2010年12月28日

李勣

李勣 能力データ
魅力 7 / 統率力 9 / 戦闘力 5 / 政治力 5 / 知力 9

李勣(本名:徐世勣)は李靖と並ぶ唐の二大軍師。十代で叛乱軍の軍師となり、二十代で唐の軍師となった。
17歳の時から煬帝の圧政に反抗し叛乱軍を組織、翟譲をボスに推して自身が実権を握って瓦崗寨(水滸伝の梁山泊と並ぶアウトローの別天地)に立て籠もり、隋最後の名将張須陀を戦死させるなど次々に隋軍を打ち破っていった。
この時、実際に作戦立案し指導した李密が翟譲を謀殺、洛陽の近くに本拠地を移して魏を立国し魏公となるが、王世充に一戦で破れた為に魏の将軍達が大挙して唐の李淵に降伏する中、李勣は自身の軍を率いて城に立て籠もる。李淵が降伏し唐に仕えるよう言ってくると、自身は李密と折り合いが悪いが李密の部下であり、李密を通してでなければ帰順出来ないと言って感心させる。そして619年、26歳の時に唐に降る。唐では彼を厚遇して国姓である李を与え、李世勣と名乗らせるが後に太宗李世民を避諱して李勣と改めた。

その後、王世充など群雄討伐に尽力。李世民即位後は対外民族との戦いに参加し、630年には李靖と突厥討伐で活躍、太宗死後の645年には百済を滅ぼした後に70年に渡って唐以前から中国東側国境を脅かしてきた高句麗を滅ぼす大殊勲をあげる。この時、李勣75歳。
太宗の後継者問題や高宗と則天武后の結婚を暗に容認するなど、宮廷内の権力争いに無関心であった。
posted by ただの中国史好き at 05:58 | Comment(4) | 唐時代
2010年12月25日

李世民

李世民 能力データ
魅力 10 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 10 / 知力 10

李世民は中国史上最高とも言える唐の第二代皇帝太宗。
十代で父李淵を担いで起兵し二十代で天下を取ったが、二十代にして実力で天下を取ったのは中国史上、楚の項羽と李世民の二人だけである。項羽が一代で滅びたのに対して唐は300年近く続いたわけで、まさに空前絶後の覇王。

16歳の時、隋の煬帝が雁門において突厥に包囲されると、李世民は煬帝救出に尽力。また父である李淵が歴山飛の包囲下に置かれたときは、軽騎を率いて救援した。617年、李淵が太原で起兵すると、右領軍大都督・敦煌郡公となって長安に向けて進軍。宋老生を撃破し、長安を平定すると、秦国公に封ぜられた。618年、唐が建国されると6月に李世民は秦王に封ぜられ、尚書令に任じられている。唐朝では即位前の李世民が尚書令に任じられたため、皇帝の前職に臣下を就任させることを忌避し、滅亡まで尚書令は欠員となった。
李世民は武将として優れた才能を発揮し、薛仁杲、劉武周、王世充、竇建徳、劉黒闥といった隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たす。建国の戦功に比してその地位が報われていないと李世民とその側近達は不満を有するようになり、高祖李淵はその対策として天策上将なる称号を李世民に与え、また弘義宮と言う宮殿を新たに築き、これを与えた。李建成も李世民に対抗し、高祖に訴えて李世民の謀士である房玄齢と杜如晦を遠ざけるなどの対抗策を採ったが、李世民は二人と密かに連絡し、626年6月、長安宮廷の玄武門で李建成と弟の李元吉を殺害する事件を起こした(玄武門の変)。この政変により、高祖は8月に李世民に譲位し、事態の収拾を図った。

627年、元号を貞観と改元。房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなる。629年、充実した国力を背景に突厥討伐を実施。李靖李勣を登用して出兵し、630年には突厥を崩壊させ、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し太宗に天可汗の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である可汗より更に上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。更に640年、西域の高昌国を滅亡させ西域交易の重要拠点を直轄領とした。

文化的にもそれまで纏められていた「晋書」「梁書」「陳書」「周書」「隋書」の正史を編纂させ、特に「晋書」の王羲之伝では自ら注釈を行った。また645年には玄奘がインドより仏経典を持ち帰っており太宗李世民は玄奘を支援して漢訳を行わせている。これらの充実した政策により李世民の治世を貞観の治と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。「旧唐書」では「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれている。後世、太宗李世民と臣下たちの問答が「貞観政要」として編纂されている。

李世民の晩年は立太子問題が発生。当初立太子されたのは長子の李承乾であったが、弟の魏王李泰を偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を図ったとして廃された。魏王も朋党を組んでいて不適格だとして、皇后の兄である長孫無忌の意向により、最も凡庸な李治(後の高宗)を皇太子としたが、この立太子問題が後の則天武后の台頭の要因となることとなった。
644年、高句麗へ遠征(麗唐戦争)するも失敗に終わり、それから5年後の649年に崩御。
posted by ただの中国史好き at 21:09 | Comment(11) | 唐時代

李靖

李靖 能力データ
魅力 6 / 統率力 10 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 7

中国史上屈指の名将。
養父韓擒虎も世渡りが下手で隋の朝廷において不遇だったが、李靖はそれにも増して世渡りが下手だった為、韓擒虎が亡くなると後楯を失って50歳くらいまで出世の機会を得ずにいた。一度、楊素邸に招かれその軍事理論を話すると、楊素は「卿はいずれこの椅子に座ることになるだろう」と言って感心したという。
李世民が父の李淵を担ぎ起兵した時、隋に仕えていた李靖は煬帝に急報を届けようとするが捕まり、李淵が処刑しようとするところをその才能を見込んだ李世民に許されて帷幕に加わる。李靖もまた李世民に惚れ込み、忠誠を尽くして後に凌煙閣に李世民が功臣24人の姿を描かせた際、武臣第一等に描かれる。

李靖は王世充ら隋末の群雄討伐、江南平定に従い、629年に北方の騎馬民族である突厥が侵攻してくると行軍総管となって防御。以後は対外民族との戦いに従事するようになる。特に629〜630年の突厥討伐においては、騎兵隊(恐らく中国史上最強の騎兵隊で副将が李勣、その他の将として尉遅敬徳程知節)を率いて唐北部の一大勢力であった突厥の本拠を急襲し、たった一日で陥落させる。頡利可汗は逃亡するが李靖は冬のモンゴル高原、敵地の中深く侵入してことごとく突厥軍を破り頡利可汗を捕縛、突厥を滅ぼす大殊勲をたてる。又、634年に吐谷渾が侵入するとこれを撃退して唐の勢力確立に成功。
騎馬遊牧民族帝国である突厥に正面から騎兵戦でことごとく勝ち、滅ぼした李靖は中国史においては突出した騎兵戦の天才であり、唐安定の第一功績者でもある。後に衛国公に封じられ、李靖と太宗李世民の対話は「李衛公問対」という書物にまとめられて兵法書として高い評価を受けている。
posted by ただの中国史好き at 00:05 | Comment(0) | 唐時代
2010年11月23日

羅士信

羅士信 能力データ
魅力 6 / 統率力 6 / 戦闘力 8 / 政治力 2 / 知力 4

張須陀が義勇軍を募った時、14歳の少年が応募して来た。張須陀が「君の身体に合うような鎧は無いから帰りなさい。」と言うと、羅士信というその少年は憤然としてその場で大人用の鎧を二重に着込んですっくと立って見せる。流石の張須陀も笑って「分かった。君に私の馬をやろう。」と言ってそれ以降連れて歩くようになったという。ちなみにその時、二つの鎧を重ね着した状態で濰水の上で奮戦し、数人の敵を刺して一人の首を空中に飛ばして敵をひるませた。
以後も羅士信は秦叔宝と共にいくつもの戦いで活躍、張須陀が李密の計にかかって死ぬと魏に仕え、秦叔宝、単雄信、王伯當、程知節とならぶ武将となるが、唐に敗れた際に唐に帰順。20歳の時、敵に捕らえられて降伏を勧められるが断って処刑され、短い生涯を閉じた。
posted by ただの中国史好き at 21:55 | Comment(0) | 唐時代
2010年11月20日

ソンツェン・ガンポ

ソンツェン・ガンポ 能力データ
魅力 6 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 7 / 知力 7

李世民が大唐帝国を隆々と栄えさせ始めたころ、史上初めてチベット統一を果たした英傑が出現する。ソンツェン・ガンポである。
ソンツェン・ガンポはガルトンツェンという名宰相を迎えて内政を整備、周辺諸王を威圧屈服せしめて6世紀末〜7世紀初めにかけてチベット諸族を統一し、北東は青海の西辺ツァイダム地方、南はネパール北辺までを領有して唐の西境を脅かす吐蕃王朝(王宮をラサに築いて遷都)を世に現出させた。

634年に初めて唐に遣使して唐の公主との婚姻を求めたが、李世民は返答を保留。ソンツェン・ガンポは李世民が吐谷渾には公主を与える約束をしたのを知って怒り、唐の松州(四川省)を連年侵攻して四方経略した為、唐軍惨敗を受けて唐は吐蕃を懐柔すべく公主を与えることを約した。これにより唐の文成公主はソンツェン・ガンポの子グンソン・グンツェン王に嫁したが、ほどなくグンソンが落馬により死亡、ソンツェン・ガンポが復位。文成公主は吐蕃の風習に従ってソンツェン・ガンポに再嫁した。
又、ソンツェン・ガンポはネパール王女チツンを納れて妃とし、同時にその地の密教を取り入れる。この両妃の篤い信仰が国内的に仏教の弘通を助け、老境に進むソンツェン・ガンポ王の勇敢果敢の性を和らげ、攻城野戦の快を遠ざける結果となったと言えるだろう。

更にソンツェン・ガンポは大臣の子弟16人を中インドのマガダ国に遊学させ、仏教学およびサンスクリットを学ぶべき任務を課した。彼等は修行7年後に帰国してチベット文字という新字体を案出。王自ら奮ってこれを学び一般に普及せしめるなど、文化の面でも偉大な功績を遺した。
posted by ただの中国史好き at 23:57 | Comment(2) | 唐時代
2007年07月22日

玄宗

玄宗 能力データ
魅力 8 / 統率力 5 / 戦闘力 4 / 政治力 7 / 知力 5

玄宗李隆基は、中国史上屈指の名君である唐の太宗李世民の曾孫で、則天武后の孫。
28歳で皇帝に即位すると、覇気と自信に溢れた玄宗は先代までの蓄積した財産を背景に栄華を誇る時代(開元の治)を築き上げ、庶民にも人気があった。
玄宗を他の時代に例えて言うなら、漢の武帝、清の乾隆帝が当てはまるであろう。三名とも美女とのロマンスが有る(玄宗は楊貴妃、武帝は衛子夫、乾隆帝は香妃。いずれの美女も不幸な最期を遂げる事も似ている)。

玄宗の後半生は長い執政生活に怠惰・放免となり、絶世の美女楊貴妃に溺れ、楊貴妃一族の専横を許し、信任した安禄山に叛かれ安史の乱を招いて大唐帝国をあわや滅亡寸前まで貶める。
この乱の最中、兵士の要求により楊貴妃を殺し、乱平定後は失意のまま幽閉生活を送り生涯を終えた。
posted by ただの中国史好き at 20:45 | Comment(2) | 唐時代
2006年07月29日

則天武后

則天武后 能力データ
魅力 6 / 統率力 6 / 戦闘力 1 / 政治力 8 / 知力 8

則天武后は14歳で太宗李世民の後宮に入り、太宗の死後に尼となるが、高宗(李治)に見初められ、王皇后の思惑もあって還俗させられて高宗の後宮に迎えられる。後宮に復帰した翌年に皇子を産み、続いて皇女も産んだ則天武后は、着実に後宮での地位を固めていった。
以後、自分を還俗させた王皇后に計略で無実の罪を着せ、高宗の愛妃である簫淑妃諸共、皇帝の毒殺を謀ったとして幽閉させ、遂に皇后の位に就く。この時に則天武后が簫淑妃の手足を切り取り、酒甕に投げ込むという酷刑を行った事は有名。
皇后となった則天武后は自身の権力の邪魔となる者を次々に排斥、殺害。病がちな高宗に代わって政権までも掌握し、高宗の死後は自分の子を皇帝に据えるが、意に沿わないと見るや即排斥。謀反もあって李氏の根絶やしを計画、数百人を殺し、自ら帝位に就く。彼女こそが、中国悠久の歴史で唯一の女帝、則天武后である。
その後、密告を奨励した恐怖政治を14年間続けるが、その恐怖政治はあくまで朝廷での話であり、民にまでは及ばなかった為、世は安定していた。がしかし、重臣達に退位を迫られた76歳の時、老いた則天武后は帝位を下りて同年に死去する。烈女の死であった。
posted by ただの中国史好き at 21:20 | Comment(1) | 唐時代
2006年07月07日

王玄策

王玄策 能力データ
魅力 8 / 統率力 9 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 6

唐の玄宗皇帝より命を受けた王玄策は、唐と友好関係にあるマガダ国のシーラーディティヤ王を訪問する為にインドヘ旅立つ。ところが、遥々到着すると王は死去しており、アルジュナが王位を簒奪。マガダ国のみならずインド中が混乱に陥っていた。アルジュナの軍により襲撃された王玄策一行は捕らえられ、投獄される。
だが、王玄策は脱獄して脱走。インド大陸を北上してガンジス河を渡り、ヒマラヤ山脈に辿り着く。そう、ネパール王国の力を借りる為に。ネパール王は彼に7千騎のネパール騎兵を与え、彼等を率いた王玄策は一転マガダ国へと引き返してアルジュナ軍3万とガンジス河畔で激突、大勝利を収める。アルジュナを捕虜とし、マガダ国に平和を回復させ、ネパール騎兵を母国に帰し、投獄されていた仲間を救い、唐へ帰国したのであった。
posted by ただの中国史好き at 22:23 | Comment(0) | 唐時代
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