魅力 8 / 統率力 9 / 戦闘力 10 / 政治力 3 / 知力 5
李広は、前漢屈指の豪将で呉楚七国の乱の際も騎兵隊を率いて活躍。弓の達人で、虎だと思い射た矢が虎の形に似た石を貫いたという故事が残る程で、個人戦でも強かったが部隊を率いても無類の強さを誇った。
その後も対匈奴北方防衛の中心として、数々の武勲を立て匈奴から飛将軍と恐れられ勇名を轟かせた。
又、文帝が狩に出掛けた際、飛び出して来た虎と李広が組み合って短剣で刺し殺したのを見て、文帝に「お前は50年遅く生まれてしまった。50年早く生まれていれば、高祖に従い大諸侯になれただろう」と嘆息し言わしめた。
ところが、その後武帝の時代に入り、武帝が愛妃の衛子夫ゆかりの衛青や霍去病を重用し始めると赫々たる武勲にも関わらず彼等の後塵を拝する様になり、空回りが多くなる。
紀元前119年、衛青ならびに霍去病と匈奴討伐に遠征した際、作戦を誤った事を恥じて陣中で責任を取り自害。
清廉なる性格で恩賞も部下と分かち合い、自身の蓄えはほとんど無かった為、部下は彼の為に死を恐れず戦ったという。