魅力 4 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 5
中国南北朝時代に北斉の基礎を築いた高歓だったが、自身は帝位につかずに息子の高洋が北斉を建国した後に廟号を太祖、諡号を献武帝と追贈され、後主の即位後に廟号を高祖、諡号を神武皇帝と改められた。
496年に懐朔鎮に属する貧家、高樹の子として生まれた高歓は北魏末の六鎮の乱に参加。初めは杜洛周、次いで葛栄に従ったが、降伏して奚族の爾朱部の長である爾朱栄に身を寄せ、晋州刺史に昇った。その爾朱栄が孝荘帝に殺害されると、信都を拠点に自立。爾朱一族の内紛に乗じて山西を奪い、洛陽に攻め入って爾朱栄の甥の爾朱兆を初めとする爾朱一門を捕らえてこれを処刑。かつては威勢を誇った奚族の爾朱部は滅びた。
洛陽を奪った高歓は平陽王元修を孝武帝として擁立し、自らは大丞相を称して北魏の実権を掌握。高歓の権勢に対抗すべく孝武帝は賀抜岳を用いて高歓への牽制を模索するが、この動きに対して賀抜岳を殺害、孝武帝が長安の宇文泰の元へ逃亡する事態が発生する。同年、高歓は孝静帝を鄴で擁立し、東魏を建て専権を掌握。孝武帝を擁する宇文泰と対立したが、河東奪回の戦役の中、52歳で没した。