2008年03月01日

韓信

韓信 能力データ
魅力 6 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 7

韓信は、若い頃は不遇で洗濯女に食事を世話になったり、街の無頼の徒の言い掛かりに抵抗せず、その股を潜ったりして匹夫と呼ばれ馬鹿にされていた。
やがて秦末の動乱で項梁や項羽に仕えたがまともに用いられず、四川に入った漢の劉邦に仕えて以後本領を発揮。中国史上でも彼を上回る名将は数える程しかいないと言われるその卓越した能力によって、連戦連敗であった漢軍を時に背水の陣など奇抜な戦術を用いながら楚軍とまともに戦わしめ、遂には打倒する。
その軍事的な功績は、軍師の張良や内政と補給の蕭何と並び建国三大功臣に挙げられる程に大きく、王に封ぜられる。

だが、自身が「多々ますます弁ず」と語る程に自信を持っていた、その用兵力と戦略眼が漢帝国建国後は逆に呂后に警戒され、蕭何の謀計によって一族殲滅となる。捕らえられ、処刑される際に「狡兎死して走狗煮らる」すなわち、良い猟犬はずる賢い兎がいる間は大事にされるが、それらの兎がいなくなってしまうと用無しで煮て食われてしまうという意の有名な言葉を残す。

名将の最期としては、あまりに惨めなもので、彼の政治力の無さが惜しまれる。
posted by ただの中国史好き at 21:32 | Comment(10) | 秦・楚時代
2008年02月11日

項羽

項羽 能力データ
魅力 7 / 統率力 9 / 戦闘力 10 / 政治力 3 / 知力 5

項羽は、中国史上最強の武将と言って間違い無いだろう。
名は籍、字が羽なのだが、項籍よりも項羽という呼び方が有名。
叔父の項梁に育てられて大きくなった項羽は、秦末の動乱に項梁と挙兵。項梁死後は楚軍を自ら率い、鉅鹿の戦いで勇名を轟かせ、以後圧倒的な戦闘力を見せ付けて西進、関中に入って楚王を義帝とし、自らは覇王として君臨する。だが、間も無く漢王劉邦が反旗を翻して北上すると、漢楚戦争に突入。
中国三大軍師に数えられる張良、中国の名将と言えば上位15位以内に挙げられるであろう韓信、内政と補給にズバ抜けた才力を発揮する蕭何、この三人をもってして苦戦せしめた項羽の突出した戦闘力は筆舌し難いものがある。

この項羽の最期を、史記の作者司馬遷も惜しんだ節が随所に見られる。
漢楚戦最期の垓下の戦いにおいて、項羽は最愛の人、虞美人を手にかけた後に名馬騅に跨って城から脱出。追撃する漢軍に次々と護衛の兵が討ち取られて28騎にまで減るが、そこから項羽は漢軍に突撃して何百人を討ち取って追い払う。この際、楚軍で失ったのはたった2騎のみ。凄まじい武力、戦闘力としか言いようが無い。しかし、流石の項羽も力尽き31年の生涯を閉じる。

ちなみに、「保元物語」で登場する怪男児、源為朝(身長2m超、剛弓の使い手)の部下が28騎だったというのは、項羽の最期に付き従った28騎の部下の例に倣ったもの。
posted by ただの中国史好き at 00:31 | Comment(18) | 秦・楚時代
2008年01月14日

張良

張良 能力データ
魅力 9 / 統率力 6 / 戦闘力 4 / 政治力 8 / 知力 10

張良は、漢を建国した高祖劉邦に仕えた名軍師で、呂尚(太公望)、諸葛亮と並んで中国三大軍師と呼ばれる(個人的には諸葛亮はとてもこのクラスに並べられないとは思うんですが)。
元々は代々韓の宰相を務める家柄で名門であったが亡国の徒となり、力士を使って東遊中の始皇帝を襲撃するが失敗。姓名を変えて追求の手を逃れた。後に陳勝・呉広の乱が起こるや従者と共にこれに呼応、劉邦との面識を果たし、鴻門の会で項羽から劉邦を守るなど活躍。その帷幕に入るや、鬼才を発揮して劉邦の覇業を大いに助けた。まさに中国史上屈指の名軍師である。

高祖劉邦が天下統一後にこう語る。
「張良が戦略をたて、韓信が軍を指揮し、蕭何が後方を固め補給を万全にする。この三人がいたおかげで自分は天下が取れた。」
張良は洛陽を都にという声が大きく劉邦自身もそうしようと考えていたところを、地形的、戦略的に長安を都にと提案し、その後も建国間もない漢帝国の基礎をつくった。その後隠遁生活を送るが、劉邦の後継者問題では呂后に知恵を与えて事が大きくなる前に事態を収拾させる。劉邦死後に漢帝国に君臨する烈婦呂后が最も頼りとし、敬ったのが張良と言えるのかもしれない。
posted by ただの中国史好き at 01:56 | Comment(8) | 秦・楚時代
2008年01月04日

蒙恬

蒙恬 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 7

蒙恬は、無能者が嫌いな始皇帝の信任が厚かった秦を代表する名将で、秦の天下統一後は専ら対匈奴の最前線で戦った。但し、秦の天下統一前は楚征服戦で李信の副将として参戦し、楚に大敗北を喫していたり、対匈奴戦でも目立った戦果はあげていない。
彼は匈奴対策の一環である万里の長城建設も指揮し、毛筆を発明したとも言われ、やはり始皇帝が長男の扶蘇を託すだけの才能を有した人材だと言える。

だがしかし機略に富む智謀は無く、始皇帝死後、宦官趙高の暗躍を許し、趙高の陰謀によって扶蘇ともども自殺に追い込まれたのは残念で仕方がない。
posted by ただの中国史好き at 09:23 | Comment(2) | 秦・楚時代
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