2007年10月06日

廉頗

廉頗 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 3 / 知力 5

廉頗は、斉・秦・燕・魏と幾度も戦った趙の宿将。
武の廉頗と文の藺相如が趙の双璧として睨みを利かせている間は、強国秦をはじめとして他国は趙へつけ入ることが出来なかった。
そんな廉頗も、無名だった藺相如が国宝「和氏の璧」を秦から守り持ち帰った事で一気に国内で自分と同じ立場まで昇り詰めてきた時には口舌の徒と蔑み不快に思っていたが、藺相如が国内でのいらぬ混乱を避け、他国につけ入る隙を与えない為に自重しているのを知り深く反省。藺相如の元へ出向き、上半身裸で荊を背負って謝罪した。この後、二人は共にお互いの為であれば頸を刎ねられてもも構わぬという「刎頚の交わり」を結び、趙の磐石時代が訪れる。

廉頗はこの後も武功を積み重ね、天下統一をねらう秦の白起率いる軍と遂に激突。秦は王齕が趙の上党を陥落させた為、廉頗は上党の避難民を救出するべく派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにして要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるよう計略をかけた。この策にかかった趙の孝成王は総大将を交代、これを聞いた藺相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴き入れられず、結局趙軍は大敗して捕虜40万の兵士は生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途を辿っていくのである。
紀元前245年、廉頗は悼襄王によって罷免され、その事を恨んで後任の将軍楽乗を攻撃、撃破する。この為に魏へ亡命、魏から楚へ去ってこの世を去った。
posted by ただの中国史好き at 20:50 | Comment(2) | 戦国時代
この記事へのコメント
廉頗はその後、魏から楚へ亡命しました。
Posted by ペンギン at 2011年09月18日 19:23
>ペンギンさん

補足説明ありがとうございます。
人物評に訂正・追記しました。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月18日 23:52
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