2011年09月19日

王齕

王齕 能力データ
魅力 6 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 1 / 知力 4

秦の昭襄王・荘襄王に仕えた将軍で、紀元前260年に趙を討って上党を取る。趙の反撃に対して秦は内密に白起を増援させて上将軍とし、王齕をその副将とした。長平の戦いでは趙を大破、翌年には白起に代わって大将として趙の武安君を討ち、皮牢を取る。更にその翌年、趙の邯鄲攻めに苦戦する王陵に代わって王齕が大将となる。紀元前257年、邯鄲を攻めたが陥落させることが出来ず汾城郊外の秦軍と合流。その後に魏を攻めて首を斬ること6千、魏軍は敗走して黄河で2万人が溺死した。そして汾城も奪取して張唐に従い寧新中を抜く。又、韓の上党を攻めて太平郡をおいた。

魏の信陵君が五カ国連合軍を率いて秦を攻めてきた際には、蒙驁と迎え撃ったが敗北。秦軍は河内から河外(河南の地)に退却し、その軍を解散した。
posted by ただの中国史好き at 00:06 | Comment(4) | 戦国時代
2011年09月09日

李信

李信 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 8 / 政治力 2 / 知力 3

紀元前226年、王翦と王賁は燕の太子丹が主導した荊軻による秦王政(後の始皇帝)暗殺未遂事件の報復として燕都薊を攻略、燕王喜と太子丹を遼東に敗走させた(燕の事実上の滅亡)。この際、李信は約千の兵を率いて燕軍を追撃し、太子丹を討ち取る。
紀元前225年、秦王政は楚を征服を図り、対楚戦にどれだけの兵が必要かを臣下に諮問する。李信は20万が必要だと語ったのに対し、王翦は60万が必要だと語る。秦王は王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用して侵攻を命じた。李信は総兵20万を二つの部隊に分けて自身は平輿で、蒙恬は寝丘で楚軍に大勝。更に李信と蒙恬は郢周辺を攻め、再び楚軍を破る。しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を三日三晩追跡して来た項燕率いる楚軍に奇襲され、二箇所の塁壁を破られて七名の将校を失う大敗を喫した為に王翦と交代させられた。
尚、翌年に王翦と蒙武が60万の兵を率いて楚を攻めて楚王負芻を捕縛、楚を滅亡させた。紀元前221年には王賁と蒙恬が共に斉を攻め、これを滅ぼす。

李信の曾孫に前漢時代の名将李広がおり、その子孫に李陵がいる。五胡十六国時代に西涼を建国した李ロは李広の子孫を称し、その子孫に唐の李白がいる。
posted by ただの中国史好き at 22:34 | Comment(3) | 戦国時代
2011年01月17日

紀昌

紀昌 能力データ
魅力 7 / 統率力 2 / 戦闘力 8 / 政治力 1 / 知力 4

趙の都、邯鄲に住む紀昌は天下第一の弓の名人になるという志を立て、当今弓矢をとっては及ぶ者がないと思われる名手飛衛(百歩を隔てて柳葉を射て百発百中する達人)、次いで飛衛をしておのが技は児戯に等しいと言わしめる仙人甘蠅に師事して「射の射」を超え「不射の射」を体得する。真の名人となった紀昌の心は弓への執着からも離れ、遂には弓そのものを忘れ去るに至る。
九年経ち、山を降りた紀昌を見た飛衛はその顔を見ると感嘆して「これでこそ初めて天下の名人だ。我等の如き足下にも及ぶものでない」と言ったという。紀昌は言う。「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と。こうして、紀昌が弓に触れなければ触れない程、彼の無敵の評判はいよいよ喧伝された(古の名人、羿と養由基と比べ噂されたほど)。やがて甘蠅の元を去って40年、紀昌は静かに煙の如く静かに世を去った。
posted by ただの中国史好き at 22:14 | Comment(2) | 戦国時代
2008年01月02日

王翦

王翦 能力データ
魅力 7 / 統率力 9 / 戦闘力 5 / 政治力 4 / 知力 8

王翦は、子の王貴とともに秦王政(後の始皇帝)に仕えた名将で、趙、燕、楚、江南を次々に滅ぼし、秦の天下統一に大きく貢献した。秦最強の武将が誰かと言われれば白起だが、秦最高の武将と聞かれればこの王翦になるであろう。
その平定地を見てみると、趙や燕は北方、楚や江南は南方の国であり、気候や地形、風土が違う地において勝利をあげた王翦の戦術が如何に優れていたかが判る。

楚征服戦を前に、秦王政が王翦に問うた。楚を征服するには如何程の兵が必要かと。王翦は答える。「60万は必要だ」と。秦の全兵力に近いこの答えに対し、多過ぎるのではと感じた秦王政は若い将軍、李信に同じ事を問う。李信は「20万で十分だ」と答え、これを良しとした秦王政は李信を楚征服戦の総大将に任じたが、大敗北。戦勝の勢いに乗じた楚は秦に攻め入る構えを見せた。

驚いた秦王政は、慌てて引退した王翦の自宅まで赴いて詫び、出馬を願った。王翦は60万の兵力を与えられると、秦の全軍に近い兵力を有する自分が謀反などで疑われぬ様、戦地まで向かう道中に何度も秦王政へ戦勝時の恩賞の確認の伝令を飛ばし、秦王政を安心させて楚と対峙。堅固な砦を築いて楚の挑発を相手にせず気勢を削ぎ、自軍の英気が満ち溢れるのを待ち、楚の退却を見るや一気に背後から攻めて楚軍を殲滅、総大将の項燕を討ち取った。
これにより楚軍は総崩れとなり、各城は次々に陥落。王都は落城し、楚王負雛も捕らえられて斬られ、楚は滅亡したのである。

戦術、戦略の実力といい、秦王政の性格を見抜いた対応といい、武のみならず知にも優れた名将である事は間違いない。
posted by ただの中国史好き at 23:14 | Comment(2) | 戦国時代
2007年12月23日

白起

白起 能力データ
魅力 6 / 統率力 10 / 戦闘力 9 / 政治力 2 / 知力 5

白起は秦の昭王に仕えた秦史上、いや戦国史上最強の猛将。
黒雲の如き秦軍を率いて魏軍を龍門で破り5城を陥落、魏兵24万人を斬首。翌年に魏都を落として61城を奪い、武功によって武安君となる。更に魏の華陽を落として三晋(趙・韓・魏)の大将を捕らえ、13万の首級を取る。又、趙と戦って2万の兵を黄河に溺死させ、韓を攻めて9城を抜いて5万の首を取り、遥々楚に侵攻しては楚都を陥落。有名な長平の戦いでは、趙奢の息子趙括が率いる趙軍を完膚なきまでに撃破して全滅させ、捕虜となった40万人を生き埋めにする。趙はこの敗戦によって滅亡に追い込まれる。
だがあまりにも武勲高い為か、白起も後に昭王の疑心を買い、信頼を失って秦都から追放され、爵位も剥奪されて自殺した。

「自分は国家に功は有っても罪は無い筈だ。何故この様な報いを受けねばならぬのか?」
「いや、今まで自分が奪ってきた数多くの命の報いか・・・。」
自害を命じる使者に向かって白起が残した最後の言葉である。
posted by ただの中国史好き at 01:43 | Comment(5) | 戦国時代
2007年12月09日

李牧

李牧 能力データ
魅力 7 / 統率力 9 / 戦闘力 8 / 政治力 4 / 知力 7

李牧は、戦国時代末期の趙の武将。
趙は山西省一帯に位置する事から、絶えず北方の遊牧民族である匈奴の侵攻に悩まされていた。李牧はこの匈奴戦において、塹壕を掘り、土塁を築いて柵を立て、匈奴の機動力を削いで持久戦に持ち込むという戦法を確立。やる方無い匈奴が退散する際にこれを背後から襲って大打撃を与えた。
こうして匈奴と戦いながらも軍事力増強を図り、東胡と林胡をも撃破し、趙の北方戦線を安定。中国の軍事史上で特筆すべき功績を残し、名声も高い名将である。
李牧時代に北方民族対策として築かれた長城は、やがて秦の始皇帝により万里の長城として完成し、より壮大なスケールとなるが、根本の建立目的は李牧の防衛術が基本となっている。

李牧は更に天下統一に向けて大軍で侵攻して来た秦軍を二度に渡り打ち破るが、秦の放ったスパイによる流言飛語で趙王の疑念を買い、捕縛されて殺された。
この愚挙により、趙の滅亡と秦の天下統一への流れは加速し始める。
posted by ただの中国史好き at 02:21 | Comment(2) | 戦国時代
2007年11月12日

信陵君

信陵君 能力データ
魅力 9 / 統率力 9 / 戦闘力 7 / 政治力 5 / 知力 7

信陵君は、戦国四君に数えられる魏の王族で、当時兄である王よりも人望と力を持った人物であった。
紀元前257年、秦の大軍が趙へ侵攻し都邯鄲を包囲するが、信陵君は趙へ嫁いだ姉の為に魏軍の実権を虎符を奪って握ると十万の軍を率いて疾風の如く邯鄲に向かい、秦軍を撃退。
だが、魏軍を勝手に動かし秦に敵対してしまった事で母国に戻れなくなり、趙都の邯鄲で十年を過ごす。すると今度は秦が魏へ侵攻。信陵君はこの事態に素早く動き、他国の軍も集めて秦軍を撃滅。その将才を如何なく発揮した。

これにより信陵君の武名は天下に轟くが、逆に秦にそこを利用され、魏から独立しようとしているという流言飛語をまかれて魏王は疑心暗鬼となり、信頼が薄らいだ為に信陵君は軍権を返上。自宅に引き篭もって酒びたりの面白くない日々を過ごし、一大の英雄は寂しくこの世を去った。
信陵君の死後間も無く、魏は秦によって滅ぼされる。
posted by ただの中国史好き at 23:17 | Comment(0) | 戦国時代
2007年10月21日

趙奢

趙奢 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 3 / 知力 6

趙奢は、廉頗・藺相如など趙に名だたる名臣が居並ぶ時代に登場した英雄。
権威をかさに納税しない戦国四君の一人、平原君から租税を徴収し、怒った平原君に統治を説いて尊敬を受けた。
後に秦が韓へ侵攻した際、廉破など諸将が救援不可能とする中、たった一人可能として将軍に抜擢され、秦を破り馬服君に叙せられる。
この攻によって趙奢は廉破・藺相如と並ぶ地位を得たのである。改めて、この時代の趙はそうそうたる顔ぶれである事が解る。

尚、趙奢は息子の趙括のエピソードが有名で、趙の名臣となった趙奢を論破する程の俊才で子供の頃から期待されていたが、ただの机上の秀才であり、いざ将軍に任命されるや国内に侵攻して来た秦軍を率いる白起相手に大敗をきして趙軍40万人の命を失った。
これを期に、趙は一気に衰亡への道を転がり落ち始める。
言わば趙括は趙滅亡の原因をつくった張本人とも言える。趙奢は趙括の才が実際の戦場では役に立たない事を見抜いていたが、ただ見抜いていただけで是正出来なかったのは名将としてマイナス点か。
posted by ただの中国史好き at 18:01 | Comment(0) | 戦国時代
2007年10月06日

廉頗

廉頗 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 3 / 知力 5

廉頗は、斉・秦・燕・魏と幾度も戦った趙の宿将。
武の廉頗と文の藺相如が趙の双璧として睨みを利かせている間は、強国秦をはじめとして他国は趙へつけ入ることが出来なかった。
そんな廉頗も、無名だった藺相如が国宝「和氏の璧」を秦から守り持ち帰った事で一気に国内で自分と同じ立場まで昇り詰めてきた時には口舌の徒と蔑み不快に思っていたが、藺相如が国内でのいらぬ混乱を避け、他国につけ入る隙を与えない為に自重しているのを知り深く反省。藺相如の元へ出向き、上半身裸で荊を背負って謝罪した。この後、二人は共にお互いの為であれば頸を刎ねられてもも構わぬという「刎頚の交わり」を結び、趙の磐石時代が訪れる。

廉頗はこの後も武功を積み重ね、天下統一をねらう秦の白起率いる軍と遂に激突。秦は王齕が趙の上党を陥落させた為、廉頗は上党の避難民を救出するべく派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにして要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるよう計略をかけた。この策にかかった趙の孝成王は総大将を交代、これを聞いた藺相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴き入れられず、結局趙軍は大敗して捕虜40万の兵士は生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途を辿っていくのである。
紀元前245年、廉頗は悼襄王によって罷免され、その事を恨んで後任の将軍楽乗を攻撃、撃破する。この為に魏へ亡命、魏から楚へ去ってこの世を去った。
posted by ただの中国史好き at 20:50 | Comment(2) | 戦国時代
2007年05月05日

田単

田単 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 8

田単は元々は斉の都で市場の役人をしていたが、燕軍の進撃によって一族を伴い逃走。その逃走の巧みさをかわれて、燕将楽毅により滅亡寸前となった斉の残った2城のうちの1つ即墨城を守る総指揮官となる。田単は攻め寄せる燕軍を巧みにかわし、燕王の死を知るや間者を放って楽毅が斉において自立を企てていると流言を流した。この流言が効を奏し、新たにたった恵王は楽毅を罷免。
燕の総司令官が楽毅から騎劫へ交代となるや、田単は火牛の計(夜、牛の尻尾に松明を点けて火を放ち、燕軍陣地に向けて突進させる。この火牛の計は、日本の木曾義仲が後に用いた)で仰天した燕軍を5千人の兵士を率いて撃退。この戦を境に、斉の70余城を悉く奪還。

田単は、ただ1度の戦いで歴史を変え、歴史に名を刻んだ。
posted by ただの中国史好き at 22:44 | Comment(2) | 戦国時代
2007年04月22日

楽毅

楽毅 能力データ
魅力 9 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 6

楽毅は、燕の昭王に招かれて将軍となり、斉に復讐を図る昭王の為に怒涛の勢いで斉を攻め、斉70余城のうち、2城を残して全て陥落させ占領する。
この残った2城のうちの1城、即墨城に名将田単がいて仲々攻め落とせないでいるうちに昭王が没して恵王が立つ。残り2城に手間取る楽毅を訝る恵王は田単の放った間者による「楽毅は斉で独立して王になる」という流言に引っ掛かり、楽毅を総司令官から解任。動揺した燕軍は、田単の火牛の計によって撃破され、占領した70余城を悉く奪い返された。愕然とした恵王は、燕を去って趙王に仕える楽毅を呼び戻そうと手紙を送るが丁重に断られたものの、楽毅の子孫をむげに扱う事は無かった。

昭王があと数年生きていたら、恵王が楽毅を信任していれば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。
楽毅はあの諸葛亮(孔明)が尊敬した人物。
posted by ただの中国史好き at 20:58 | Comment(20) | 戦国時代

孫ぴん

孫ぴん 能力データ
魅力 6 / 統率力 9 / 戦闘力 0 / 政治力 4 / 知力 9

孫ぴんは、孫武の子孫。
著書に「斉孫子」「孫ぴん兵法」が有り、孫武の著書「孫子」に対して攻城戦や歩兵戦などで進化を見せている。
孫ぴんは若い頃にほう涓と共に鬼谷先生の下で兵法を学び、常に孫ぴんがNo1、ほう涓がNo2で二人共将来を嘱望されていた。

先に魏の恵王に認められたほう涓は、昔の約束通り孫ぴんを魏の恵王に推薦する為に呼び寄せるが、自分より優れた才能を持つ孫ぴんが自身を超える事を恐れて無実の罪を着せ、投獄。更に両足まで切断させる。

奸計に気付いた孫ぴんは、奇策を用いて斉国からの使者で魏を訪れていた田忌に助けてもらい脱獄・出国。その才能を認められ斉において軍師となり、後に魏と斉が雌雄を決する戦いにおいて、魏将ほう涓の心理を巧みについた作戦で斉を完勝に導く。
ほう涓は、闇夜の森の中で孫ぴんが木の皮を剥いで書いた「ほう涓ここに死す」という文字をよく見ようと松明に火を点した瞬間、斉の伏兵に一斉射撃されて死亡した。孫ぴんの復讐は成ったのである。
posted by ただの中国史好き at 20:29 | Comment(0) | 戦国時代
2007年04月14日

呉起

呉起 能力データ
魅力 5 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 8 / 知力 8

呉起は、「孫子の兵法」と並ぶ兵法書の著者。
元々孔子の弟子である曾子の門下生となり儒家であったが、母親が亡くなった際に喪に服さなかった為、破門された(曾子は孔子の弟子の中でも最も孝行に重きを置いた人)。
その後各国各地を流れに流れて魏で仕官。戦の上手さと弁舌に長けてたちまち魏の文侯の信頼を得る。

呉起は、軍においては将軍ながらも兵卒と同じ食事をし、起居を共にした為に信頼を得、足を負傷した兵士の膿を自ら口で吸って包帯をしたというエピソードも有る。その兵士は感激し、呉起の為に命を惜しまずに戦ったという。
仕えた魏・楚にて主たる戦跡76戦46完勝、30引き分け。

楚の悼王に招かれてからは政治家としても特権享有の公族を排除し、法令整備をして行政改革を断行。節約分は兵力育成に充てて国力は盛んとなり、彼自身も絶頂を極めたが、信頼を寄せてくれていた楚の悼王の死により、呉起による改革で憂き目をみた貴族に攻められ、悼王の遺体安置所で矢の全身に浴びて壮絶な死を遂げた。
がしかし、貴族達の放った矢は前王の遺体にも何本か刺さっており、それら貴族70余家はまとめて誅殺された為、呉起は死の間際まで策略を弄し復讐をしたと噂された。
posted by ただの中国史好き at 22:50 | Comment(4) | 戦国時代
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