2010年10月24日

張須陀

張須陀 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 6 / 知力 6

張須陀は50歳位迄あまり出世も出来ずに地方の役人をしていたが(州の太守にもなれなかった)、ある年に飢饉が発生して民衆に餓死者が増えてきた時、皇帝の許可無しには開けない官庫を独断で開けて米を民衆に配り餓死者がそれ以上増えるのを防いだ。そもそも皇帝の許可を得る為には都に使者を送らねばならず、往復で十日程も掛かってしまうのだ。
ところが、独断で官庫を開いたことはやはり罪であり弾劾されるが、煬帝はよくやったと誉めて張須陀を許したという。非常な暴君のイメージが強い煬帝だが、こうした態度を見るとあながち単なる暴君ではなかったのではないかと思われる。

その後、国中が大叛乱に巻き込まれると太守となって秦叔宝羅士信などを従え、各地の叛乱軍を次々と打ち破る。張須陀が天下の中央部にいて四方の叛乱軍を打ち破っていた為、隋は統一を何とか続けることが出来たと言っても過言ではない。だが、それが為に隋に反抗する勢力からは目の敵とされ、李密の計略にかかって戦死。張須陀は自軍が叛乱軍に包囲された時、自身は脱出したものの兵士達が包囲されたままなので救出しては包囲網を突破して脱出、また救出に戻っては脱出を繰り返してほぼ全員助けだしたところで力尽きて死んでしまい、部下の兵士達は皆涙を流したという。
張須陀の死後、叛乱軍は隋の中央部を占領。煬帝は南方に逃避して隋は天下統一国家でなくなった。張須陀の死により、天下統一国家隋も終わったのである。
posted by ただの中国史好き at 00:07 | Comment(2) | 隋時代
2010年10月02日

劉方

劉方 能力データ
魅力 6 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 5

北周に仕えていたが、北周〜隋への移行期に功績があって大将軍となる。
元々劉方は北方の生まれであったが、楊堅により隋の天下統一が成ってから特に外国遠征に功績をあげて周辺民族と戦う。604年にはインドシナ半島の林邑に遠征して国都の占領に成功するが、全軍風土病にかかり自身も帰還途中に死去。
馬援以来、史上二人目で南方の象部隊と戦って勝利をあげた人物。
posted by ただの中国史好き at 13:17 | Comment(2) | 隋時代
2010年09月26日

韓擒虎

韓擒虎 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 5

北周の名家で将軍の家系に生まれた韓擒虎は、「虎を捕らえる」という勇ましい名に劣らぬ勇敢な人物で北周太祖宇文泰に仕えて北斉を亡ぼす戦いで活躍、その後隋の文帝楊堅に従って陳を亡ぼす戦いでも功績をたてた。
敵であっても勇敢な人物に対しては寛大で、民衆からも公正で非常に人気があったので死後に閻魔大王になったという民間説話がある。実際、韓擒虎が死ぬ直前に家族が病室に集まっていると、変な男が外から入って来て王様と言って平伏した。狂人ではないかと皆が追い出そうとしたら、韓擒虎は病床で笑って「生きている間は隋の将軍で、死んであの世の王になるというのは愉快なことだ」と言って死んだという。

この韓擒虎が親戚筋の親無し子を育てるが、それが李靖
唐代には虎の字を用いずに韓擒と称した。
posted by ただの中国史好き at 13:32 | Comment(0) | 隋時代
2010年09月23日

楊素

楊素 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 4 / 政治力 6 / 知力 8

隋の文帝楊堅を支えた高熲と並ぶ名臣だが、楊素は陰謀を好み、贅沢好きな奸雄の資質をもつ人物であった。
北周の北斉平定に先鋒として功績があり、楊堅(後の隋の文帝)が丞相に昇ると楊素はこれと親交を結んで汴州刺史に任ぜられた。尉遅迥の乱が起こると北周の大将軍に昇って滎州刺史の宇文胄を撃破。徐州総管に転じて柱国となり、清河郡公に封ぜられた。
隋が建国されると、上柱国・御史大夫に昇る。楊素の妻の鄭氏は嫉妬深く、これに楊素は怒って「もし私が天子となったとしても、お前は皇后にはしてやるまい」と言ったのを鄭氏が上奏した為、免官された。

文帝楊堅が江南を奪う計画を考え始めると、楊素は数度にわたって南朝陳を平定する策を進言。信州総管に任ぜられ、永安で「五牙」「黄龍」と称する大艦を次々と建造して楊堅の次男である晋王楊広(後の煬帝)を補佐し、自らは行軍元帥となって水軍で長江を下って一挙に陳を滅ぼす。又、陳滅亡後に江南で頻発した隋に対する反抗を次々と撃破。
592年、蘇威に代わって尚書右僕射となり、張衡と高熲とともに朝政を分掌。598年、突厥の達頭可汗が塞内に侵入すると霊州道行軍総管となって出征し、撃破。601年、高熲に代わって尚書左僕射となり、楊素の一族の多くは隋の高官に任命され、楊素自身の邸宅も宮殿風に建築して贅を極めた。

文帝の晩年、太子楊勇と晋王楊広とのあいだには次の皇帝位をめぐる暗闘があったが、楊素は建前は中立を保ったものの、裏で太子の悪評を流して楊広の立太子に協力。やがて文帝は独孤皇后の言を容れて楊勇を廃嫡し、楊広を太子に定めた。604年、文帝が逝去して煬帝楊広が即位。この時、病床の文帝が太子楊広の非行に激怒して、廃太子の楊勇を呼び出そうとした。楊素はこれを察知して楊広に報告し、楊広が父の殺害を命じたとする説も根強い。
煬帝の弟である漢王楊諒が乱を起こすと、楊素はこれを討伐して鎮圧。605年、尚書令となり太子太師に任ぜられた。606年、司徒に昇り楚国公に封ぜられた。しかし、煬帝の猜疑を受け、失意のうちに逝去。子に楊玄感、楊玄奨、楊玄縦、楊仁行、楊萬石、楊積善がいる。
posted by ただの中国史好き at 13:34 | Comment(2) | 隋時代
2010年09月12日

高熲

高熲 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 7 / 知力 7

隋の文帝楊堅を支えた、楊素と並ぶ二名臣。
二人とも文武両道に秀でた人物で宰相としても将軍としても有能であったが、性格は両極端で高熲は文帝に対しても直言を憚らない剛直公正な人物であった。初めは北周の武帝に仕えて計略に優れたところを見せたが、隋が起こると宰相にまで昇り詰めて創建、平定事業にも尽力、活躍した。
後に誣告を受けて失脚し罪に服して死んだが、人望が篤く惜しむ声が多かったという。
posted by ただの中国史好き at 11:22 | Comment(0) | 隋時代
2010年07月25日

楊堅

楊堅 能力データ
魅力 8 / 統率力 6 / 戦闘力 4 / 政治力 10 / 知力 8

西暦589年、約270年ぶりに天下は楊堅によって統一される。
隋の文帝楊堅は恐らく西晋の武帝司馬炎と並んで比較的容易に天下統一を果たした人物であろう。
ただ、天下統一後に政治家としての手腕を大いに発揮し、戦乱で荒れ果てた天下を安定させる。補佐する左右の軍師に高熲楊素という宰相・将軍いずれとしても有能な人物を有し、実際に約10年という期間であっという間に隋は史上最も富み栄えた国となったことから考えても余程政治家として有能な人間であったと思われる。

均田法の実施、塩・酒税の廃止、貨幣制度を統一し、国民の賦役を減らした。又、礼敬を振興、旧来の陋習を改めて制度の改革を図った。後に清末まで続く科挙も隋の文帝楊堅が有能な官吏の採用を促進する為に才能本位での官僚登用に改めたことに始まる。
posted by ただの中国史好き at 00:28 | Comment(6) | 隋時代
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