる)の特権を得た。ソルカンシラが没すると千戸長の地位を継承。その後もチンギス・ハーンとの戦いに付き従ったが、早い時期に亡くなった。
四駿(ボオルチュムカリ、チラウン、ボロクル)の1人。
posted by ただの中国史好き at 00:12 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
2012年01月21日

ボオルチュ

ボオルチュ 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 5 / 知力 7

ボオルチュは1206年初春のチンギス・ハーン第二次即位の場面において88名の千戸長を選定した勲臣リストが載るが、うちボオルチュはイェスゲイに仕えたコンゴタン氏族のモンリク・エチゲに次ぐ勲臣第2位とされる。
父イェスゲイと部民を失い、困苦の日々を送っていたテムジン(後のチンギス・ハーン)一家はある日、遊牧民にとって財産である馬のほとんどを盗まれてしまう。奪回の為、追跡を開始した途中でテムジンがたまたま出会ったのがボオルチュ少年だった。テムジンから事情を聞いたボオルチュの行動が、目撃していた盗賊の追跡とそのアジトの強襲と劫掠の協力であり、13歳の少年とは思えないその義侠、不敵、智勇に感銘をうけたテムジンは、最初の部下として親友として行動を共にさせる。
以後、帝国初期の創業に参画、長じて屈指の勇者に成長。戦争に強いだけでなく政策の相談を受けることもあり、モンゴル草原制覇の後は中国北部、中央アジアに征旗を立て、誠忠と智勇はチンギス・ハーンが高く認めるところであった。

後にチンギス・ハーンは最も有能と認め信頼を寄せた四駿の一人、ムカリを得た。勲臣第3位のムカリや第7位のクビライを凌ぎ、チンギス・ハーンからオゴデイの時代に掛けてモンゴル帝国における全諸将筆頭で、特にモンリク・エチゲ、ココチュらコンゴタン氏族の勢力が失脚してからは名実共にモンゴル帝国の筆頭部将として活躍。事実、近代以前の最高軍事力のひとつであった十二万九千戸のモンゴル集団を分配した時、三万八千戸を統帥する最高統率者、右翼(バラウン・ガル)万戸長に任命され、トゥルイ家を補佐。封土はアルタイ山脈方面である。

ボオルチュの没年ははっきりしていない。その死後、爵位たる廣平王は息子のボロルタイがが継ぐ。ボロルタイはボオルチュの右翼軍を受け継ぎ、バトゥの西方遠征では宿将となるなど活躍、孫のユステムルは元朝の名臣として名高い。
posted by ただの中国史好き at 22:31 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
2012年01月15日

ムカリ

ムカリ 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 7 / 知力 7

ムカリはモンゴル帝国の初代大ハーンであるチンギス・ハーンの優秀なる側近四駿四狗の筆頭とも言える人物で、チンギス・ハーンの左翼諸軍に属す24の諸千戸隊を統括する万戸の長。ボオルチュと並ぶモンゴル帝国創業の大勲臣の一人であり、チンギス・ハーン即位時の功臣表ではモンリク・エチゲ、ボオルチュに次ぐ第3位に数えられ、死後に東平王、魯国王に封じられた。

後のチンギス・ハーンことテムジンがキヤト・ジュルキン氏族の首長、サチャ・ベキ、タイチュ兄弟を攻め滅ぼした時、ジュルキン氏族に仕えていたジャアト・ジャライル部族もテムジン一門に降伏。首長であったテレゲトゥ・バヤンの息子達はテムジンに帰順し、そのうちの一人グアン・ウアは息子のムカリ、ブカをテムジンに目通りさせて差し出し、ムカリとブカはテムジンの侍衛集団であるケシクに加えられ養育を受けることになる。
1196年頃からチンギス・ハーンに従ってモンゴル統一の過程で数々の武功を挙げた為、チンギス・ハーンが即位すると万人長に任じられる。金討伐でもチンギス・ハーンに従軍し、遼東・遼西平定で功績を挙げる。
1217年、チンギス・ハーンより国王の称号とゴビ砂漠以南の領土を与えられ、モンゴル族・契丹族・投降した女真族からなる大軍を委任され東方攻略を一手に引き受けた。ムカリは史天沢や厳実、張柔ら漢人軍閥を降伏させて味方に取り込むことで金討伐戦を有利なものとし、更に高麗王朝の服属にも成功。しかし晩年は老齢のためか次第に衰えが見え始め、また金の抵抗も激しく金の首都・開封戦では敗退し、失意のまま同年山西南部で死去した。54歳。
子孫はチンギス・ハーンの孫フビライの創設した元王朝の世襲貴族として仕え、ムカリの子バアトルはフビライの義兄弟として王朝創設に貢献。

ムカリは軍事能力だけでなく政治力にも長けており、モンゴルの人口不足を解消する為に無駄な殺戮は決して行なわず、労働力の確保に努めた。ところが1223年にムカリが没すると、息子のボオルがムカリ国王家の第二代当主となるが、ムカリ国王家による金朝領の経営が順調に進んでいないことを鑑みて皇帝オゴデイは金朝への親征に乗り出し、これを滅ぼす。この為、金朝の征服に前後して皇帝オゴデイ直下の中書省による華北経営権拡大や諸王家による所領の分割などの狭間でチンギス・ハーン治世以来の華北経営の方針が大きく転換、ムカリ国王家による華北経営権はほぼ全面的に失うことになった。
尚、モンゴル帝国の拡大とともにムカリも建国の功臣として崇敬の対象となり、ムカリ国王家の国王世襲はチンギス・ハーンより認められた特権とする認識が帝国内に定着し、その一族もモンゴル貴族社会では尊敬の対象とされた。国王の任命権そのものは大ハーンが有していたものの、その選出は国王家の内部の問題とされ、大ハーンが勝手に次の国王を定めたり、国王を廃することは出来ないとされたのである。
posted by ただの中国史好き at 22:19 | Comment(2) | 宋・遼・金時代
2012年01月10日

モンケ

モンケ 能力データ
魅力 6 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 7 / 知力 8

モンケはチンギス・ハーンの四男トゥルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男で、モンゴル帝国の第4代皇帝。若い頃から資質に優れ、父トゥルイと共に金の名将である完顔陳和尚を三峯山の戦いで破って大勝を収め、父の死によりトゥルイ家の当主となる。第2代モンゴル皇帝オゴデイの下でカラコルムのクリルタイにおいて諸国への遠征計画が発議された。その一つとしてジュチ家の当主バトゥを総司令としてヨーロッパ遠征が決議され、チンギス・ハーン家の各王家から次期当主クラスの王族達を選抜してこれに従軍させることとなった。モンケもトゥルイ家当主として異母弟のボチェク(トゥルイの七男)と共に従軍。遠征軍の総司令官となったバトゥに従ってまずヴォルガ・ブルガール地方に侵入し首都ブルガールを諸将筆頭のスブタイと共に征服、ついで翌年にはボチェクと共にキプチャク諸部族の首長バチュマンを追い詰めて捕殺する武功を挙げた。又、アラン人達の諸城制圧、ルーシ諸国征服においてはキエフ攻略で戦功を挙げる。

1241年にオゴデイが死去した為、本来ならばシレムンかモンケが後を継ぐ筈であったがオゴデイの皇后トゥラキナの政治工作で、オゴデイとトゥラキナの間に生まれた長男のグユクが後を継ぐこととなる。モンケはこれに不満を持つがトゥラキナ生存中は雌伏し、同じくグユクの即位に不満を持つジョチ家のバトゥと手を結ぶ。トゥラキナはグユクを見届けると、その2ヶ月後に病死。グユクはオゴデイ、チャガタイ両家での自勢力の支持基盤を固めようと強引に当主位の改廃を行い、さらに甥のシレムンも遠ざける。特に先年から反目していたジュチ家のバトゥとの対立が決定的となり、あわや内戦になりかけたが即位2年後の1248年にグユクも病死した。
バトゥはオゴデイ家とチャガタイ家から政権を奪い、帝国で最大勢力を誇るジュチ家とトゥルイ家が共同して帝国の国政再建を計画し、ソルコクタニ・ベキと連携。グユクの没した後、その皇后オグルガイミシュが摂政となったが、バトゥはソルコクタニ・ベキやモンケ、フビライ等トゥルイ家の王族達や有力諸将達と共に独自に集会を開き、ジュチ家とトゥルイ家が主催するクリルタイを強行し、全会一致でモンケを次期モンゴル皇帝に指名、モンケは全会一致をもってモンゴル帝国の第4代皇帝として即位した。
この時、後々の害になるとして先帝グユクの皇后として隠然たる影響力を持っていたオグルガイミシュ、更にはシレムン、イェス・モンケ等オゴデイ家やチャガタイ家の反対派を処刑、粛清している。

その後は皇帝としての地位と支配力を固めるべく、河北やトルキスタン等に行政府を設置するとともに財政政策に重点を置き、財政を潤わせる。更に次弟であるフビライを漠南漢地大総督に任じて南宋攻略を、三弟のフレグを征西方面軍の総司令官に任じてイラン方面を侵略させ、1258年にはアッバース朝を滅ぼしている。しかし、晩年のモンケは有能な次弟フビライの存在を恐れ、これを一時的に更迭した為に南宋攻略は遅れ、苛立ったモンケは自ら軍を率いて四川方面から南宋攻略を目指し、帝国諸軍に先行。突出して侵攻したがその途上、翌年に重慶を攻略した後に軍陣内で流行した悪疫にかかって死去した。
モンケは剛毅な性格で奢侈を好まず、シャーマン信仰に篤いモンゴル人である一方、学術教養にも深い理解を示した。モンケ自身数ヶ国語に通じていたうえ、暦を制定するためジャマールッディーンに天文台を建設させた。
posted by ただの中国史好き at 00:34 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
2012年01月07日

グユク

グユク 能力データ
魅力 5 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 4

グユクは第2代皇帝オゴデイの長子で第6皇后トゥラキナとの間に生まれた長男であり、モンゴル帝国の第3代皇帝。蒲鮮万奴を討ってこれを捕らえる功績を挙げ、父オゴデイがカラコルムを首都と定めた際、併せてこの時召集されたクリルタイでジュチ家の当主バトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍、三弟クチュ、次弟コデンらを総司令官とする南宋遠征軍、更には高麗へも軍を派遣することを決定し、グユクはオゴデイ家を代表してバトゥの西方遠征に従軍することになった。バトゥに次するトゥルイ家の長男モンケチャガタイ家のブリ等と共にルーシ遠征で活躍。
しかし他の兄弟をはじめ、特に従兄弟のバトゥと仲が悪く、他の王族たちと常に対立していた。遠征中の酒宴でブリがジュチ家の王子達と口論になり、遠征軍の総大将であるバトゥを面罵し、グユクもブリに同調。このことでジュチ家の王族達ともめた為、グユクの素行を知った父オゴデイは自身が一族の和を重んじる性格であったことから、一族の最有力者であるバトゥと仲の悪いグユクは自分の後継者として不適格と見なし、候補から除外していたとされる。実際、遠征中のバトゥからこの報告を受けた父オゴデイは激怒し、グユクは本国への召還を命じられるが、オゴデイは1241年グユクが本国に帰還する途上で病没してしまった。
父の死により、本国に最も近い場所にいたグユクは幸運にもハーン位を望むに一番優位な立場となった。
結果、生母トゥラキナが摂政として巧みな政治工作を行い、不仲の従弟バトゥの強硬な反対こそあったもののモンケを抑えて祖父チンギス・ハーン即位所縁の地であるココ・ナウルにおいて開催されたクリルタイで第3代モンゴル皇帝に即位することとなったのである。

即位後の10月、母のトゥラキナが病死すると自ら親政を開始。
軍事面で南宋・イラン諸地方・高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努める。そして自らもヨーロッパ遠征再開の為、一軍を率いて西征へ出発したものの、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク方面で43歳にて急死。かねてからの過度の酒色で健康を害したが為の病死といわれている。
グユクの死後、その皇后であったオグルガイミシュが摂政監国として国政を代行したが、バトゥとモンケらトゥルイ家の王族達はオグルガイミシュの招請を拒否して独自にクリルタイを開催。オグルガイミシュはこの動きに抵抗したが、ジュチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主達がバトゥとモンケの集会に参集したことに加え、シレムンやグユクの子であるホージャ・オグルやナグの兄弟も参加を表明するに及び、モンケがバトゥの支持を得て第4代モンゴル皇帝として即位した。
posted by ただの中国史好き at 23:53 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
2012年01月04日

トゥルイ

トゥルイ 能力データ
魅力 9 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 6 / 知力 7

トゥルイはチンギス・ハーンの四男でジュチチャガタイオゴデイの同母弟。
幼少時から英邁で武勇に優れ人望も厚く、チンギス・ハーンの正妻ボルテから生まれた末子だった為、末子相続の慣行に従って父の死までウルスの分封を受けずにその手元にもつ帝国の最有力王族であった。
1212年にはじまる第一次金遠征ではチンギス・ハーンが自ら指揮する中軍を率いて常に父の傍近くに仕え、河北から山東にかけての黄河河畔にいたる地域の征服で数々の勝利を収めた。1219年にホラズム朝遠征が開始されると、再びこれに従ってここでも中軍を率いてブハーラー、サマルカンドとその周辺などマーワラーアンナフル地方の諸都市の征服で指揮を採る。1220年秋にはホラズム朝のムハンマドの追撃にイラン方面へ転戦したジェベスブタイらの後詰めとして、トゥルイはアムダリヤ川を渡ってホラーサーン地方へ派遣され、この地方の主要都市ニサ、メルヴやニーシャープール、ヘラートなどを征服しているが、先鋒部隊を含めて幕僚に戦死者が出るなど激しい抵抗に遭い、又降服勧告を促す使者が殺害されて都市陥落の際には殲滅戦になるなど苦戦を強いられた。報復として投降した住民を虐殺してもいる。翌年にはムハンマドの三男でガズナ地方の領主ジャラールが大軍を率いて挙兵し、チンギス・ハーンがジュチ、チャガタイ、オゴデイらを引連れてこれをアフガニスタンとインダス河西岸で迎え撃ったときには、ホラーサーンに留まって本軍の後詰めを守った。1225年暮れに始まる西夏遠征では翌年2月にはオゴデイと共に父に随行して西夏領内に侵攻。トゥルイはこれらの諸戦役で父と共に各地を転戦して軍功を挙げ、その武名を轟かせた。

チンギス・ハーンが没すると父の所有していた家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民、軍隊の全てを相続し、親族中で飛び抜けた財力と軍事力を獲得、後継の大ハーン選出まで帝国の政務を代行する監国の地位に就く。そして2年後、後継の大ハーン選出にあたっては自身の即位を固辞し、父が生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを第二代大ハーンに推し、即位させた。
オゴデイが即位すると、4個千人隊のウルスしか所有しない兄オゴデイに、自身のウルスの大部分の指揮権を譲り、その一将軍に甘んじる。間も無くオゴデイを中心に金に対する作戦が発動されると、右翼軍司令官として参戦、金領西部の山間部に侵攻し完顔陳和尚率いる金軍を三峰山の戦いで破って主力を壊滅させる戦功を挙げる。
しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死。
トゥルイの莫大な遺産はケレイト部族出身の妃ソルコクタニ・ベキを経て、両人の優秀なる息子達、モンケフビライ、フレグ、アリクブカの四子に継承され後の大元、イルハン朝の基盤となった。
posted by ただの中国史好き at 22:48 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
2012年01月03日

チャガタイ

チャガタイ 能力データ
魅力 5 / 統率力 6 / 戦闘力 7 / 政治力 4 / 知力 5

チャガタイはチンギス・ハーンの次男でジュチの弟、オゴデイトゥルイの兄にあたる。
長兄ジュチとは、ジュチの出生の疑惑などをめぐって険悪な仲であり、またチャガタイ自身が激しい気性と一本気な性格の持ち主であった為に一族の和を重んじる父チンギス・ハーンから後継者候補より除外されていた。しかし、法に対して厳格な一面があった為、それを父に見込まれてモンゴル帝国の法律・ヤサの管理を任され「ヤサの番人」の異名をとった。
チャガタイは父に従って金討伐や大西征に従軍し、オトラル攻略等で戦功を挙げたことから西遼の旧領を与えられ、後のチャガタイ・ハン国の祖となった。そしてこの地を治める為にモンゴル帝国の法律であるヤサの遵守を強制したが、モンゴルの風習とこの地の風習は相反するものが多く、ヤサを強制された民衆はチャガタイを大いに恨んだという。
弟オゴデイとは仲が良く、父の死後はその遺言に従ってオゴデイの即位を支持。このことから第2代ハーンとなったオゴデイも兄であるチャガタイを大いに尊重し、政策決定の場においては常に相談相手する。1242年、前年に没したオゴデイの後を追うように没した。

チャガタイの長男はイェスルン・ハトゥンから生まれたモエトゥケンで、チャガタイ・ウルスの宗家は彼の家系に始まる。次男はモチ・イェベ。三男はモエトゥケン戦死後に一旦後継者に選ばれたものの夭折したベルガシ。四男はサルバン。五男がチャガタイ・ウルス第3代当主になったイェス・モンケ。そして六男は第5代当主アルグの父で大元ウルスのチュベイ王家の父祖ともなったバイダルである。
こう列挙すると、遺伝なのか四兄弟の中で最も子の才能には恵まれなかったと言える。
posted by ただの中国史好き at 00:47 | Comment(2) | 宋・遼・金時代
2011年12月30日

ジュチ

ジュチ 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 3 / 知力 5

ジュチはチンギス・ハーンの第一夫人ボルテを母とする嫡出の長男で、同母弟にチャガタイオゴデイトゥルイの3人がいる。若い頃から父に従いモンゴル高原の統一に至る戦いに参加、特に西方の強国ナイマンとの戦いで活躍した。
チンギス・ハーンが金への遠征を開始した時には、同じく帝国の西部にウルスを持つ二人の弟チャガタイ、オゴデイと共に全体の右翼軍(西部軍)を率いる将領として参加、山西地方を席捲して諸城を陥落させる。1219年から始まる西方遠征でも右翼の指揮官として中央アジア北部を進み、戦役の発端となった町オトラルを攻略した後、スィル川沿いに下ってスィグナク、ジャンド、ヤンギカントを征服。スィグナクではジュチが攻撃に先立って降伏を要求する為に送った使者を住民が惨殺した為、モンゴル軍は攻略後に町を徹底的に破壊、住民を皆殺しにした。
その後、中央アジアの中枢トランスオクシアナからアム川沿いに下ってホラズム朝の本拠地ホラズムの主邑ウルゲンチを攻撃したが、彼は共に攻撃を担当したすぐ下の弟チャガタイと不和だったために攻略に手間取ることがあった。この為に兄弟は父チンギス・ハーンの不興を買ったが、二人の兄いずれとも仲の良い弟のオゴデイが兄の間にたって指揮をとり、事なきを得た。
ジュチの攻城は相手が降伏するのを待つという戦法を取ることが多く、進軍速度を緩めてしまったという評価が強い。その為、従来通りの戦法を取るチャガタイとは元々の不和もあいまって、ウルゲンチのような事態を引き起こしたと見られる。実際にウルゲンチにおいても彼は、降伏交渉を行っている。
チンギス・ハーンはこの頃、4人の嫡子の内から後継者を選び、温和な三男のオゴデイが後継者に指名された。この時、チンギス・ハーンは実際に諸子を集めて自分の後継者に誰がふさわしいか意見させたが、その場でジュチとチャガタイが口論となり、二人がお互いをハーンにふさわしくないと言い合ったので、次の弟で人望のあるオゴデイが立てられたという。

中央アジア遠征の後、ジュチは西方に広がったモンゴル帝国領のうち、4個千人隊と北部の良質な草原を遊牧地として与えられ、ジュチウルスは本領のイルティシュ川上流域からバルハシ湖の北からアラル海の方面に至る草原地帯(カザフ草原、現在のカザフスタン)に広がった。更にチンギス・ハーンによってアラル海の北からカスピ海の北に広がる草原地帯の諸族の征服を委ねられ、チンギス・ハーンがモンゴル高原に帰還した後もジュチはカザフ草原に残って北西方への拡大を担当することになった。
しかし、この間にジョチは病を発し、軍を進めることが出来なくなる。しかし、モンゴル高原にはジュチが狩猟に興じて軍事を疎かにし、謀反の兆し有りという噂が伝わっており、激怒したチンギス・ハーンはジュチに対して召還命令を下したが病のために帰還することが出来ず父に先立って病没してしまった。
一方、チンギス・ハーンはジュチが召還命令に従わないのでいよいよ討伐の軍を送ろうとまでしていたが、そこに病没の報が伝わり、大いに悲しみ落胆した。

出生についての疑惑が生涯暗い影を落としてしまったジュチだが、そもそもメルキトがチンギス・ハーンの母であるホエルンを略奪された復讐としてボルテを略奪し、ホエルンの元夫の弟にボルテを結婚させる。一方、逃げ延びた当時のテムジンはトオリル・ハーンとジャムカの助けを得てメルキトを討ち、ボルテを取り戻すが、その時ボルテは妊娠して出産間近であり、間も無くジュチが生まれる。
この為、ジュチはメルキトの子ではないかと疑われ、後にすぐ下の弟チャガタイは父の面前でジュチをメルキトの子と罵ったが、チンギス・ハーンはあくまでジュチを長男として扱った。
子にオルダ、バトゥ、ベルケなどがいる。
posted by ただの中国史好き at 22:54 | Comment(2) | 宋・遼・金時代
2011年12月25日

オゴデイ

オゴデイ 能力データ
魅力 9 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 7 / 知力 7

オゴデイは父チンギス・ハーンに従い、モンゴル統一や金遠征、大西征に従軍。特に大西征においてはホラズム朝の討伐で戦功を挙げ、その功績によりナイマン部の所領を与えられた(オゴデイ・ウルス)。オゴデイにはジュチチャガタイという2人の有能な兄がいたが、ジュチは出生疑惑をめぐるチャガダイとの不和から、チャガタイは気性が激しすぎるところからチンギス・ハーンから後継者として不適格と見なされた一方、オゴデイは温厚で一族の和をよくまとめる人物であった為、父から後継者として指名された。
父の死後、モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオゴデイの弟でチンギス・ハーンの末子に当たるトゥルイを後継者に求める声があった。これは慣習だけではなく、トゥルイ自身が智勇兼備の名将であったうえ周囲からの人望も厚かったこと、父時代に立てた多数の武勲などが要因であるが、トゥルイはこれを固辞してあくまで父の指名に従うと表明し、1229年9月13日のクリルタイでオゴデイはチャガタイやトゥルイの協力のもと、第2代モンゴル皇帝に即位することとなったのである。

その後、オゴデイは父の覇業を受け継ぐべくトゥルイの活躍で金の名将、完顔陳和尚率いる金軍を壊滅させ、1234年までに金を完全に滅ぼす。更に首都としてカラコルムの建設を行い、同地でクリルタイを開催。南宋方面とキプチャク草原からルーシ・東欧に至る西方遠征の二大遠征と、併せて高麗、カシュミールへの遠征計画を決議した。南方遠征については、総司令として中央軍を三男のクチュに任じて山西経由で南下させ、次男コデン率いる西路軍を陝西・四川方面へ派遣しこれを征服させた。
1236年からは甥でジュチ家の当主であったバトゥを総司令官とし、功臣スブタイを宿将としつつ長男グユクやトゥルイ家の当主モンケなど各モンゴル王家の後継者クラスの王族たちを派遣し、ヴォルガ・ブルガール、キプチャク諸部族、カフカス北部、ルーシ諸国、ハンガリー王国(アールパード朝)、ポーランド王国(ピャスト朝)など東欧の大半までを制圧するに至る。しかし、南宋に送り出した遠征軍は、皇太子のクチュが陣中で没したために失敗に終わった。

内政面においては父時代からの大功臣でウイグル人財務総監のチンカイやマフムード・ヤラワチ、耶律楚材らを重用し、全国に駅伝制を導入して領土が拡大した帝国内の連絡密度を高めた。またオルホン河畔に首都カラコルムを建設し、農耕地、都市部の管轄のために中書省を設けた。しかし相次ぐ対外遠征や新首都建設などからの財政悪化、さらには急激に拡大しすぎた領土間の連絡が密に取れず、次第に帝国の一族間における分裂などが顕著になったこと、そして何よりもオゴデイの長男グユクとバトゥの対立が決定的となって一族間に不和が生まれたことなどが、オゴデイの晩年には大きな癌となる。

1241年に大猟を催し、ウテグ・クラン山で幕営し深夜まで飲酒に興じていたが、翌朝、寝床で絶命。56歳。過度の酒色で健康を害して死去したものとされる。死後はチンギス・ハーン、ボルテと同じく起輦谷に葬られた。
オゴデイは生前、後継者として3男のクチュを指名していたが、不幸にも早世。それ以外の息子(グユク以外)のほとんどは早世してしまっていた。この為、生前はクチュの長男シレムンを後継者とし、あるいは甥にあたるトゥルイの長男モンケを後継者として考えていたらしいが、オゴデイの死後、皇后のトゥラキナによる巧みな政治工作でグユクが第3代ハーンに選出された。
posted by ただの中国史好き at 20:55 | Comment(2) | 宋・遼・金時代
2011年12月23日

チンギス・ハーン

チンギス・ハーン 能力データ
魅力 10 / 統率力 10 / 戦闘力 8 / 政治力 6 / 知力 8

遊牧騎馬民族のモンゴルにおいて、テムジン(後のチンギス・ハーン)の父がタタール部族に毒殺されたのは彼が13歳の時であった。ライバルのタイチウト族に命を狙われ、沼に身を沈め藻草に顔を隠して息をしながら敵の追跡を逃れ、新婚早々に最愛の妻ボルテをメルキト族に奪い去られ苦難の連続であったが、かえってこの逆境がチンギス・ハーンの政治、軍事上の天賦の才に磨きをかけた。
成年に達したチンギス・ハーンは、ケレイト部族の長ワン・ハンと盟友ジャムカの助力によってメルキトへ復讐を果たし、その寛容と仁慈の人格が以後周辺の諸部族を味方につけてゆく。そして遂に父の仇であるタタール族を討ってこれを従え、離合集散が常であった全遊牧民族の統一者として部族長会議(クリルタイ)で大汗(ハーン)の地位につき、チンギス・ハーンとなる。
このクリルタイが開かれた時、チンギス・ハーンは既に最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市攻略に苦戦し、講和はしたものの西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせる。更に同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功。

一方、両雄並び立たずでジャムカと即位をきっかけに敵対するに至り、ジャムカは従者の裏切りで捕縛。チンギス・ハーンの面前に引き出されると、チンギス・ハーンは罪を許すがジャムカは死を要求、やむなくモンゴル特別の恩典を用いて絞首刑にする。
盟友を斃して最終的な勝利者となったチンギス・ハーンは、着々と帝国の建設を進める。まず中国に対する遠征の準備をすすめて金と開戦。三軍に分かたれたモンゴル軍は長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍、金の軍隊を撃破して北中国を荒らす。西夏戦で攻城戦の経験を積み学習したモンゴル軍は、やがて戦争史上最も活躍し最も成功した都市征服者となるのである。当時約5000万人いた中国の人口が僅か30年後に約900万人になったことからも、当時の虐殺の規模が窺い知れる。
こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と都市攻略の成功の結果、チンギス・ハーンは1213年には万里の長城の遥か南まで金の領土を征服、併合していた。翌1214年、金と和約を結んで一旦軍を引くが、和約直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南の開封に首都を移した事を背信行為と咎め、再び金を攻撃。翌年、モンゴル軍は金の従来の首都、燕京(現在の北京)を包囲し陥落させる。後に後継者オゴデイの時代に活躍する耶律楚材は、この時チンギス・ハーンに見出されてその側近となっている。燕京を落としたチンギス・ハーンは将軍ムカリを燕京に残留させ、その後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。

この頃、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、西遼最後の君主チルクから王位を簒奪していた。モンゴル帝国は西遼の混乱をみてクチュルクを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力はこの時までに西夏と金に対する継続的な遠征の10年によって疲弊していた。そこで、チンギス・ハーンは腹心の将軍ジェベに2万の軍を与えて先鋒隊として送り込み、敵国を大いに打ち破る。カシュガルの西で敗れ、敗走したクチュルクはやがてモンゴルに捕えられ処刑され、西遼の旧領はモンゴルに併合された。この遠征の成功により、1218年までにはモンゴル帝国は西はバルハシ湖まで拡大、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム朝に接することとなった。
1218年、チンギス・ハーンはホラズム朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者がこれを虐殺。その報復としてチンギス・ハーンは末弟テムゲ・オッチギンにモンゴル本土の留守居役を任せ、自らジュチチャガタイオゴデイトゥルイら嫡子達を含む20万の大軍を率いて中央アジア遠征を行い、シルダリア川流域に到達。モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチを悉く征服。モンゴル軍の侵攻は極めて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊された。ホラズム朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、1220年までにほぼ崩壊したのである。

ホラズム朝のムハンマド国王はモンゴル軍の追撃を逃れて遥か西方に去ったため、チンギス・ハーンはジェベスブタイを追討に派遣。彼等の軍がイランを進むうちにムハンマドはカスピ海上の島で窮死するが、ジェベとスブタイはそのまま西進を続けてカフカスを経て南ロシアにまで達した。彼らの軍はキプチャクやルーシ諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅威はヨーロッパにまで伝えられた。
一方、チンギス・ハーン率いる本隊は、王子ジャラールを追って南下を開始。モンゴル軍は各地で敵軍を破り、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、バーミヤーンといった古代からの大都市を悉く破壊、住民を虐殺した。アフガニスタン、ホラーサーン方面での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、ジャラールの抵抗に苦戦を強いられていた。
チンギス・ハーンはジャラールをインダス河畔まで追い詰め撃破するが、ジャラールはインダス川を渡ってインドに逃げ去る。寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切って帰路につく。チンギス・ハーンは中央アジアの北方でジェベ、スブタイの別働隊と合流し、1225年になってようやく帰国した。

西征から帰ったチンギス・ハーンは広大になった領地を分割し、ジュチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。末子トゥルイにはその時点では何も与えられなかったが、チンギス・ハーンの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。しかし、後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。
これ以前、臣下となっていた西夏皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否したうえにチンギス・ハーンがイランにいる間に金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。遠征から帰ったチンギス・ハーンはこれを知ってほとんど休む間も無く西夏に対する懲罰遠征を決意。モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略。冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲した。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。
翌1227年、チンギス・ハーンは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて陝西・河南の金領を侵させる。自らは残る部隊と共に諸都市を攻略した後、興慶を離れて南宋との国境、すなわち四川方面に向かったものの、陣中で危篤に陥る。この為、モンゴル軍本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、1227年にチンギス・ハーンは陣中で死去。その死は伏せられたまま全軍粛々と北帰し、遺体はモンゴル高原の起輦谷へ葬られた。これ以後、大元ウルス末期まで歴代のモンゴル皇帝達はこの起輦谷へ葬られた。
彼は死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトゥルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。

チンギス・ハーンが作ったモンゴル軍は、戦時において千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することの出来る軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3〜4頭の馬がいる為に常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。よって、大陸における機動力は当時世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたのである。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・ハーン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命され、統括の任を委ねられた。このような左右両翼構造の更に東西では、東部の大興安嶺方面にチンギス・ハーンの3人の弟であるジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギス・ハーンの3人の息子であるジュチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。こうして、チンギス・ハーンの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造はモンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。

大小様々な集団に分かれ、互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服。最終的には当時の世界人口の半数以上を支配するに致る人類史上最大規模の世界帝国「モンゴル帝国」の基盤を築き上げた。
死後、その帝国は百数十年を経て解体となったが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神となり、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。
posted by ただの中国史好き at 23:14 | Comment(2) | 宋・遼・金時代
2006年05月02日

秦檜

秦檜 能力データ
魅力 0 / 統率力 2 / 戦闘力 2 / 政治力 6 / 知力 6

秦檜は、中国史上最高の英雄とも言うべき岳飛を死に追いやった張本人。
北宗滅亡時に、秦檜も一族もろとも金へ拉致されるが、金首脳によって宗に送り込まれ、以後秦檜は南宋では徹底した非戦論者となり、主戦論者を弾圧。その最たる岳飛を批判、謀反の罪を被せて投獄し、殺した。この売国奴ぶりを後世ずっと非難され、今も杭州に有る岳飛の武神「岳王廟」の前で秦檜は妻とともに裸で首に鉄鎖を掛けられ、後ろ手に縛られた形で像として残っている。そしてその像には皆が怒りをこめて尿を掛けるという。
posted by ただの中国史好き at 21:20 | Comment(5) | 宋・遼・金時代
2006年04月17日

文天祥

文天祥 能力データ
魅力 8 / 統率力 5 / 戦闘力 4 / 政治力 7 / 知力 8

文天祥は、20歳で進士に受かった俊才。試験の答案を見た南宋の時の皇帝理宗は、文天祥を一番と太鼓判を押した。
文天祥が24歳の時に元の猛攻を受け、遷都が論じられるが、彼の叱咤激励によって止まる。だが、姦臣賈似道に疎まれ辞任。以降は在野の身となってフビライ・ハーン率いる大元の侵略にゲリラ戦で対抗する。
文天祥や陸秀夫、張世傑の抗戦虚しく、やがて都臨安は陥落。陸秀夫は幼帝を背負って海に身を投じ、宗王朝は元によって滅ぼされた(宋王朝滅亡時の殉死者は歴代王朝中、群を抜いて最多)。
文天祥は元軍に捕らえられ投獄されるが、フビライ・ハーンの度重なる降服勧告を拒否。史上に有名な「正気の歌」を残して獄死した。

「正気の歌」
天地に正気有り 雑然として流形を賦く
下りては則ち河嶽と為り 上りては則ち日星と為る
人に於ては浩然と曰い 沛乎として蒼冥に塞つ
皇路清夷なるに当たりては 和を含みて明廷に吐く
時窮すれば節乃ち見れ 一一丹青に垂る
斉に在りては太史の簡 晋に在りては董狐の筆
秦に在りては張良の椎 漢に在りては蘇武の節
厳将軍の頭と為り 嵆侍中の血と為る
張睢陽の歯と為り 顔常山の舌と為る
或いは遼東の帽と為り 清操氷雪よりも獅オ
或いは出師の表と為り 鬼神も壮烈に泣く
或いは江を渡る楫と為り 慷慨胡羯を呑む
或いは賊を撃つ笏と為り 逆豎の頭破れ裂く
是の気の旁簿する所 凛列として万古に存す
其の日月を貫くに当っては 生死安んぞ論ずるに足らん
地維は頼って以って立ち 天柱は頼って以って尊し
三綱 実に命に係り 道義 之が根と為る
嗟 予 陽九に遘い 隷や実に力めず
楚囚 其の冠を纓し 伝車窮北に送らる
鼎鑊 甘きこと飴の如きも 之を求めて得可からず
陰房 鬼火闃として 春院 天の黒さに閟ざさる
牛驥 一pを同じうし 鶏棲に鳳凰食らう
一朝霧露を蒙らば 分として溝中の瘠と作らん
此如くして寒暑を再びす 百沴自ら辟易す
嗟しい哉沮洳の場の 我が安楽国と為る
豈に他の繆巧有らんや 陰陽も賊なう不能ず
顧れば此の耿耿として在り 仰いで浮雲の白きを視る
悠悠として我が心悲しむ 蒼天曷んぞ極まり有らん
哲人 日に已に遠く 典刑 夙昔に在り
風簷 書を展べて読めば 古道 顔色を照らす
(訳)
この宇宙には森羅万象の根本たる気があり、本来その場に応じてさまざまな形をとる。
それは地に下っては大河や高山となり、天に上っては太陽や星となる。
人の中にあっては、孟子の言うところの「浩然」と呼ばれ、見る見る広がって大空いっぱいに満ちる。
政治の大道が清く平らかなとき、それは穏やかで立派な朝廷となり、
時代が行き詰ると節々となって世に現れ、一つひとつ歴史に記される。
例えば、春秋斉にあっては崔杼の弑逆を記した太史の簡。春秋晋にあっては趙盾を指弾した董狐の筆。
秦にあっては始皇帝に投げつけられた張良の椎。漢にあっては19年間握り続けられた蘇武の節。
断たれようとしても屈しなかった厳顔の頭。皇帝を守ってその衣を染めた嵆紹の血。
食いしばり続けて砕け散った張巡の歯。切り取られても罵り続けた顔杲卿の舌。
ある時は遼東に隠れた管寧の帽子となって、その清い貞節は氷雪よりも厳しく、
ある時は諸葛亮の奉じた出師の表となり、鬼神もその壮烈さに涙を流す。
またある時は北伐に向かう祖逖の船の舵となって、その気概は胡を飲み、
更にある時は賊の額を打つ段秀実の笏となり、裏切り者の青二才の頭は破れ裂けた。
この正気の満ち溢れるところ、厳しく永遠に存在し続ける。
それが天高く日と月を貫くとき、生死などどうして問題にできよう。
地を保つ綱は正気のおかげで立ち、天を支える柱も正気の力でそびえている。
君臣・親子・夫婦の関係も正気がその本命に係わっており、道義も正気がその根底となる。
ああ、私は天下災いのときに遭い、陛下の奴僕たるに努力が足りず、
かの鍾儀のように衣冠を正したまま、駅伝の車で北の果てに送られてきた。
釜茹での刑も飴のように甘いことと、願ったものの叶えられず、
日の入らぬ牢に鬼火がひっそりと燃え、春の中庭も空が暗く閉ざされる。
牛と名馬が飼い馬桶を共にし、鶏の巣で食事をしている鳳凰のような私。
ある朝湿気にあてられ、どぶに転がる痩せた屍になるだろう。
そう思いつつ2年も経った。病もおのずと避けてしまったのだ。
ああ!なんと言うことだ。このぬかるみが、私にとっての極楽になるとは。
何かうまい工夫をしたわけでもないのに、陰陽の変化も私を損なうことができないのだ。
何故かと振り返ってみれば、私の中に正気が煌々と光り輝いているからだ。そして仰げば見える、浮かぶ雲の白さよ。
茫漠とした私の心の悲しみ、この青空のどこに果てがあるのだろうか。
賢人のいた時代はすでに遠い昔だが、その模範は太古から伝わる。
風吹く軒に書を広げて読めば、古人の道は私の顔を照らす。
posted by ただの中国史好き at 21:24 | Comment(4) | 宋・遼・金時代

岳飛

岳飛 能力データ
魅力 9 / 統率力 9 / 戦闘力 7 / 政治力 1 / 知力 5

貧農出身ながら北宋末期に募兵に応じて一兵卒となり、以降岳飛は持ち前の統率力で瞬く間に将となる。
宋は金の侵攻になすすべ無く防戦一方だった中、岳飛の連戦連勝の活躍に高宗皇帝自ら「精忠岳飛」と手書した旗を与えた程。
岳飛は韓世忠とともに度々金を破り、逆に攻め上がろうとするが、和平論者の秦檜によって妨げられる。金の名将宗弼も岳飛だけは大いに恐れ、秦檜を脅して岳飛を投獄させる。
尋問の時、岳飛の背中には「尽忠報国」の四文字が彫られていたが、後に毒殺される。南宋がこの後、滅亡への道をひた走った事は言うまでも無い。

中国が誇る史上最高のヒーロー。
posted by ただの中国史好き at 13:05 | Comment(6) | 宋・遼・金時代
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。