2011年11月22日

張巡

張巡 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 8

中国史上、屈指いや最高と言ってもいい籠城の名将。
安禄山の乱時、張巡は中国の南北の交通の動脈たる重用な拠点、睢陽を守っていた。仮にここが落城した場合、一挙に安禄山軍が長江下流域になだれ込み、大唐帝国は経済的な基板を失い滅亡してしまう程、重用な要地である。
ここに孤立無援、10万の敵に対して3〜5千の兵で二年間に渡り城を守り抜く。その間、いくら援軍を呼んでも張巡が手柄をたてることを妬んで援けに来ないという惨状。やむを得ず、張巡は後に日本の楠木正成も戦法に流用したであろう藁人形を作って敵をごまかしたり変幻自在の戦法を駆使して奮戦を続けるが、孤立無援のまま遂に食糧が尽きて全城飢えに苛まれる。兵士達は栄養不足で失明し、敵が攻撃してきても立ち上がることも出来ない状態となって遂に落城、張巡は殺される。

張巡のこの活躍は唐を救ったが、直ぐには表彰されなかった。
何故なら、落城寸前に将兵が飢えて人肉を喰ったという事件があった為であるが、最終的には朝廷も援軍や食糧を送らなかった責任もあり、表彰され睢陽には廟が建てられた。
posted by ただの中国史好き at 00:06 | Comment(2) | 唐時代
2011年11月19日

顔真卿

顔真卿 能力データ
魅力 6 / 統率力 5 / 戦闘力 5 / 政治力 5 / 知力 5

顔真卿は革新的で骨太な書法をあみだした書の名人として知られ(王羲之以来の書の名人)、剛直の士として有名。
時の宰相楊国忠に嫌われ、山東省平原の地方役人をしていたが、安史の乱が起こるや周囲が皆安禄山に靡いたのに従兄の顔杲卿と義兵をあげて抵抗した。
756年、平原を脱出して陝西省にいた粛宗のもとに駆けつけ、唐の建て直しに奔走。直言をもって知られたが、それ故に疎まれることも多く、その生涯は概して不遇であった。
晩年、淮西で叛いた李希烈の説得に派遣されたが捕らえられ、三年間の幽閉の後に殺された。
posted by ただの中国史好き at 23:50 | Comment(2) | 唐時代
2011年10月22日

閣羅鳳

閣羅鳳 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 7

雲南地方の南詔国は非漢民族が建国。中国とインド、二方面から影響を受けて元々文化程度が高く、英明たる第五代国王閣羅鳳が楊国忠が送り込んだ唐の大軍を三度にわたって撃破、唐からの完全独立を果たした。
この際、唐の役人で鄭回が捕虜となるが、閣羅鳳はその才能を認めて重臣に抜擢。唐に倣った文化国家建設を全面的に委ねる。鄭回はそれに応えて南詔国の国家制度を整え、漢字を導入し、唐との間に友好関係を確立させ、以後南詔国の王族は唐の成都へ留学するようになった。
posted by ただの中国史好き at 13:47 | Comment(5) | 唐時代

郭子儀

郭子儀 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 6

郭子儀は玄宗皇帝以来の武将で、名も子儀、字も子儀という変わった人物。
無名の頃に軍の食糧が失火で焼けてしまった為に管理責任を問われて檻に入れられ運ばれる途中、詩人の李白に出会う。李白は郭子儀と話をしてその才能を感じ、玄宗に話した為に処刑を免れた。後に李白が叛乱に巻き込まれて反逆罪で殺されそうになった時、郭子儀が自分の功績に代えても助けて欲しいと言って恩を返したという。
安史の乱時には副将李光弼と共に河北地方を転戦して功をあげ、玄宗の後を継いだ粛宗は郭子儀の功もあり唐朝が再興出来たと賞賛したほど。とはいえ、郭子儀の意見は粛宗に容れられず、乱後も宦官に妨げられて兵権を解かれるなど不遇であった。
がしかし粛宗の次の代宗時代に吐蕃の侵入が始まるや再び活躍。763年の吐蕃と連合した僕固懐恩の乱や、765年のこれにウイグルが加わった30万の連合軍の進入時には、主力軍の吐蕃を撃破。代宗の次の徳宗時代即位時には、尚父の称号を受けて大尉中書令に昇進した。

揺らぐ唐帝国を名実ともに支えた武将で、これだけの巨大な功績をたてながら韓信と違って朝廷に疑われることも殺されることもなく、第一線を退いてからは宰相となって人々から尊敬も受け晩年を過ごした。
ただ、息子は後に皇帝の娘を嫁にもらうが、夫婦喧嘩をした際に「お前は皇帝の娘だと思って威張ってるんだろうが、父だって皇帝になろうと思えばなれたのだ。ただならなかっただけだ。」と怒鳴り、皇女に皇帝へ訴えられるが皇帝は「その通りでお前が悪い。」と一切咎めなかったという(郭子儀は恐縮して息子を板で殴りつけたが)。
posted by ただの中国史好き at 12:57 | Comment(2) | 唐時代
2011年10月15日

封常清

封常清 能力データ
魅力 4 / 統率力 5 / 戦闘力 5 / 政治力 3 / 知力 5

安禄山は挙兵一ヶ月で洛陽を陥落させる。洛陽と長安の間に位置する歴史上有名な砦、潼関はここを通らなければ洛陽から長安には絶対に行けないという軍事上、交通上の要所であり、また難攻不落の要塞でもあった。ここを守っていた高仙芝は一旦出撃するが、そこへ同僚の封常清が安禄山に撃破されて逃げ戻って来る。封常清は「安禄山の軍に対し野戦では勝てない。潼関を固めるしかない。」と進言。潼関手前で防ごうにも、あの勢いではとても止まらないという判断で両将は後退して潼関に立て籠もる。この頃、洛陽から長安までの街道に見事な槐の並木があったが、敵の追撃を防ぐ為に悉く切り倒して道を塞いだ。

そして安禄山軍が潼関に殺到するが、これを難なく撃退。ところが、高仙芝の監視役に来ていた宦官の辺令誠が高仙芝や封常清に賄賂を要求したのを断った為、根に持って玄宗に「あの二人は戦わずに潼関に逃げ込んだ。おまけに軍需物資を横領している」と誣告。判断力の鈍っていた玄宗はそれを信じてしまい、両将を潼関において処刑した。
高仙芝と封常清は潔く、「敵と遭って後退した事は事実だから、その罪は受ける。但し、軍需物資を横領したというのは冤罪だ。」と言いながら斬られた為、潼関の兵士達が声を揃えて「冤罪だ!」と叫び、その声は天を揺るがせたという。
posted by ただの中国史好き at 22:04 | Comment(5) | 唐時代
2011年10月09日

高仙芝

高仙芝 能力データ
魅力 5 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 5

高句麗人で父の代より唐に仕え、西方辺境の守りを務めて武勲をあげる。
特にハンニバルのアルプス越え以上の快挙と後世評された、747年の一万の兵を率いてのパミール高原越えによって西へ向かって吐蕃と結んでいた小勃律を討ったことは特筆すべき事項。大食(アラビア)など西方72ヶ国を服属させ、750年には石国(タシケント)を討って国王を捕虜とするが、長安に送って斬ったがために石国と西域諸国は新興のアッバス朝イスラム帝国に救援を求める。そこで高仙芝はまた天山山脈を越えて西へ出てイスラム軍と対決。歴史上有名なタラス河の会戦である。この時、唐軍の中にトルコ系の少数民族による部隊がいたが、高仙芝に反感をもっていてイスラム軍に寝返ったために大敗。西域における唐勢力退潮の一因となった。

この戦いで多くの中国人がイスラム軍の捕虜となり、その中に製紙職人がいてずっと西のサマルカンドまで行かされて紙の製法を初めて西方世界に伝えた(中国で後漢時代に発明された紙が、600年以上経ってヨーロッパで使われるようになった)。又、捕虜のひとりに杜環という人物がイスラム帝国の本拠地であるアラビアまで連れて行かれ、アラビアについての貴重な記録「経行記」を残した。
この大敗北を高仙芝は朝廷に報告せず自己の保全を図るが、755年に安史の乱が起きて洛陽が陥落すると潼関に退き、玄宗の怒りをかって殺された。
posted by ただの中国史好き at 22:52 | Comment(2) | 唐時代
2011年10月02日

安禄山

安禄山 能力データ
魅力 6 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 6

安禄山は「口に密あり腹に剣あり」と言われた宰相李林甫が10余年政権を握っていた頃、後に楊貴妃の縁で宰相となる楊国忠等と結託、玄宗の信任をまんまと得る。父はイラン系、母はトルコ系の胡人で、心ある者は安禄山の本質を見抜いたが次第に唐朝内で勢力を拡大。大唐帝国正規軍60万のうち18万の兵権を握るまでになり、反逆を起こして一ヶ月で洛陽を陥として遂には皇帝をも僭称(安史の乱)、蜀へ逃げた玄宗に付き従った楊国忠、楊貴妃は自軍の兵に殺され、顔真卿・張巡・郭子儀ら政府軍も安禄山に対し戦果をあげる事が出来なかった。

一方で安禄山ら反乱軍も内乱が発生。安禄山自身も眼を病み、疽に悩んで部下に辛くあたる。侍臣の李猪児は陰茎を切り落とされ、怨みをおさえて復讐の時期を待つ。安禄山の嫡子である安慶緒も継母とその子が安禄山のお気に入りの為に怨みを秘め、安禄山の側近ナンバーワンである巖荘もことある毎に怒鳴られ、鞭で打たれるために怨んでいた。この三人が組んで安禄山の寝所に忍び込み、李猪児と安慶緒が彼の腹や胸を刺す。「名を言え!外からの賊ではあるまい!!」と怒鳴ったのが安禄山の最期。
後に安慶緒も史思明に殺され、史思明もその子に殺されたのは皮肉な運命というか、歴史は繰り返す。
posted by ただの中国史好き at 01:08 | Comment(4) | 唐時代
2011年08月20日

楊貴妃

楊貴妃 能力データ
魅力 9 / 統率力 0 / 戦闘力 0 / 政治力 0 / 知力 4

楊貴妃、姓名は楊玉環。
唐の玄宗皇帝の寵姫で、玄宗が寵愛し過ぎた為に安史の乱を引き起こしたと伝えられる。傾国の美女と呼ばれ古代中国四大美女(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人。
735年(開元23年)、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁)の妃となるが、玄宗に見初められ長安の東にある温泉宮にて一時的に女冠となり、その後宮中の太真宮に移り住んで玄宗の後宮に入った。楊貴妃は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲・歌舞に優れて利発であったため玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。髪はつややか、肌はきめ細やかで体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる。玄宗が遊幸する時は楊貴妃が付いて行かない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には高力士が手綱をとり、鞭を渡した。玄宗の彼女の寵愛が故に楊一族は権勢を振るい、彼等の依頼への官庁の応対は詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は門を並ぶほどであった。

751年に安禄山が入朝、安禄山を大きなおしめで包み女官に輿に担がせて「安禄山と湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせた。しかしその後も安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため、醜聞が流れた。755年、楊国忠と激しく対立した安禄山は反乱を起こし、洛陽が陥落(安史の乱)。唐側の副元帥である高仙芝は処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり潼関を守ったが安禄山に大敗し捕縛、潼関も陥落する。玄宗は首都長安を抜け出して蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃・楊国忠・高力士・李亨らが同行することになった。しかし、馬嵬に至ると乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は、楊国忠と韓国夫人達を殺害。更に玄宗に対して「賊の本」の楊貴妃を殺害することを要求。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言って庇ったが、高力士の進言によりやむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意。楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死させられた。
posted by ただの中国史好き at 15:42 | Comment(2) | 唐時代
2011年08月15日

裴行倹

裴行倹 能力データ
魅力 6 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 5 / 知力 7

少年の頃、蘇定方に見込まれて軍事知識を全て伝授された弟子で、則天武后の時代に活躍。
女帝が権勢をふるっている時にそれを批判する文書を出して則天武后に追放され、西域に行く。それまでは文官として活動していたが、これを契機に蘇定方から教わった兵法を活かして活躍。この頃はチベットの勢力が強大になり唐軍と度々衝突していたので、チベット軍と戦ったり突厥の残党を討伐したりして武勲をあげる。
又、西方で最盛期を誇っていたイスラム帝国に滅ぼされたササン朝ペルシャ帝国の王子が聖火を持って命からがら砂漠を渡り、天山山脈を越えて唐に亡命して来たのを裴行倹は出撃して突厥軍を撃破し救助。長安に送り届ける功績をあげた。
posted by ただの中国史好き at 22:34 | Comment(0) | 唐時代
2011年05月30日

花木蘭

花木蘭 能力データ
魅力 8 / 統率力 5 / 戦闘力 4 / 政治力 1 / 知力 5

花木蘭は老病の父に代わり、男装して従軍。異民族(主に突厥)を相手に各地を転戦し、自軍を勝利に導いて帰郷する。
花木蘭従軍故事は後代、詩歌や戯曲・小説の題材となり、戯曲では「雌木蘭」、現在の京劇などでは「花木蘭」の題で演じられ、小説では「隋唐演義」にも収められている。
ただ、花木蘭は実在性に乏しく伝説・文学上の人物の可能性あり。
posted by ただの中国史好き at 00:03 | Comment(2) | 唐時代
2011年05月04日

樊梨花

樊梨花 能力データ
魅力 8 / 統率力 5 / 戦闘力 4 / 政治力 2 / 知力 4

樊梨花は薛仁貴の息子の妻で、中国史上有名な強く美しい女将軍。
唐の時代に西涼と戦争があり、唐の玉門関総兵薛仁貴の息子薛丁山と西涼の寒江関総兵樊洪の娘樊梨花とが陣の前で会った。樊梨花は薛丁山のことが好きになるが、薛丁山は樊梨花のことが最初は好きではない。ただ、有名な女将軍である樊梨花なので薛丁山父の命によって二人は結婚。
結婚後、様々な陰謀によって薛丁山は樊梨花に離婚を求めるが、誤解が解けた際に三回頭を下げて謝罪したので「三棄三請」という熟語が生まれたという。
ただ、樊梨花は実在性に乏しく伝説・文学上の人物の可能性あり。
posted by ただの中国史好き at 00:27 | Comment(2) | 唐時代
2011年04月10日

劉仁軌

劉仁軌 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 5

日本の教科書にも出てくる白村江の戦い、劉仁軌はその白村口で日本軍と戦って全滅させた人間である。この敗戦により、古代日本は大陸における勢力圏を全て失った。
若い頃は貧しく学問好きで、官途に就くと折衝都尉の魯寧が横暴であった為にこれを鞭打って殺害した。太宗李世民に詰問されると、「臣が辱められたために殺しました」と臆せずに答えたことからかえって太宗に気に入られ、咸陽の丞に任ぜられた。給事中にまで昇るが権臣の李義府に憎まれるようになり青州刺史に左遷、更に遼東征伐において漕運に失敗した罪を着せられ、59歳にして一兵卒に落とされた。
この年、蘇定方率いる唐軍が百済の都泗沘城を攻め、百済を滅亡させる。しかし、翌年に百済の遺臣鬼室福信らが泗沘城の奪還を試み包囲。この際、劉仁軌は自ら志願して援軍に赴き、百済残党を支援する倭(日本)の水軍を白村江で迎撃、400余隻の軍船を焼き払って大勝する(白村江の戦い)。さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させた。

665年に高宗が泰山で封禅を行った際には、新羅・百済・耽羅・倭4国の首領を率いて参加し、大司憲を拝し、右相兼検校太子左中護に進み、楽城県男に封ぜられた。668年には李勣に従って高句麗を平定。674年には新羅の文武王を討って(羅唐戦争)大勝し、翌年には左僕射となって朝政に参画した。そして685年3月2日、在職中に没する。享年84。死後に開府儀同三司并州大都督を贈られ、高宗の陵墓である乾陵に陪葬された。
posted by ただの中国史好き at 23:14 | Comment(0) | 唐時代
2011年03月19日

程知節

程知節 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 4

程知節は李密に従い、李密は軍中の勇士八千を四驃騎に属させて自衛にあたらせて「内軍」と号していた。李密は「この八千は百万の兵に匹敵する」と常々自負し、程知節は驃騎の一つを領して李密の恩遇も特に厚かった。王世充と李密が戦った時、程知節は北邙にあって内騎営を受け持ち、単雄信は偃師にあって外騎営を受け持った。王世充が単雄信を襲撃すると、李密は程知節と裴行儼を派遣し単雄信を救援。裴行儼が流れ矢に当たって落馬すると、程知節はこれを救って馬上に抱えて馳せ戻った。李密が敗れると、王世充の性格を嫌って秦叔宝と共に唐に帰順、秦王府左三統軍に任ぜられた。宋金剛、竇建徳、王世充との戦いに従軍して先陣を担うなど功績を認められて宿国公に封ぜられる。

624年、李建成による讒言を受けて康州刺史に左遷されるが、「大王の側近が去っては、身の安全をはかろうとしてもできましょうか?知節は死んでも、去りませんぞ」と李世民に言って赴任しなかった。貞観初年の鉄山獠の乱を平定、657年には西突厥の沙鉢羅可汗を討ったが軍が帰還すると罪に連座して免職される。岐州刺史として再起用されたが、まもなく致仕した。
665年に懐徳里の邸で病死。驃騎大将軍・益州大都督の位を追贈され、昭陵に陪葬された。
唐の凌煙閣二十四功臣の一人。
posted by ただの中国史好き at 14:28 | Comment(0) | 唐時代

蘇定方

蘇定方 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 2 / 知力 5

蘇定方は10歳で父に従い戦場に臨んだほど、幼少の頃より豪勇と胆力をうたわれた。
李靖に従って突厥討伐に従軍、李勣の高句麗遠征にも従う。高宗時代に入ると突厥討伐など西域の安定に尽力する一方で、660年には百済征討でも大功をあげ、その後も高句麗、吐蕃、吐谷渾討伐にも活躍するなど、唐の辺境安定に力を尽くした。
百済を亡ぼした時に「実は池から龍が飛び上がりましたので、捕まえようと思いましたが失敗しました」という報告書を送るなど、ホラ吹きな面があった。庶民的な人気では薛仁貴の方が圧倒的に高く、蘇定方は「薛仁貴伝」において悪役になっている。
posted by ただの中国史好き at 14:07 | Comment(6) | 唐時代
2011年03月16日

薛仁貴

薛仁貴 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 9 / 政治力 2 / 知力 3

薛礼、字を仁貴というが字をもって通称とする薛仁貴のほうが有名。
農家に生まれたが武人を志して唐の遼東遠征に従軍し、白ずくめの服装で高句麗軍に斬り込んで敵を蹴散らすなどして活躍、功をあげた。その奮戦ぶりを喜んだ太宗李世民が遼東を得たことより卿を得たことを喜ぶと言い、右領軍中郎将に列せられた。
薛仁貴はその後、高宗時代にも活躍し、668年に安東都護府が設置されると初代都護となる。
九姓突厥の軍十余万が唐軍に迫った際は三矢を放って三人を射殺してみせ、九姓突厥の士気を沮喪させて唐軍に降伏せしめる。薛仁貴は後の患いとなることを憂慮して降兵をことごとく穴埋めにして殺害。唐の軍中では「将軍は三箭で天山を定め、壮士は長歌して漢関に入る」と歌われた。
だが670年には吐蕃に敗れて庶人に落とされ、その後も左遷されるなど不遇な時もあったが、681年に再び突厥を破り70歳で没する。後に息子と孫は民衆のヒーローとなり、唐王朝の守護神として後世まで語り継がれた。
posted by ただの中国史好き at 20:44 | Comment(1) | 唐時代
2011年02月12日

尉遅敬徳

尉遅敬徳 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 10 / 政治力 2 / 知力 4

尉遅恭、字を敬徳というが字をもって通称とする尉遅敬徳のほうが有名。
隋末の叛乱討伐で名をあげたが、群雄割拠になると劉武周の偏将となり唐と敵対した。620年に敗れて勢力が四散すると太宗李世民に降服し、右一府統一軍に任ぜられて王世充、竇建徳、劉黒闥ら群雄を討伐し全国平定に貢献。太宗に忠実で、王世充討伐の際にかつての劉武周時代の仲間が多く離反したが、信頼を寄せる太宗に応えて勇戦。度々太宗の危機を救い、特に皇太子李建成や弟の李元吉との皇位をめぐる争いの決着をすすめ、626年に玄武門の変が起こるや李元吉を射殺、太宗即位の道を開いた。621年と627年には突厥の侵入を撃退しつつも高句麗攻撃には反対。しかし征討戦には参加し、駐蹕山で高句麗軍を破っている。

同じ唐将で武において尉遅敬徳と双璧とされる秦叔宝は戦場での怪我が多かったが、尉遅敬徳は生涯戦場を往来し敵の重囲を突破すること幾度もあれどかすり傷一つ負わないまさに神勇(隋唐演義でもこう表現されている)と呼ぶべき強さを誇る。
生来の武人の為に文官の長孫無忌、房玄齢らとあわず、高句麗遠征から帰還した後は一切の地位を捨てて引退し、六年間神仙方士の道を修行した。武官としては最高の凌煙閣二十四功臣で第七位に描かれ、死後に司徒并州を賜った。
posted by ただの中国史好き at 15:22 | Comment(2) | 唐時代
2011年01月31日

秦叔宝

秦叔宝 能力データ
魅力 9 / 統率力 7 / 戦闘力 9 / 政治力 2 / 知力 4

秦瓊、字を叔宝というが字をもって通称とする秦叔宝のほうが有名。
はじめ隋の将軍である来護児の部将となるが、未だ下っ端役人だった頃に母親が亡くなる。当時隋の大将軍であった来護児は使いを立ててこれを弔問。役人が驚きいぶかしく思って「士卒が死んでも将軍は弔問することがありませんでしたのに、今ひとり秦叔宝をわざわざ弔問するのはなぜですか?」と尋ねた。来護児は「あいつには武才があり、志節もそなわっている。只者ではないし長く卑賎な身分ではおるまい」と答えたという。
その後、張須陀に従って羅士信と共に李密を滎陽で討伐。張須陀が李密に敗れて戦死すると秦叔宝は残兵を率いて李密に投降した。李密が敗れた後は王世充に降るが王世充の性格を嫌って程知節らとともに唐に帰順、秦王李世民の幕下に属した。
尉遅敬徳と美良川で歴史に残る壮絶な一騎打ちを戦って功績を挙げ秦王右三統軍となり、宋金剛を介休に敗走させて上柱国に任ぜらる。王世充、竇建徳、劉黒闥らに対する征討でしばしば先鋒に立って敵陣を突破、功績により翼国公に封ぜられる。玄武門の変の後、左武衛大将軍に任ぜられ実封七百戸を受けた。

638年に亡くなり徐州都督を追贈され、昭陵に陪葬。太宗李世民はかれの人馬像を石に刻んで墓前に立てさせた。639年、胡国公に追封。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。後世には尉遅敬徳とともに門神として信仰された。
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2011年01月04日

李徴

李徴 能力データ
魅力 2 / 統率力 2 / 戦闘力 2 / 政治力 3 / 知力 5

唐の玄宗の時代、かつての郷里の秀才だった隴西の李徴は片意地で自負心が強く、役人の身分に満足しきれなかった。彼は官職を辞し、詩人として名を成そうとするも上手くゆかず遂に挫折。小役人となってかつて自身が見下げていた同期達よりも下役にて屈辱的な生活を強いられ、地方へ出張した際に発狂。そのまま山へ消えて行方知れずとなった。
翌年、彼の数少ない旧友で高位の役人であった袁傪は旅の途中で虎となった李徴と再会する。李徴は茂みに姿を隠したままいきさつを語る。「昨年、何者かの声に惹かれ、わけがわからぬまま山中に走り込み、気が付いたら虎になっていた。人間の意識に戻る時もあるが、次第に本当の虎として人や獣を襲い、食らう時間の方が長くなっている。そこで君に頼みがある。まだ自分が記憶している数十の詩編を書き記して残してくれないか」。袁傪は素直に受け入れ、明るい月光の下で李徴の朗ずる詩を部下に書き取らせた。李徴は更に語る。何故虎になったのか?自分は他人との交流を避けた。皆はそれを傲慢だと言ったが、実は臆病な自尊心と尊大な羞恥心の為せる業だった。本当は詩才がないかもしれないのを自ら認めるのを恐れ、そうかと言って苦労して才を磨くのも嫌がった。それが心中の虎であり、遂に本当に虎になったのだ。
夜は明けかけていた。別れを惜しむ袁傪に李徴は残された自分の妻子の援助を依頼し、朝明けの空ですっかり光を失った月の下に1頭の猛虎として姿を現わして咆哮とともに姿を消し、再びその姿を見せる事はなかった。

原作と比較すると、李徴の虎への変身の理由が大きく変えられているのが特徴。原作では李徴は寡との逢瀬を妨げられたのが原因でその一家を焼き殺した報いで変身したのに対し、「山月記」では「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という性情が原因だと書かれ、より深みのある内容になっている。
高等学校の現代文の教科書の人気教材で、野村萬斎によって演劇化もされている。
posted by ただの中国史好き at 21:05 | Comment(2) | 唐時代
2011年01月03日

魏徴

魏徴 能力データ
魅力 7 / 統率力 4 / 戦闘力 3 / 政治力 7 / 知力 8

魏徴は隋末の混乱期に李密のもとに参加したが、李密の唐への降伏によって李世民の兄である李建成に従う。早くより李世民を除くことを勧め、玄武門の変の際も活躍するが、太宗李世民は魏徴の優れていることを承知しており、これを帷幕に加えて重用。魏徴も遂に生涯を捧げるに足る主君にめぐり逢ったということで「人生、意気に感ず」という「唐詩選」の冒頭をかざる有名な詩を遺し、忠誠を尽くして仕えた。
がしかし、太宗の功臣24人に入っていたものの後に諸事件にからんで疑いを招き、次第に用いられなくなった。
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2010年12月31日

李密

李密 能力データ
魅力 4 / 統率力 5 / 戦闘力 3 / 政治力 5 / 知力 8

李密は煬帝への叛乱計画が失敗して捕まるが、護送途中で巧みに逃げ出して群雄の間を渡り歩き、自身が天下を取る機会を狙っていた。翟譲、李勣らと瓦崗寨に立てこもると、張須陀を討ち取った李密の名は天下に轟いており、アウトロー的気風をもった勇者達が続々と集まって来る。ここで実際に作戦立案と指導をしたのが李密であった。
李密は非常に自身の才能に自信がある人間であり、まずこの一派のボスであった翟譲を謀殺した為に人心が離れる。本拠地を瓦崗寨から洛陽近くに移して魏を立国して自ら魏公となるが、そうした状態の為に李勣秦叔宝魏徴ら唐に好意を寄せる連中を追い出そうとする最中、群雄の一人である王世充に一戦で敗れて魏は雲散霧消。李密は散々考えた末にどうしようもなく李淵に降伏するが、やはり人の下には立てない男は一ヶ月程度でまた背いて逃げ出し、その途中で伏兵にあって殺されてしまった。享年37歳。

この時、魏の将軍達が大挙して唐に帰順し、唐の軍事面が強化されたのは言うまでもない。李密がもう少し器の大きい慎重な男であったなら、その後の歴史は変わっていたかもしれない。
posted by ただの中国史好き at 00:35 | Comment(2) | 唐時代
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