2011年08月16日

高歓

高歓 能力データ
魅力 4 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 5

中国南北朝時代に北斉の基礎を築いた高歓だったが、自身は帝位につかずに息子の高洋が北斉を建国した後に廟号を太祖、諡号を献武帝と追贈され、後主の即位後に廟号を高祖、諡号を神武皇帝と改められた。
496年に懐朔鎮に属する貧家、高樹の子として生まれた高歓は北魏末の六鎮の乱に参加。初めは杜洛周、次いで葛栄に従ったが、降伏して奚族の爾朱部の長である爾朱栄に身を寄せ、晋州刺史に昇った。その爾朱栄が孝荘帝に殺害されると、信都を拠点に自立。爾朱一族の内紛に乗じて山西を奪い、洛陽に攻め入って爾朱栄の甥の爾朱兆を初めとする爾朱一門を捕らえてこれを処刑。かつては威勢を誇った奚族の爾朱部は滅びた。
洛陽を奪った高歓は平陽王元修を孝武帝として擁立し、自らは大丞相を称して北魏の実権を掌握。高歓の権勢に対抗すべく孝武帝は賀抜岳を用いて高歓への牽制を模索するが、この動きに対して賀抜岳を殺害、孝武帝が長安の宇文泰の元へ逃亡する事態が発生する。同年、高歓は孝静帝を鄴で擁立し、東魏を建て専権を掌握。孝武帝を擁する宇文泰と対立したが、河東奪回の戦役の中、52歳で没した。
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2010年07月18日

王琳

王琳 能力データ
魅力 7 / 統率力 5 / 戦闘力 5 / 政治力 2 / 知力 5

南朝梁の将軍で、陳覇先が覇権を握るのを憎んで梁滅亡時に北朝に人質となっていた皇族を奉じて梁を再興する為に戦い続けた。
梁にとってかわった陳の呉明徹の軍に敗れて殺されるが、学はなかったものの暗記力に優れ、朝廷に忠実で刑罰は乱用せず、財を軽んじ、人を愛した為に兵士達に信望があり死を惜しむ人が多かった。
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2010年06月13日

蕭摩訶

蕭摩訶 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 8 / 政治力 2 / 知力 4

蕭摩訶は南北朝時代の陳の武将で、南北朝の南朝の武将の中では最強。
若い頃から関羽の再来と言われ、ある時に関羽ほどの力があるのかどうか疑われると黙って敵陣に突っ込み、敵将を一撃で討ち果たして帰って来た。
梁の武帝の末年に起きた侯景の乱、北斉戦、北周戦とよく軍を率いて戦い、後主即位によって起きた国内の乱も鎮圧。驃騎大将軍左光禄大夫となり娘は皇后となるも、国勢の衰えと文弱な後主のもとではその武勇は如何とも発揮し難く、滅びゆく国を支えきることは出来なかった。

隋が100万の大軍を発して陳を討った後は、その武将としての名声を認められ隋に仕えて累進したが、604年に漢王楊諒の家老としてその叛乱に付き従い、処刑された。
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2010年06月05日

韋叔裕

韋叔裕 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 5 / 政治力 6 / 知力 8

風貌に優れ、寡黙にして聡明。情報戦や謀略に優れ、多くのスパイ(細作)を放って敵国北斉の国内事情を知り尽くし、斛律光をも流言によって陥れた。
韋叔裕は若くして蕭宝寅の乱を討伐、西征転戦してしばしば戦功を立て、赴任した荊州を鎮して管吏、人民から讃えられた。宇文泰が雍州に赴くと随軍して潼関を陥とし、東魏の将である任祥と堯雄を破る。更に進軍して楽口を平定、豫州を攻め下し、河橋の役にも参戦。東魏の高歓が山東の全兵力をもって西征し玉壁城下に逼ると、長い塹壕を掘って落下した兵をことごとく捕殺。更に塹壕に大量の柴を敷き詰め、火計を持って敵襲を防ぐ。鋭鋒をくじかれた東魏軍に突撃し撃破した。この功により驃騎大将軍、建忠郡公に任ぜられる。

更に柱国に昇った韋叔裕は、晋公宇文護の東討を諌めたが聞き入れられず、北周は大軍を発して出征。しかし利無く、逆に北斉軍に孔城を陥とされ宜陽を囲まれた為に「宜陽は一城といえど戦略の要地」として諸将に檄を飛ばし、宇文護を救いに向かう。韋叔裕は対峙した北斉の丞相である斛律光謀反の童歌を流布させ、北斉の後主の手で斛律光を殺させた。
北斉を滅ぼして帰国後は大司空、延州総督、上柱国となり、72歳で逝くと大傳、十二州諸軍事、雍州牧を贈られ、襄と謚された。
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2010年05月16日

田弘

田弘 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 5

北周の宇文泰の臣下で、生涯に百カ所以上も負傷した驍勇善戦の人。
宇文泰は文武の官を集めた時、「人々が田弘のように心を尽くせば天下は早く定まるだろう」と言ったほど彼を評価し、いつも着ていた鉄甲を与え位は柱国大将軍、大司空、少保にまで昇っていった。
後に中国と日本の共同調査隊によって田弘の墓が発掘され、墓からはローマ金貨が発見されて当時の北周がシルクロードを通じて西方世界と交流していたことが判る。
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2010年05月10日

宇文泰

宇文泰 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 6 / 知力 6

息子の宇文覚が建国した北周の太祖文帝。
北方異民族の出身で、中国内部の混乱の中で諸地方王朝に仕え、最終的に北魏のもとに入り力を蓄えていった。辺境の武川鎮に配されたこの武人集団は北魏の漢化政策のもとで次第に置き去りにされ不満を持つようになる。これがやがて北魏滅亡の要因となるが、宇文泰はその中で頭角をあらわし、北魏分裂後の西魏の宰相となって軍事的、政治的業績をあげて北周の基礎を築く。

宇文泰は地方政権をつくった人物として、曹操劉裕に匹敵する英雄と評せられ、容貌は耳が大きく両手が長くて膝の下までとどくという三国志の劉備そっくりである。
于謹、李弼、田弘韋叔裕という名将を有して北周は北斉、陳と三国鼎立を形成し、三国中一番まともな政治が行われていた(北斉は代々皇帝が酒乱で殺人狂、陳は軟弱で後主が女と酒と詩文に溺れて国政を省みない)。北周がまず北斉を滅ぼし、天下の四分の三を支配したところで隋に簒奪されてしまう。
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2010年05月05日

蘭陵王

蘭陵王 能力データ
魅力 9 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 2 / 知力 5

北斉の皇族で文襄帝高澄の第四子。名は高長恭。
美しい容貌をもった軍事的天才で、武成帝高洋、後主のもとで功績を立てた。突厥が晋陽に侵入した時には力戦して撃退させ、北周が洛陽を攻めた際にはボウ山で激戦、500騎の部下と共に味方を援けるために二度敵陣に突入して洛陽城に到達したが、城内では重囲の中を突破出来る筈がなく敵の計略ではないかと門を閉ざしたのに対し、兜を脱いで顔を示して入城。士気は一気に上がって北周に勝利した。

北斉の兵士は蘭陵王の勇猛ぶりを「蘭陵王入陣楽」を作って歌い讃えたが、その勇猛を恐れた後主に疑念を抱かれ、毒を賜って自殺。蘭陵王と斛律光という双璧を失った北斉は早晩瓦解する。
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2010年05月01日

高洋

高洋 能力データ
魅力 2 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 2 / 知力 3

高澄のあとを継いだのが弟の高洋。
少年の頃、父の高歓が非常に難しい結び方をした紐を放り出し、これを解いてみろと言ったところ、高洋は無言で剣を抜いてばっさり両断したという(アレクサンダー大王の結び目の話が中国にまで伝わり、高歓がその話を聞いて息子にもやらせてみたと思われる)。

兄が政治家として優れていたのに対し、武勇に優れ東魏を簒奪して北斉王朝を始めるが、兄より酷い酒乱で兄は殴るだけであったが高洋は剣を持ってぶった斬ってまわるというとんでもない迷惑な男であった。酔いが醒めると真っ青になって自身のやったことを後悔するが酒がやめられない破滅型の人間。
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2010年04月27日

斛律光

斛律光 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 6 / 知力 6

斛律光は楊大眼同様、北魏に服属した北西方面の異民族(高車)出身で、父が高歓を助けて北斉建国に助力したことから仕えるようになり、蘭陵王と共に北斉を支えた。
しばしば北周の攻撃を撃退した功などによって左丞相にまで昇り詰める。宰相としても将軍としても非常に優れた人物で、若い頃に人間よりも大きい怪鳥をただ一矢で射落としたために「落鳥都督」と呼ばれ、当時ずば抜けて強かった常勝北斉軍を率いて大挙攻めて来た突厥を大破した。

娘は後主の皇后となって勢力を奮うが、敵国の流言などで不安を感じた後主によって斛律光は殺され、一族皆殺しとなる。それが北斉滅亡のきっかけとなり、滅ぼした北周の皇帝も「蘭陵王と斛律光が健在であったなら、とても我々は北斉の都を占領することなど出来なかったであろう」と嘆息したという。
posted by ただの中国史好き at 23:42 | Comment(0) | 南北朝時代
2010年04月24日

高澄

高澄 能力データ
魅力 2 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 6 / 知力 6

高澄は東魏の宰相であった高歓の長男だが、高歓の死後に宰相を継いだ時、侯景が「そんな孺子のいうことが聞けるか」と謀反を起こすものの巧みにこれを鎮定。侯景は敗れて長江を逃れ梁に渡り、そこでまた叛乱を起こすことになる。
非常に才能があったが、酒乱で酒を飲むとがらりと人が変わって残忍暴虐になる致命的な欠陥があった。又、宰相でありながら人前で皇帝(孝静帝)を罵倒し殴るなどの振る舞いが目立ち、孝静帝は近臣と語らって高澄を誅殺しようと企てるも失敗。含章堂に幽閉され、共謀者たちもことごとく高澄に処刑された。

だが、やはり高澄の末路は暗殺であった。
北斉が建国されると廟号を世宗、諡号を文襄皇帝と追尊された。
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2010年04月19日

楊華

楊華 能力データ
魅力 7 / 統率力 4 / 戦闘力 5 / 政治力 2 / 知力 5

楊大眼と女将軍潘氏の長男で、大変な美少年だった。
父が死んだ時に17歳だった楊華は、北魏朝廷で専横をつくしていた美少年好きの霊太后に迫られたり、父の後妻が先妻の子達をないがしろにし、自身の生んだ子に跡を継がせようとした為、父親の葬式後に遺体を担ぎ二人の弟と共に梁に亡命を図った。その時、驚いて河に飛び込んだ後妻(継母)を楊華の弟が射ようとするが、「いくらなんでも母親だからそれだけはやめろ」と言って父親の遺体を担ぎ、長江を渡っていった。

霊太后は楊華を追慕してやまず、「楊白華歌辞」という詩を作って昼夜宮女達にこれを歌い踊らせた。楊華はその後ずっと梁に仕えるが、侯景の乱に巻き込まれて悲劇的な死を遂げる。
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2010年04月18日

曹景宗

曹景宗 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 8 / 政治力 2 / 知力 6

曹景宗は少年の頃から弓の名人で、ある時に友人達と江南の山地へ狩に出掛けたところ、鹿の群れを見付けた。射ようとしたところ、鹿の群れが駆けて来て、こちらの馬の群れと一緒になった為に鹿を射ようとすると馬に当たってしまう状況になったが、曹景宗は次々と矢を放ってことごとく鹿に当てたという。
長ずると、酔って武帝(蕭衍)に喧嘩を吹っかけたり、武帝が文人達と詩作の会を開いていたところに自分も一枚加えてくれと言い、文人達から「あんたに詩なんかつくれるのか?」と言われたものの見事な詩をつくって皆を驚かせた。又、一方で女好きで屋敷の中に何百人もの美女を抱え、これこそ人生の楽しみだと言っていた。

この曹景宗が韋叡を尊敬して何でもその言うことを聞いた為、梁最大の危機であった北魏軍との鍾離の戦いでは、梁軍20万が知将と勇将により手足の如く動き勝利をもたらした。
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2010年04月14日

韋叡

韋叡 能力データ
魅力 9 / 統率力 9 / 戦闘力 2 / 政治力 4 / 知力 8

漢の丞相韋賢の子孫で南朝貴族の名門出身。
465年に雍州主簿に登用されて以来、宋、斉、梁三代の南朝に仕え、梁代に武帝(蕭衍)の信任を得てしばしば北魏と戦ったが、中でも齢60代の際に梁軍20万を率いて中山王元英や楊大眼が率いる北魏100万の大軍を鍾離の戦いで破り、老将の名は高まる。この功によって永昌侯に任ぜられた。

韋叡は部下の兵士全員に食事がいき渡るまでは自身も食事をせず、兵士達が雨に濡れていると自身もテントを張らずに一緒に濡れているなど非常に部下の兵士をかわいがった為、その麾下は精鋭揃いであった。自身は甲冑も身につけず、儒学者としての服装のまま剣や槍も持たずに木製の輿に乗り、一本の竹の杖を振って全軍の指揮を行ったという。梁軍は知将韋叡と勇将曹景宗という絶妙のコンビで北魏の天下統一を阻み、その後発展期を迎えた。
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2010年04月12日

楊大眼

楊大眼 能力データ
魅力 9 / 統率力 8 / 戦闘力 10 / 政治力 2 / 知力 5

北魏は漢族の王朝ではなく、北方から南下してきた鮮卑族の王朝であり、内部に多くの異民族を抱えていた。祖父以来北魏に仕えてきた楊大眼は孝文帝、宣武帝に仕えて平東将軍、荊州刺史として淮南で梁と戦ってしばしばこれを破り、その武勇は「六軍に冠する」と称された。梁の兵卒民衆はこれを恐れること甚だしく、泣く子を黙らすのに「楊大眼至る!」と威したほどに強い猛将で、南北朝随一。部下を愛した為に兵士達は彼の為に命を捨てて戦った。

楊大眼は非常に身体能力が高く、頭に三丈(9m)の長さの布を縛り付け走ったが布の端が地面につかなかったという。自身も非常に武勇に優れ、戦では率先して突撃。当時から「関羽、張飛がよみがえっても楊大眼には叶わないだろう」と恐れられる。又、騎射に長じた妻の潘氏を潘将軍と呼んで共に戦場を疾駆した。
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2010年04月05日

蕭衍

蕭衍 能力データ
魅力 8 / 統率力 4 / 戦闘力 2 / 政治力 7 / 知力 6

南朝梁の武帝(高祖)。
先祖は南斉の一族で、自らも雍州刺史に任ぜられ、知堅を傍に置いていた。南斉の東昏侯によって兄が殺されたのを聞き自立、叛乱を起こして南斉を攻め滅ぼし、帝位について梁の初代皇帝となった。
蕭衍は極力流血を抑えて寛容の政治を布いた為に南朝最高の名君と呼ばれる。

又、仏教に篤い信仰を寄せたことでも有名だが、この姿勢はかえって諸侯の横暴をも招き、晩年には北よりくだってきた侯景を信じて混乱を招いたために幽閉されて死んだ。
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2010年04月04日

檀道済

檀道済 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 2 / 知力 5

劉裕の腹心として、関羽や張飛に比せられる武力と巧みな用兵力で宋建国以前から度々武勲をあらわす。「三十六計逃げるに如かず」という言葉は、無理な戦いはせずに相手が強ければわざと退却して相手を引きずり回し、相手が疲れるところを待って攻撃する檀道済の柔軟な戦いぶりからきている。

劉裕の北伐の際にも先鋒として活躍し、力戦しながら最終的には累進して司空にまで至った。劉裕の死後は四重臣の一人として国を支えるが、多くの百戦錬磨の腹心を抱え、その子供達も才気煥発であったために疑いも招き、文帝によって殺された。この時、檀道済は縛られた身で文帝を睨み、「汝は自らの手で万里の長城を壊すのか!」と叫んだという。
檀道済の死後、たちまち北方から敵が攻め込んで首都を包囲されてしまうと、文帝は「檀将軍はどこにいる?」と情けない声で叫んだ。結局宋は長く続かず、南斉に取って変わられることとなる。
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2010年04月03日

劉穆之

劉穆之 能力データ
魅力 8 / 統率力 4 / 戦闘力 2 / 政治力 8 / 知力 8

劉穆之は東晋末期に劉裕に仕えた政治家。
若い頃から読書を好み、広く書物に通じていた。404年、劉裕が京口で桓玄討伐の兵を挙げると、何無忌の推薦により劉裕の主簿として召し出される。劉裕が首都建康を平定すると、劉穆之は多くの重大な処分をたちどころに定め、更に司馬元顕や桓玄以来の弛緩した政治を一新し、以後劉裕の腹心として重用されることになった。

劉穆之は劉裕に進言して、宰相として朝廷の大権を掌握することを成功させ、その後も劉裕の南燕征服や盧循の平定の際にも、多くの献策や決定を行った。劉裕が劉毅を討伐すると建威将軍に任じられ、建康に留まり諸葛長民の補佐についた。諸葛長民が劉裕に疑心を抱くと、劉穆之は彼をなだめつつも謀反の動きに備え、これにより劉裕は諸葛長民を誅殺した。416年、劉裕が後秦征服の遠征を行うと、劉穆之は建康に留まり世子の劉義符を補佐して朝廷を取り仕切った。同年、劉裕は旧都洛陽を回復したが、朝廷から未だ九錫が授けられずにいた為、王弘が使者として建康に赴き、九錫を要請。劉穆之はこのことを恥じて病を発し、翌417年に死去した。享年58。長安にいた劉裕は劉穆之の死を聞くと急いで彭城に戻り、劉穆之に散騎常侍・衛将軍・開府儀同三司を追贈。更に改めて侍中・司徒を贈り、南昌県侯に追封した。

劉裕は即位後も劉穆之を懐かしみ、常に「彼が存命ならば私が天下を治めるのを助けただろうに」と漏らしていた。光禄大夫の范泰が「劉穆之は創業の折に功業を残しましたが、王朝交替の事業に関わることはできませんでしたな」と言うと、劉裕は笑って「お前は一日に千里を駆ける名馬のことを耳にしていないようだな」と答え、「劉穆之が亡くなって私は人に軽んじられるようになった」と述べたという。

劉穆之は朝政や出征の補給を取り仕切り、その事務処理は流れるように速やかだった。陳情の人々で部屋があふれているような時でも、書類を決裁しながら彼らと応対してみせた。賓客と談笑して時を過ごして倦むことがなく、休暇の時は典籍や文章にいそしんだ。豪奢を好み、食事は贅沢を極め、毎朝10人分の食事を作らせ、食事の時には決まって客10人と食事をした。
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2010年03月31日

諸葛長民

諸葛長民 能力データ
魅力 3 / 統率力 2 / 戦闘力 2 / 政治力 2 / 知力 3

諸葛長民が南朝宋の武帝劉裕と知り合い、「あんたの姓は劉で俺の姓は諸葛だ。劉備と諸葛亮のように一旗あげてやろう」と言ったが、「馬鹿なことを言うな!俺は漢室の子孫じゃなくて貧しい庶民の出身だ」と言ってとりあわなかった。
劉裕は軍隊の中でどんどん出世してゆき、一緒に諸葛長民も出世していくが、しょせん諸葛亮にはなれず後に劉裕に粛清された。
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2010年03月28日

劉裕

劉裕 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 3 / 知力 5

南北朝の宋の高祖武帝。
非常に貧しい家に生まれ、母親は劉裕を生む際に難産で死亡。父親は我が子を抱いて途方に暮れて殺そうとするが、劉裕の叔母が自分も子供が生まれたところだし、乳は自分がやるから殺さないでくれと言って助かった(従い、長じてもこの叔母には頭が上がらなかった)。
やがて持ち前の勇敢かつ粗野な彼は無頼の徒となり、喧嘩や賭博に明け暮れていたが、伝で地方の役人となった。そこへ名門出身だが落ちぶれて酒ばかり飲んで酔っ払って詩をつくる同僚がやってくる。この同僚と劉裕は仲が悪かったのだが、この同僚こそが陶淵明である。

その後、軍に入って力量を発揮し、孫恩の乱討伐、山東遠征、四川制圧、洛陽征伐などを劉穆之という軍師、檀道済、王鎮悪(王猛の孫)という勇将も得て八面六臂の活躍で東晋軍を勝利に導き、朝廷内で一気に実力者に成り上がった。特に恩人を殺した桓玄(桓温の子)の叛乱時には、大軍を擁する桓玄に対して劉裕軍は僅か数百人しかおらず、反対する周囲に「こういうのは博打と同じで勝算は常に五割!」と言って突撃し勝利を収めた。

そして419年、東晋の安帝を殺して自立、宋(劉宋)を建国した。
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2007年05月06日

陳慶之

陳慶之 能力データ
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 2 / 政治力 5 / 知力 8

陳慶之は、中国南北朝時代を代表する名将中の名将。
鐘離の戦いが終わり、南朝梁へ北朝魏の皇族である北海王が亡命して来た際、梁の武帝は陳慶之に僅か7千の兵を与え北海王の魏帰還と即位を援けさせる。
陳慶之が率いる白袍隊(全身白づくめの軍団)は、まず迎撃しに来た魏軍7万を撃破。次いで現れた2万も粉砕。更に15万の大軍にも全滅に近い打撃を与え、ここへ援軍に到着した2万4千にも勝つ。陳慶之はそのまま魏都洛陽を占拠。

北海王を即位させたものの、即位後は酒と女に溺れ皇帝としての資質が無い事を露呈。これを打倒せんと集結した魏軍は都を衝いて北海王を1戦で撃破し捕縛。義理を果たした陳慶之は帰国を決め出立するが、魏は大軍を出して追撃。だが、計11回全て撃退され、陳慶之は無事帰国。

この一連の間に、僅か7千の兵で大軍と58回戦い全て圧勝。陳慶之が生存している間は、梁国土は一度たりとも侵される事がなかった。尚、陳慶之没後10年、候景の乱が元で梁は滅びた。
posted by ただの中国史好き at 13:38 | Comment(5) | 南北朝時代