2010年05月02日

檀石槐

檀石槐 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 5 / 知力 6

後漢末期、中国北方の騎馬民族である鮮卑族に檀石槐が誕生した。
桓帝の時代、父の投鹿侯が南匈奴に三年間従軍している間に、妻は男子を産む。従軍から帰って来た投鹿侯は妻が別の男と交わって産んだ子ではないかと疑い、妻と離別。妻はその男子を実家の部族で養育することにした。この男子は檀石槐と名付けられ、その勇敢さと統率力を後に発揮することとなる。
檀石槐が14〜15歳の頃、別部族の大人である卜賁邑が彼の生母の部族を夜襲し、その牛や羊を略奪した。激怒した檀石槐は単騎で卜賁邑を追撃し、母の部族の牛や羊を取り返したという。檀石槐の出す命令や禁令、裁きは公平だったため、やがて彼は大人(たいじん:部族長)に推戴され、東西の部族大人たちが彼のもとに帰順してきた。その兵馬は強盛で、南は漢の国境地帯で略奪をはたらき、北は丁零の南下を阻み、東は扶余を撃退し、西は烏孫に攻撃をかけた。その領域はかつての匈奴の版図に匹敵し、東西14000余里、南北7000余里にわたって山・川水沢・鹽池などを手中に収めた。

これに対して後漢朝廷は遣使に印綬を持たせて檀石槐を王に封じ、鮮卑と和親をはかろうとしたものの、檀石槐はこれを拒否。侵入略奪はますます激しくなった。檀石槐は自らの領有する土地を東・中・西の三部に分け、各大人を置いて統領させた。
霊帝の時代になると、鮮卑は幽州・へい州・涼州の3州で盛んに略奪をおこない、国境地帯の諸郡は鮮卑から酷い損害を受けない年はなかった。熹平6年(177年)夏、鮮卑は三辺を寇掠。そこで後漢朝廷は護烏丸校尉の夏育、破鮮卑中郎将の田晏、使匈奴中郎将の臧旻を派遣し、南匈奴の屠特若尸逐就単于の軍とともに雁門塞から長城の外に出ると、三つに分かれて進み、2千余里を突っ切って遠征を行う。檀石槐は配下の部族を指揮して、これを迎え撃ち撃破。後漢軍で無事に帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかったという。

こうして鮮卑は隆盛を極めて人口が急増。農耕・牧畜・狩猟だけでは、食糧を十分に供給することができなくなったので、檀石槐は魚捕りが巧みな倭人の国を撃って烏侯秦水のほとりに移住させ、魚獲りに従事させて食料難を解決したという。
檀石槐が45歳で死ぬと息子の和連が代わって立つが、檀石槐の死後それまで選挙制だった鮮卑が世襲制となり、勢力は衰える。
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2009年10月24日

竇固

竇固 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 6

名門竇氏の出で、父である竇融の功績によって光武帝の娘を娶ったが、明帝の時代に一時失脚。
だが、対匈奴戦に登用されると、以後北方や西域政策に関って成功をおさめ章帝の時代にも高官を歴任。
班超を見出したのも竇固である。
天山山脈を越え遠征して大勝利をあげた後漢時代を代表する名将。

出自の良さと功績によって資産を蓄えるが、自身は倹約家で貧しい人々の援助をしたことで謗りを受けることが無かった。
竇固以後、世に言う三国志の舞台が幕を開けるまで何十年間は名将の登場はない。
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2009年10月19日

班超

班超 能力データ
魅力 6 / 統率力 6 / 戦闘力 7 / 政治力 3 / 知力 5

父が班彪、兄が班固(漢書の作者)、妹が班昭という学者の家に育ったが、班超のみそれを良しとせず軍人となった。
自ら願い出て当時放棄されていた西域経営にあたり、ある時は楼蘭に後漢の使者として赴き、待遇が変わって冷遇されたことから匈奴の使者来訪を読み取り、36名の部下を率いて匈奴の使者と軍隊数百名を襲撃。使者と軍隊100名以上を倒した。
その際に班超が部下を叱咤した言葉が「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。

その後、後漢朝廷は権力闘争の渦と化すが、班超は西域で後漢と友好国は保護し、匈奴や匈奴との友好国とは戦って生涯を砂漠で過ごした。
posted by ただの中国史好き at 23:07 | Comment(0) | 後漢時代
2009年09月27日

耿恭

耿恭 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 3 / 知力 5

光武帝の死後、国境警備を強化する為に後漢は西域都護、戊校尉、己校尉を新設。耿恭は戊校尉に任命される。
翌年、匈奴が車師国を撃破し、金満城をも攻めたが耿恭に撃退される。その後、疏勒城(車師国内の後方)に駐屯したがまたしても来襲した匈奴を撃退。
同年8月、皇帝の明帝が死去し章帝が即位するや、匈奴族は直ちに車師国と連合して疏勒城を水路を絶って包囲。耿恭は城内で水源を探し、30メートル以上井戸を掘ったところで水脈にぶつかった為、井戸に向かって拝むパフォーマンスを見せ、湧き出た水を見た将兵は歓喜し、士気は大いに上がった。
その後も後漢と匈奴両軍が援軍を送り、疏勒城包囲戦は続いた為に城内では食料が無くなり、耿恭は将兵達と甲冑や武器に使われている革を煮込んで食べながら、城を固守。やがて匈奴は撤退する。
生き残った耿恭と部下たった26名中、玉門にまで戻った際に更に13名が心身衰弱で死亡。後漢朝廷は班超を代わりに駐留させ、鎮守させた。

他にも羌族が隴西、漢陽に進攻した際には、耿恭は馬防と共に救援として羌族を打ち破り、投降者は数万人にのぼったという。ただ、朝廷に戻った馬防(章帝の親戚)の讒言によって投獄される。解職後は故郷に戻り、静かに息をひきとった。
posted by ただの中国史好き at 23:34 | Comment(0) | 後漢時代
2009年09月21日

馬援

馬援 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 6

馬援は西北辺境出身で元々身分は高くなかったが、経営の才でもって大牧場主となる。がしかしその牧場を狙う西北辺境の遊牧異民族の来襲を幾度となく受け、それを撃退しているうちに軍事の才も得る。
その後、天下が乱れた際に光武帝の下に付き従い、主に天下統一後に将軍として交趾(ベトナム)の大反乱を平定、南方鎮護により神格化された。三国志演義で諸葛亮(孔明)が南征の際に馬援の霊を祭っている。

馬援は年老いてなお盛んな人物で、60歳を過ぎて戦の最前線に出ようとした際、光武帝が「もう歳なんだからやめろ」と言ったが、光武帝の目の前で荒馬を引き出し、飛び乗って走り回り健在であることをアピールし、光武帝を「矍鑠たるものだ。では行ってこい!」と苦笑いさせている。これが元気なお年寄りを矍鑠という語源である。
後に娘が皇室に入った為、馬援は皇族に数えられ光武帝28将からは除外されている。
posted by ただの中国史好き at 10:09 | Comment(4) | 後漢時代
2009年09月19日

呉漢

呉漢 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 6

後漢の呉漢将軍・・・判り難いが光武帝劉秀幕下でも屈指の名将である。
武勲は馮異岑彭を凌ぐが、朴訥ながら気性が激しく、攻め落とした敵国や領土での鎮撫は苦手で呉漢が占領した地で叛乱が起こり岑彭が鎮定しに行くということがあった。
その岑彭が蜀軍の刺客の手に倒れるや、激情の人、呉漢は復讐戦に乗り出し八度の激戦全てで蜀軍を打ち破り蜀を滅ぼす。ただその際に光武帝の命令を無視し、蜀王公孫述および延岑の一族を岑彭の仇として皆殺しにし、宮殿を焼いてしまう。

後の明の太祖朱元璋の軍師、劉基が歴代の名将の戦についてまとめた「百戦奇略」という書にこの呉漢の対蜀戦が挙げられているが、彼の戦には常に略奪がつきまとい、光武帝にも譴責されている。
光武帝28功臣の一人で序列第二位。
posted by ただの中国史好き at 21:46 | Comment(2) | 後漢時代
2009年09月01日

岑彭

岑彭 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 6

劉秀(後の光武帝)挙兵とともに幕下に馳せ参じて大将軍にまで昇進。主に河北地方の平定に尽力した。
岑彭は光武帝即位後も自在な用兵術で各地を転戦、平定し、荊州を任され江南地方を鎮撫。
岑彭軍は規律正しく、掠奪を一切行わなかった為に行くところ郡県は争って降ったという。

主な戦いとしては、秦豊戦で西方を攻めると宣言して捕虜をわざと逃がし、夜中に渡河を敢行。捕虜の情報を信じ全軍で出陣した秦豊の抜け殻の陣を攻めてその東に陣営し、夜中に襲って来ることを予測してこれを返り討ちとした。
天下統一を目指した蜀の公孫述との戦では、配下に公孫述の将である延岑を攻めさせ、その間秘かに渡河して江州に戻り、成都江を遡って公孫述配下の侯丹を撃破。そして夜中に強行軍で武陽を降し、精鋭の騎兵を広都に馳せさせるという電撃戦をやってのける。
当初、岑彭が平曲にいると聞いていた公孫述は延岑らに大兵をもって迎え撃たせたが、その延岑の背後に岑彭が現れたと聞いて「これは神業か」と驚愕した。

だが、あと一歩のところで刺客により暗殺され最期を迎える。
光武帝28功臣の一人で序列第六位。
posted by ただの中国史好き at 17:48 | Comment(0) | 後漢時代
2009年06月21日

馮異

馮異 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 6

地方の役人だった馮異は劉秀(後の光武帝)のもとへ身を投じ、敗走の最中に一杯の粥を劉秀、ケ禹と三人で分け合って食べたりするなど、艱難辛苦を共にしながら功績を重ねる。
馮異は、他の将軍達が自身の手柄について皆の前で自慢しあっていると、一人だけ大きな樹の根元に腰を降ろしてニコニコと笑いながら目をつぶって聞いている様な奥ゆかしい人物で、大樹将軍と呼ばれた。

孫子の兵法に通じ、王郎・赤眉の賊、公孫述などを討って後漢の国内平定に尽力したが、後に従軍中に病没。後漢創業28功臣の一人に数えられる。
posted by ただの中国史好き at 22:03 | Comment(0) | 後漢時代
2009年05月23日

ケ禹

ケ禹 能力データ
魅力 8 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 7 / 知力 8

ケ禹は後漢創業28功臣の筆頭。
後の光武帝、劉秀が洛陽で学問を学んでいたまだ無名の青年時代、非常に優秀な七歳年下の少年と対等に付き合っていた。それがケ禹である。
後に劉秀が3千の兵で60万という王莽の大軍を破ると、ケ禹は何百キロの路を遥々駆けつけた。
ケ禹到来を喜び、「君が来てくれたのは友情の為か?」と問う劉秀に対し、彼は「違います。私はあなたについて歴史に名を残したい(功名を竹帛に垂る)。」と答えたという。劉秀は笑ってケ禹を参謀に加えた。
参謀・指揮官としては必ずしも超一流ではなく大敗することもあったが、ある戦いの際には劉秀とケ禹と馮異の3騎だけで一杯の粥を三人で分けあいながら敗走するなど、以後常に劉秀を支え続け、後漢建設時に起こった赤眉の乱鎮圧にも奔走。

劉秀が漢王朝の再興を宣言し帝位に就いたのが31歳。この時にケ禹は24歳の若さで大司徒(宰相)に就く。光武帝の信頼厚く、次の明帝にも仕えて太傅となった。
posted by ただの中国史好き at 12:24 | Comment(0) | 後漢時代
2006年05月28日

光武帝

光武帝 能力データ
魅力 9 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 8 / 知力 7

光武帝、名は劉秀。始祖劉邦が建国した漢は、王莽によって簒奪され一旦滅びる。
近所の陰麗華という美少女に恋する普通の少年だった劉秀も、動乱の中28歳で挙兵。共に挙兵した兄は味方の裏切りにより殺され、姉も敵兵に殺され、妹と二人で一頭の馬に乗り敵の包囲から脱出した事も有った。だが、劉秀に仕える光武帝28将(日本の徳川家康28将はこの模倣)の活躍も有って、天下を統一し、漢を再興。
中国史上、自力で天下を統一した皇帝は10人程だが、光武帝はその中でも一代で創業と守成を成し遂げた稀有な人物である。又、光武帝は「柔よく剛を制す」など名言も多く残している。
posted by ただの中国史好き at 20:49 | Comment(14) | 後漢時代
2006年04月27日

楊震

楊震 能力データ
魅力 7 / 統率力 3 / 戦闘力 1 / 政治力 8 / 知力 8

楊震は今孔子と呼ばれた宰相で、その清廉潔白ぶりは、太守時代に賄賂を勧められたが断り、「誰も知らぬという事など無い。天知る、地知る、君知る、我知る」という有名な言葉を吐いて賄賂の提供者を自省させた。
だが、その実直過ぎる性格はやがて疎まれて讒言され、免官。楊震は自決した。楊震の葬儀の日には多くの人が集い、死を惜しんだという。
posted by ただの中国史好き at 23:18 | Comment(0) | 後漢時代
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