2011年09月04日

慕容垂

慕容垂 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 6

前燕から前秦の苻堅陣営へ亡命した慕容垂は苻堅の大敗時、ひとり三万の軍団を保って健在であった。苻堅は千騎を率いて命からがら慕容垂を頼って来たが、子の慕容宝は「燕国再建のチャンスですぞ、逸してはなりません!亡命など僅かな恩ではありませんか」と父を説いた。だが、慕容垂は国士として遇してくれ、堅臣王猛が「あの男は将来の為に除くべきです」と進言した時にも「否、否」と言って慕容垂を殺さなかった苻堅の度量の広さを忘れず、「もし前秦の運命がここに極まるのなら、私は関東(函谷関以東)に政権を作り、燕を再興して見せよう」と言った。関西の地を自分の領土にしようとすると、どうしても苻堅と戦わねばならなかったからである。

ために苻堅は助かり、残兵を集めて一旦洛陽、そして長安に向かう。間もなく慕容垂は燕再興の為に苻堅と別行動をとり、後燕の世祖、帝を称して国都を華北の中山に定めた。淝水の戦いから3年後のことである。後燕は5世26年で北燕王馮跋に滅ばされるが、戦乱の時代に一人輝いた明星たる慕容垂の存在は際立っている。歿年71。
posted by ただの中国史好き at 03:02 | Comment(11) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2011年09月03日

石勒

石勒 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 6

風雲児石勒は20歳くらいの時に二人一組で枷をはめられ、親兄弟と離れ離れになり山東に売られた。山東では農場の牧夫となるが、やがて牧場の馬を盗んで群盗入りする。劉淵の傘下に入ったあたりから勢力を伸ばし、劉淵の子の劉聡が没して一族の劉曜の時代(前趙)に入ると独立を決意。山西・河北は石勒の勢力圏となるまでに成長した。
王衍を捕らえて訊問した際、王衍は政治への無関心を表明したが、石勒は「君は若い時から朝廷に仕えて名声も四方に聞こえていた。地位も責任もある立場だった。なのにどうしてそうも政治に無関心なのか?天下を混乱に導いたのは、君のそういう態度にあったのではないか?」と詰り、刀で殺すまでもないと土塀の下敷きにして消した。

若い時に学問をする時間が無かったが、後に古典(特に歴史)に学ぶ態度を忘れず、時間さえあれば「史記」「漢書」を配下に読ませて聴き、「あ、そのやり方は違っているのではないか?それでは天下統一が出来ぬ」と歴史上の失敗等は直ぐ反応したという。
石勒が理想としたのは漢の高祖劉邦で、曹操司馬懿は孤児寡婦を騙して天下をとったと嘲笑。ある日、配下に「わしは史上のどの者に比較出来るか」と聞いたところ、「策略は漢の高祖より優れ、武も魏の曹操より上でありましょう」という回答があると、「身の程というものが人間にはあるものだ。それは言い過ぎだ。もし私が高祖の時代に生きていただら北面して仕え、韓信や彭越と先陣を争ったに違いない。高祖と後漢の光武帝劉秀の間くらいのところか」と言った。
posted by ただの中国史好き at 13:48 | Comment(11) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2010年03月24日

道安

道安 能力データ
魅力 5 / 統率力 1 / 戦闘力 1 / 政治力 4 / 知力 5

道安は「十万の師をもって一人半を得る」という故事の語源となった人物。
有名な坊さんである道安を尊敬する前秦の君主符堅は、戦乱を避けてある町に隠れている道安を得る為に10万の大軍を発してその町を攻め、道安とその弟子を自分の元へ連れて来させた。
仏教史では美談として語られているが、動員された兵士にとってはたまったものではないだろう。符堅の理想や目的の為には現実のコストやリスクを考慮しない人物像が判るエピソードと言える。
posted by ただの中国史好き at 23:59 | Comment(2) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2010年03月22日

王猛

王猛 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 4 / 政治力 9 / 知力 7

王猛は東晋の重臣であった桓温から見込まれたが、桓温が来た際に自分の服についた虱をつぶしながら応対して部下になることを断った。
貧しい家の出であったが学問に通じ、結局北方へ行って符堅に仕えて宰相として厳正な政治を行い、自分自身でも軍を率いて戦い勝利するなど前秦建国に功があった。前秦の首都長安から天下に通じる道路を整備して全部並木道にし、交通の便や治安が非常に向上。王猛は地方政権の宰相としては諸葛亮と並び称されるほど中国では有名で、五胡十六国時代最高の政治家と呼ばれる。

死に臨み、東晋制圧を考えてはならぬという遺言を符堅に遺したが、それも空しく符堅は東晋征討の軍をおこしてひ水の戦いで破れ、国家瓦解を招いた。
posted by ただの中国史好き at 23:11 | Comment(2) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2010年03月21日

苻堅

苻堅 能力データ
魅力 7 / 統率力 4 / 戦闘力 3 / 政治力 6 / 知力 6

東晋時代、争乱続く中国大陸の北方を統一した男が現れる。その名を苻堅。
元々北方異民族の出身だが中国文化に耽溺し、中国統一の理想に燃えて降伏した敵は殺さずに自軍に組み入れるなど、名宰相王猛も「理想と現実は違うのですから、無理に南方の東晋を征服しようなどと思ってはいけません。」と遺言を残したほど。

がしかし苻堅は王猛の遺言を無視して前秦100万の大軍を擁して長江を渡る。苻堅の採った作戦は、わざと負けるふりをして敵を誘い込み、これを包囲撃滅するというものだが、100万の大軍にはそれが徹底されていなかった。謝玄率いる東晋軍6万が決死の覚悟で突入してきたところを苻堅が一時退却の指示を出したところ、前秦軍の中から負け戦だという声があちこちで起こった。元々東晋軍で前秦へ降伏した者達が前秦軍に組み入れられていたが、彼等は苻堅に心から従っていたわけではない為、この機会に負け戦だと次々に叫んで軍を混乱させたのである。
こうして100万もの大軍がいっぺんに崩壊、四散。苻堅が気付くと本陣まで敵兵が迫って来ており、慌てて逃げ出す始末で1000〜2000にまで減った自軍は風声鶴唳(風の音にも敵軍の奇襲ではないかと恐れる始末)の有様で、慕容垂の軍に護られ命からがら北へ逃げ帰った。

これを契機に前秦の求心力は低下。西燕、後秦が独立し、それらに敗れた苻堅は禅譲を迫られるが拒否して縊り殺された。
posted by ただの中国史好き at 23:55 | Comment(5) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2010年03月15日

謝玄

謝玄 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 6

孝武帝の時代、前秦の符堅が現れて南下と天下統一の勢いを示していた。この際、謝玄は叔父である東晋の名宰相謝安から江北の軍事6万を託されて100万の前秦軍と淮水一帯で戦う。
この東晋最大の危機となった「ひ水の戦い」にあたり、一族の団結を固めて南に避難してきた流民や劉牢之の兵を指揮し、僅かの軍勢で符堅を撃退。急使によりこの勝報を聞いた謝安は友人と家で碁を打っていたが、何事か聞く友人に「なに、小僧どもが敵をちょっとやっつけた様です」と言い、お客が帰った後で「やった!」と飛び上がった途端に下駄の歯が折れてひっくり返ったという逸話が残っている。

この戦いの結果、前秦は瓦解して東晋は生き延びえた。謝玄はこの後も山東省や河南省に出撃するが、中央と意思疎通を欠いて功をあげぬまま病没した。
posted by ただの中国史好き at 23:04 | Comment(2) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2010年03月14日

祖逖

祖逖 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 5 / 知力 7

祖逖は日本では全く無名だが、中国では非常に有名な人物。
八王の乱以来、晋の混乱を目の当たりにして数百人を連れて長江の南に非難するなど若い時から気概ある人物として知られていたが、北方の故郷を取り戻したいという強い思いは変わらず、元帝に見出されて東晋の武将として活躍する。がしかし、東晋は北伐する余力と気運に欠けている為、祖逖は皇帝に直訴して僅かの援助を得たのみで旧来からの部下を中心とした約2000名の義勇軍を集め、313年に北伐して次々に勝利を収める。
彼等が長江を渡る際に船のオールで水面を叩き、「北方を回復しない限りは生きてこの河を渡らず」と誓った話は文天祥の「生気の歌」でもうたわれるなど非常に有名な話。以来、揚子江を渡ってしばしば石勒を破り、占領地の民衆を鎮撫した為に黄河以南は悉く東晋のものとなった。祖逖は累進して鎮西将軍となったが、仲々戦乱が収まらないのと志を得ないことを憂えて病没。
posted by ただの中国史好き at 23:02 | Comment(0) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2010年03月13日

陶侃

陶侃 能力データ
魅力 6 / 統率力 7 / 戦闘力 5 / 政治力 6 / 知力 6

若い時は貧しく、母が髪を売って酒肴に変えたという逸話が残っている。
陶侃は呉が亡んだ後に東晋に仕えて頭角をあらわし、叛乱鎮圧などによって勢力を増大。荊州を中心に長江上流域に大勢力を誇った。327年に起こった蘇峻の乱をも鎮圧して大尉に昇るが、生来職務に忠実で東晋の全軍を統率すること41年におよぶなど重きを成した。

尚、陶侃は陶淵明の曾祖父にあたる。
posted by ただの中国史好き at 23:55 | Comment(2) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2010年03月07日

荀灌

荀灌 能力データ
魅力 5 / 統率力 5 / 戦闘力 2 / 政治力 2 / 知力 5

北方から遊牧騎馬民族がどんどん入り込み、殺戮なで混沌とする華北。
朝廷も華南へ移り、漢民族もたまりかねて長江を渡り江南へ行く。これによって江南の人口が激増し、一国を支えうるだけの経済力を有することになった。
そんな混乱の中で荀灌(荀ケの六代目の子孫)のいる城が叛乱軍に包囲され、落城寸前となる。13歳の荀灌はこの窮地に僅かな兵と共に馬に乗って城を脱出、遠方まで救援を求めに走る。そして、二ヶ所から援軍を連れて来て、一方の援軍を少し早く到着させて敵と戦わせ、そこへもう一方の援軍に敵の側面を衝かせて城を無事解放した。僅か13歳の少女のこの機転に人々は「流石は名軍師の子孫だ」と褒め称えたという。

その後の荀灌については不明だが、父は無事長江を渡り再興された晋の朝廷に仕えた為、恐らく同じく行動を共にしたのであろう。
posted by ただの中国史好き at 12:54 | Comment(0) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2010年02月27日

恵帝

恵帝 能力データ
魅力 3 / 統率力 2 / 戦闘力 1 / 政治力 1 / 知力 2

武帝(司馬炎)の息子で西晋第二代皇帝、司馬衷。
最初に武帝司馬炎が司馬衷を後継者にするとした際、大臣が溜息をついて玉座をなで、「あぁ、この座がもったいのうござる。」と言ったほど、若い頃から馬鹿殿様で知られ帝位についてからも暗君として歴史に名を留めた。恵帝が大飢饉の際、「民は米が無くて飢えております。」と部下が進言したところ、「米が無いなら何で肉を食わんのだ。」と言ったという。
やがて八人の皇族による謀反「八王の乱」が起こって西晋は混乱に陥り、その渦中で恵帝も叛乱軍に殺されそうになるが、臣下のけい紹が身を呈して皇帝を庇い一命をとりとめる。その際にずたずたに斬り殺されたけい紹の血が恵帝の衣服にかかるが、助け出された後に臣下が服を着替えるように勧めると、「これは忠臣けい紹の血だから自分は着替えない」と言い、後に彼がこうした危険な時代だっただけに敢えて暗愚をよそおっていたのではないかという説の元となった。

がしかし、楊皇太后(武帝司馬炎の皇后)や賈皇后、その一族の専横をも許した恵帝は結局毒殺される。
八王の乱は八人の王が自らの軍事力を強化したいばかりに北方にいる匈奴を呼び込み、西晋の政治の乱れもあって大混乱に陥る。そこを匈奴をはじめとする北方の遊牧民族達があっという間に西晋を乗っ取ってしまった。かろうじて生き残った皇族司馬氏の一人が南へ逃れて長江を渡り、建康に都をおいたのが東晋の始まりである。
posted by ただの中国史好き at 17:49 | Comment(0) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2010年02月21日

司馬炎

司馬炎 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 5 / 知力 5

司馬懿の孫で西晋の武帝。
魏における祖父以来の蓄積を受け継ぎ、禅譲による帝位簒奪を行って西晋を建国。屯田制や九品中正制度など魏以来の改革を進め、名将杜預王濬等の活躍によって280年に呉を亡ぼして久しぶりの天下統一を成し遂げた。しかし、一方で西晋周辺には異民族の侵入が続き、自らも晩年は女色にふけり(亡ぼした国の後宮を全部取り込み、後宮三千人どころか後宮の美女は一万人を超えていた。司馬炎は毎日後宮へ通うが、一万人の美女の誰が誰か判らない為、ひとまず羊の引く車に乗る。羊が停まった所の女性を抱くわけだが、そこで後宮の女性達は羊の好きな塩を入口に盛るようになり、それが遥か後年の現在に至っても水商売の風習となって残っている)政治も顧みなくなるなど、司馬炎の時代は統一も束の間、後の永嘉の乱のような混乱時代の序章でもあったといえる。

ただ、司馬炎は降伏した国の皇帝は一人も殺さず、貴族にして天寿を全うさせてやるなど、寛大な面ももちあわせていた。
posted by ただの中国史好き at 23:25 | Comment(15) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2010年02月14日

王濬

王濬 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 6

実質的に呉を滅ぼし天下統一を果たした晋の立役者。
四川方面の統治にあたって成功をおさめ、西晋の武帝(司馬炎)が呉を討つと再び益州刺史として赴任。
長江上流でその無数の木屑によって川幅何キロもある長江の河の色が変わるほどの未曾有の大船団を建造。中下流域の呉の漁民が騒ぎ出し、パトロールしていた将軍が慌てて都に報告して長江の水中に何十本も鎖をかけ渡しして上流からの船団を食い止めようとするが、王濬率いる大船団はそれを悉く突破して呉を攻め滅ぼした。

これにより、黄巾の乱以後約100年にわたった乱世が終焉をむかえ、天下統一国家晋が誕生。王濬は累進して撫軍大将軍開府儀同三司に特進した。
posted by ただの中国史好き at 15:34 | Comment(0) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
2010年02月07日

杜預

杜預 能力データ
魅力 6 / 統率力 7 / 戦闘力 3 / 政治力 7 / 知力 7

官僚であり学者であり、将軍でもあった人物。
だが、伝記に「弓馬武芸に通じず」と書かれるほど散々だったらしい。
鍾会の蜀討伐軍に長史として従軍。鍾会は自立を図り叛乱によって死亡するが杜預は失脚を免れた。学者としては「春秋」研究で業績を残し(主君から楽しみを聞かれた際に「春秋左氏伝さえ読んでいれば幸福です」と答えた話は有名)、官僚としては灌漑など農業政策で功績をあげ、晋として残る呉を滅ぼすにはどうすればよいかという方策を進言して軍人としても用いられるようになる。あだ名の武庫とは、軍事に関する知識に秀で歩く軍事図書館的存在であることを意味している。

呉の陸抗同様に名将とうたわれる羊こが自身の後任として推し、杜預はその期待に応えて戦えば必ず勝って占領地の人心を収攬した為、敵地であった住民からも慕われたという。又、農地が荒れ果てた占領地には水路を作ってそこを農地として民衆に感謝された。

西晋時代には律令の整備に尽力。
posted by ただの中国史好き at 15:43 | Comment(0) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
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