魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 6
前燕から前秦の苻堅陣営へ亡命した慕容垂は苻堅の大敗時、ひとり三万の軍団を保って健在であった。苻堅は千騎を率いて命からがら慕容垂を頼って来たが、子の慕容宝は「燕国再建のチャンスですぞ、逸してはなりません!亡命など僅かな恩ではありませんか」と父を説いた。だが、慕容垂は国士として遇してくれ、堅臣王猛が「あの男は将来の為に除くべきです」と進言した時にも「否、否」と言って慕容垂を殺さなかった苻堅の度量の広さを忘れず、「もし前秦の運命がここに極まるのなら、私は関東(函谷関以東)に政権を作り、燕を再興して見せよう」と言った。関西の地を自分の領土にしようとすると、どうしても苻堅と戦わねばならなかったからである。
ために苻堅は助かり、残兵を集めて一旦洛陽、そして長安に向かう。間もなく慕容垂は燕再興の為に苻堅と別行動をとり、後燕の世祖、帝を称して国都を華北の中山に定めた。淝水の戦いから3年後のことである。後燕は5世26年で北燕王馮跋に滅ばされるが、戦乱の時代に一人輝いた明星たる慕容垂の存在は際立っている。歿年71。