2010年02月01日

ケ艾

ケ艾 能力データ
魅力 5 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 6

若い時は貧困だったが、農業関連の官僚から軍事職に移って頭角を現す。文官時代の経験を生かして随所に屯田を行い、十分に軍糧を確保して戦闘に臨むスタイルを確立。鎮西将軍、征西将軍として263年に蜀の険しい山を越えて成都を劇的に奇襲、一挙に滅ぼす。
その後、蜀を足掛かりに呉征討の準備を進めたが、専断の行為を共に蜀征伐にあたった鍾会に密告され、疑われて斬られた。

ケ艾は吃音であり、中国では吃音の人を励ます時に「あのケ艾もそうだったんだから」と言うらしい。
posted by ただの中国史好き at 22:54 | Comment(0) | 三国時代
2010年01月31日

司馬懿

司馬懿 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 3 / 政治力 7 / 知力 8

後漢に仕えた司馬防の子で、曹操に仕えて屯田策などを献ずる。
魏帝(文帝)のもとで侍中尚書右僕射となり、文帝が倒れると曹真・陳群らと明帝の後継人として補佐。やがて敵対者を排除して権力を握り、丞相、相国と累進して安平公に封ぜられる。
司馬懿は三国志演義では言わずとしれた諸葛亮孔明のライバルであるが、実際の軍才は魏国領内に蜀軍を入れていない点、魏の東北部に穏然たる勢力をもっていた公孫淵を電撃的な急襲で撃破した点(この際、魏は朝鮮四郡を手に入れる)から見ても諸葛亮より上。

司馬懿が魏からの王朝簒奪の土台を築き、司馬師と司馬昭兄弟でそれを揺るぎなきものとし、司馬炎でその遺産を最大限に使って天下統一、西晋王朝建立したと言える。
posted by ただの中国史好き at 15:22 | Comment(0) | 三国時代
2010年01月24日

周瑜

周瑜 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 5 / 知力 7

音楽にも造詣が深い呉の要たる将軍。
周瑜は揚子江下流域の平定に功があり、孫策とは兄弟同然の付き合いで孫策が喬家の美女姉妹の姉を、周瑜が妹を娶ったことは有名。
200年に孫策が死ぬと、弟の孫権を助けて赤壁の戦いを指揮し、中原を制し天下統一に向けて南下する曹操軍を撃破(但し、この赤壁の戦いは曹操にとって致命的な大敗北ではない。それは劉備が陸遜に敗れた際、数多の将軍が戦死したのに比べ、曹操の部下で主だった人間は誰も戦死していないし、この敗北以後に銅雀台という大宮殿を造営しているが、それにも関わらず税金が上がっていない。そして直後から軍事行動を再開して領土も拡大している)。更に曹操を追って南郡を平定し南郡太守となって江陵にとどまった。

周瑜は諸葛亮よりも前に天下二分の計(蜀を取って長江流域を統一し、天下を南北に二分して北方の曹操に対抗)を構想しており、荊州を得た劉備が強大になるのを恐れて先に蜀を得ることを画策したが、攻略に向かう直前に無念にも病死した。
周瑜の死によって劉備軍は歴史の舞台に踏みとどまり、魏呉蜀という天下三分の三国志が現出したと言っても過言ではあるまい。
posted by ただの中国史好き at 22:50 | Comment(3) | 三国時代
2010年01月04日

趙雲

趙雲 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 4 / 知力 6

日本で諸葛亮に続き絶大な人気を誇る趙雲(字は子龍)は、三国志演義の中で関羽、張飛、馬超、黄忠とともに蜀の五虎将軍に挙げられている(五虎将軍は実在しない。正史である「蜀志」では「関張馬黄趙伝」で一つの伝記になっており、フィクションである三国志演義においてこの五人をまとめて五虎将軍と呼んだ)。
劉備が漢中王となった時、関羽を前将軍、張飛を右将軍、馬超を左将軍、黄忠を後将軍に任じるなど、四名は万の軍を率いて戦う地位であり同格に扱われていたが、趙雲は二ランク位下の劉備の親衛隊長的な役割、位置付けであった。その二年後に劉備が帝位についた際は馬超を驃騎将軍、張飛を車騎将軍など、更に昇進させているが、趙雲は全く昇進していない。

ただ、実力や功績は劉備軍内、蜀内では誰もが認めるところであり、他の四名に等しいと考えられていたからこそ、陳寿は正史「三国志」で趙雲を他の四名と並べて一つの伝記にまとめたのであろう。
その後「三国志演義」がメジャーになると、五名の中で一番下であった筈が関羽と張飛の次の位置付けとなった感が強い。趙雲は生前は実力の割りに地位や名誉的には不遇だったが、死後評価がぐんと上がった人物と言える。
死後は長男の趙統が後を継いだ。
posted by ただの中国史好き at 23:23 | Comment(4) | 三国時代
2009年12月23日

魏延

魏延 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 3 / 知力 5

劉備が漢中王となった際、漢中太守を誰にするかが重要な問題となった。
漢中太守は対魏の最前線を担う重要なポストであり、言わば北方総司令官に相応しい人物でなければ務まらない。当時、張飛が選ばれるという予想が一般的であったが任命されたのは魏延で皆驚いたという。魏延はそれだけ劉備から高く評価されており、劉備に対する忠誠心も高かったが、劉備の死後に諸葛亮が軍権をも掌握すると先帝の存命中は前線にも出てこなかった諸葛亮の指揮下で北伐の失敗も続いた為に不満を募らせる。

そもそも、魏延は赤壁の戦い以後に劉備に仕えるが、その時に自身が仕えていた太守を殺して劉備に降った(三国志演義では、これも理由に諸葛亮が劉備に対して魏延を謀反人の相があるので殺した方がいいと勧める)。その後、関羽や張飛、趙雲、馬超、黄忠亡き後は蜀随一の猛将として活躍し、劉備が皇帝に即位すると鎮北将軍に昇進。丞相諸葛亮幕下にあっても最前線で働くが、次第に確執が大きくなって諸葛亮の死と同時に蜀軍撤退を託された楊儀によって反乱者に仕立てられる。「魏延、謀反す」の報は蜀国内を震撼させたが、自分を殺せる者など蜀内にはいる筈もないという傲慢もあり馬岱に討たれ、蜀最後の猛将は散った。
posted by ただの中国史好き at 22:53 | Comment(1) | 三国時代
2009年11月21日

関羽

関羽 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 9 / 政治力 3 / 知力 5

漢の末裔を称した劉備の挙兵当初から張飛と共に義兄弟の契りを結んで仕え、以降、忠義と豪勇比類無き武将として名を馳せた。字は雲長。見事な顎鬚をたくわえ美髯公とも呼ばれた。
献帝を擁した曹操が河北の実力者たる袁紹と覇権を賭けて争った際は、当時呂布戦に敗れ袁紹の下に敗走した劉備の為に捕虜となり曹操によって偏将軍に任ぜられており、曹操配下として出陣。顔良、文醜という袁紹軍の双璧たる猛将を立て続けに斬り、恩を返してから曹操の下を去った。

やがて劉備が関中王となると関羽は前将軍に任ぜられ、彼の単なる武将としての強さだけではなく、用兵力も合わせた強さで威名は天下に轟く。宛では侯音が曹操に対して反乱し関羽と手を結ぶが、曹仁によって陥落させられ斬られる。これに対して息子の関平、都督の趙累らを率いて水陸両軍で曹仁が守る樊城を攻撃。曹仁の援軍に七軍を率いる于禁が駆けつけるが、折からの悪天候により大洪水が起こったこともあって関羽船団は3万の兵を降伏させ、ほう徳を斬った。この時、荊州刺史の胡修、南郷太守の傅方等が関羽に降伏。関羽は樊城を完全に包囲すると共に襄陽をも包囲。更に曹操領内の群盗を扇動して一斉に蜂起させる。遂には丞相掾の魏諷までもが関羽に通じて反逆を起こし、中原は震撼。曹操は狼狽し遷都まで考えるほどであった。

だが、関羽は息子の嫁にと孫権が娘の婚姻を申し込んできたのを断り、孫権を怒らせた。これを見逃さなかった司馬懿等の献言を容れた曹操は孫権と同盟を結び、曹仁の救援に徐晃を派遣。ここに至って関羽は逆に曹操、孫権両軍から挟撃される形となり、元々部下の兵には優しく尊敬されていたものの、士大夫を見下し傲慢であったことが災いして退却を余儀なくされ、その途中で捕縛。子の関平と共に呂蒙に斬られた。
関羽の首級は孫権の使者によって曹操の下へ送られ、曹操によって諸侯の礼をもって葬られる。関羽を殺された劉備は激怒し、222年に呉へ報復の兵を発するが夷陵の戦いで大敗を喫し再起不能となった。

その後、忠義一徹で勇武な関羽は民衆の心をとらえ、三国志演義によって人気が高まり時代をおうごとに信仰が広まる。又、歴代の王朝がこの関羽人気を利用した他、出身地である山西省の商人が明の時代に全国的に活躍した為、商業の神様として変質しつつ全国に拡大した。それが今日なお残っている関帝廟の由縁である。
posted by ただの中国史好き at 22:56 | Comment(3) | 三国時代
2009年11月17日

陸遜

陸遜 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 8

後漢以来の名家であるが呉に仕える。
蜀の皇帝劉備は、呂蒙によって斬られた関羽の仇をとり、荊州を取り戻す為に10万の大軍を自ら親征し発した。蜀軍は怒涛の勢いで呉軍を撃ち破り進軍、呉軍は荊州の拠点であった江陵まで追い詰められる。しかし翌年夏、蜀軍は夷陵で呂蒙の後任として大都督となった陸遜の火計によって大敗し、多くの将軍や文武官(馬良・傅とう・馮習・王甫・張南など)を含む8万余が戦死。劉備は趙雲や馬忠に助けられかろうじて白帝城へ敗走、ここに永安宮を造営して滞在。そのまま逝去した。

これが有名な夷陵の戦いである。この戦いによって蜀は力を失い、滅亡への道をゆっくりと転がり始める。
陸遜はこの大功の後は対蜀担当官として重きをなしたが、特に大きな戦をしたわけでもなく、目立った武勲もあげていない。
後年は軍政両面に渡って呉で重きを成し244年に丞相となるが、孫権と対立するなど呉の国内分裂に巻き込まれて憂死。子の陸抗は知勇備えた名将として、孫の陸機は文才に優れるなど、子孫も呉の中核を成す優秀な一族であった。
posted by ただの中国史好き at 23:08 | Comment(3) | 三国時代
2009年11月14日

呂蒙

呂蒙 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 5 / 知力 8

呂蒙は三国志屈指のヒーローである関羽を破って捕縛し、斬った武将として有名である。
が故に三国志演義では悪役として描かれており、NHKの人形劇三国志では城に立て籠もった関羽を誘き出す為に罪の無い人々を次々に殺すというとんでもない設定にされてしまっている。

そもそも、呂蒙は姉の夫が孫策の重臣であった縁故で孫策に仕えるようになり、孫策死去の後はその弟である孫権に仕えた。黄祖との戦いでは都督の陳就を自ら討ち取るなど、その武勇で功績を重ねると、208年の赤壁の戦い、その後の江陵の戦いでも戦功をあげて偏将軍・尋陽県令に任命される。その後も呉屈指の勇将として対曹操戦や反乱平定に活躍。
がしかし、呂蒙には教養がほとんど無かった。主君の孫権は彼に教養の大切さを諭し、そこから勉学に励むと、後に魯粛の後任として荊州へ訪れた際には魯粛から「呉下の阿蒙に非ず」(呉にいた頃のお馬鹿な蒙ちゃんではない)と評され、それに対して呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」(日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっている。いつまでも同じ先入観で物事を見ずに常に新しいものとして見よ)と言った。尚、孫権は成人してから学問に励んだ武将として、呂蒙と蒋欽を挙げている。

214年には、孫権統率の下で甘寧と共に曹操領の皖を降し、廬江太守の朱光を捕らえ、数万人を捕虜とする。この功績によって廬江太守の任を授かる。
215年、魯粛が1万の軍を率いて劉備軍の荊州総督である関羽を牽制。呂蒙は長沙・桂陽を降伏させ、ケ玄之を使者として派遣して零陵太守を降伏させる。この後、関羽と魯粛が会談、孫権と劉備は和解し、孫権は長沙・桂陽を領有、劉備は零陵を領有することとなる。

魯粛の後任として後を継いだ呂蒙は、大国の魏を交戦するよりも、劉備が締結を無視して占拠している荊州南部の全域を奪い返すことを主張。
219年、樊城攻めに掛かりきりだった関羽に対し病と偽り、後任として無名の陸遜を任命して油断させ、さらに関羽配下の士仁・麋芳を寝返らせる。これによって関羽は益州への退路が断たれて孤立し、ついに冬12月に当陽県の南方でこれを捕え、その子の関平と共に処刑した。呂蒙は関羽を討ち取り、荊州を奪還するという大功績を挙げたのである。
しかし、以前から病に臥せりがちであった呂蒙はまもなく死去。死後は次男の呂覇が後を継いだ。彼の後任には陸遜が選ばれ、孫呉の軍権を掌握していく。
posted by ただの中国史好き at 23:00 | Comment(2) | 三国時代
2009年11月08日

諸葛亮

諸葛亮 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 2 / 政治力 9 / 知力 9


諸葛亮、字は孔明。
諸葛一族は三国時代でも有数の豪族であり、一族は魏・呉・蜀の三国それぞれで要職を得て活用。中でも諸葛亮は劉備に三顧の礼をもって迎えられると、蜀の建国と維持に身命を投げうって尽力したが、魏や呉に比べて国力や人材に乏しい蜀は名将の相次ぐ死と劉備の後を継いだ暗愚な皇帝劉禅がために急速に力を失い、巨星孔明の死によって瓦解への坂道を転がり始める。

実際には軍師としての能力は高くなかった諸葛亮が中国三大軍師(他は周の武王に仕えた太公望呂尚と漢の高祖劉邦に仕えた張良)に祭り上げられているのは何とも三国志演義の魔力による読者の誤った思い入れ、贔屓としか言いようがない。
そもそも赤壁の戦い以後の劉備軍の軍師は紛れもなくほう統であり、ほう統が落命した後は法正が軍師として指揮。法正が亡くなって諸葛亮が軍権を掌握してから蜀軍は戦に勝てなくなる。
後に関羽が呉の呂蒙によって斬られると、劉備は臣下の反対を押し切って自ら敵討ちの為に大軍を率いて呉へ出兵。この際に孔明は「法正が生きていたら主君をお止めしたであろうし、止められなくても負けはしなかっただろう。」と嘆いている。こと軍事に関して、劉備は諸葛亮よりも法正の方を信頼していたのだ。
劉備の死後、孔明は劉備の遺志を継いで蜀軍を率い打倒魏、漢王朝再興の為に出兵を重ねるが、司馬懿によって巧みに防がれて遂に一度も魏の領土を奪い取ることが出来なかった。

では諸葛亮は何の才能に優れていたのか?
それはまさに漢の蕭何の役割と同様、劉備軍が出陣した後の守りと前線への補給能力である。実直清廉な孔明は完璧なまでにこの役割を全うしたが為に、劉備軍は戦に勝てていたとも言える。
posted by ただの中国史好き at 20:15 | Comment(27) | 三国時代
2006年06月19日

曹操

曹操 能力データ
魅力 8 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 8 / 知力 8

曹操、字は孟徳。三国志演技では徹底的に悪者にされているが、三国志正史では揺るぎ無い主役である。
後漢王朝の治下で曹操は騎都尉、済南の相、典軍校尉等の要職を歴任、黄巾の乱鎮圧に活躍し将来を嘱望されていた。ところが、董卓が洛陽に上洛すると、これを嫌って袁紹らに檄をとばして反董卓連合軍を結成、自らも挙兵した。

用兵に長けた曹操は黄巾の残党を打倒、吸収しながら勢力を拡大し、後漢の献帝を本拠である許へ迎え入れ、内外にその実力を誇示。黄河以北の大勢力袁紹との決戦、官渡の戦いでこれを撃破すると、烏桓をも叩いて北方を制覇。曹操は一気に天下統一を狙って荊州の雄、劉表を牽制。この最中に劉表が死去すると併呑される事を恐れた孫権軍と赤壁で激突。だが、周瑜の活躍によって敗北し、ここから天下が魏・呉・蜀に分かれ三国時代へと移行。曹操自らは帝位には就かずに一生を終えた。正に乱世の奸雄であった。
posted by ただの中国史好き at 22:37 | Comment(2) | 三国時代
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。