2007年05月06日

陳慶之

陳慶之 能力データ
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 2 / 政治力 5 / 知力 8

陳慶之は、中国南北朝時代を代表する名将中の名将。
鐘離の戦いが終わり、南朝梁へ北朝魏の皇族である北海王が亡命して来た際、梁の武帝は陳慶之に僅か7千の兵を与え北海王の魏帰還と即位を援けさせる。
陳慶之が率いる白袍隊(全身白づくめの軍団)は、まず迎撃しに来た魏軍7万を撃破。次いで現れた2万も粉砕。更に15万の大軍にも全滅に近い打撃を与え、ここへ援軍に到着した2万4千にも勝つ。陳慶之はそのまま魏都洛陽を占拠。

北海王を即位させたものの、即位後は酒と女に溺れ皇帝としての資質が無い事を露呈。これを打倒せんと集結した魏軍は都を衝いて北海王を1戦で撃破し捕縛。義理を果たした陳慶之は帰国を決め出立するが、魏は大軍を出して追撃。だが、計11回全て撃退され、陳慶之は無事帰国。

この一連の間に、僅か7千の兵で大軍と58回戦い全て圧勝。陳慶之が生存している間は、梁国土は一度たりとも侵される事がなかった。尚、陳慶之没後10年、候景の乱が元で梁は滅びた。
posted by ただの中国史好き at 13:38 | Comment(5) | 南北朝時代
この記事へのコメント
わずか7千の兵力で58度の会戦全てに勝利するなど、戦術の天才どころか戦術の神とさえ呼びたくなります。しかし、58度も敗戦が続けば北魏は兵力を20万や30万位は失った筈なので、梁武帝が20万位の大軍を編成して北伐を行っていれば、あるいは梁による天下統一も夢ではなかったのでは・・・と単純に思ったりしました。
仏像拝んでお経を唱えるのに忙しかったのかな?
Posted by 李常傑 at 2011年08月21日 00:55
当時の梁に20万の大軍を統率できる人物がいるかどうかが疑問ですね。
武帝も10万を超える大軍を統率して勝利した経験はありませんし。
統率を欠いた大軍が少数の精鋭にいとも簡単に敗れるのは、
陳慶之の北伐を見てのとおりです。

あと、陳慶之の軍が爾朱栄の軍を十一度撃退したのは洛陽陥落前ですね。
爾朱栄は矛先を変えて洛陽を奇襲で落としてから、
撤退している陳慶之の軍を攻撃して全滅させ、
陳慶之は変装して命からがら逃げ延びました。
国内の事情で参戦が遅れた爾朱栄が最初から全軍を統率していたら、
陳慶之の常勝伝説は生まれなかったかもしれません。
Posted by お菓子っ子 at 2011年08月21日 06:37
>李常傑さんへ

陳慶之がこの統率兵力でこれだけの戦果を残すこと自体が鐘離の戦い以後の北魏の国力(兵力)がイマイチ不安定なことを物語っているような気がします。
Posted by ただの中国史好き at 2011年08月22日 00:47
>お菓子っ子さんへ

梁も軍事面で人材に恵まれていませんでしたしね。。。
東魏にも敗北したりしていますので、統率10は微妙かなと思いつつ設定してます。
Posted by ただの中国史好き at 2011年08月22日 00:54
ずいぶん久しぶりにコメントさせていただきます。
爾朱栄が出てきた時点で気づけばよかったのですが、陳慶之が北伐を行ったのは北魏が六鎮の乱で大混乱している時だったんですね。北部の反乱軍に対して精鋭を集中していた時だったからこそ陳慶之の快進撃もありえた、という事ですか・・・まあ、それでもわずか7千で北魏の防衛軍を数十度にわたって破っているのは大したものなんですが。
お菓子っ子さんには「適格な将帥がいないから北伐自体ムリ」と否定されてしまいましたが、六鎮の乱で北魏が混乱していた時であれば尚更、10万か20万の大軍を編成して攻め込んでいれば、北魏を滅ぼすのは無理としても山東や関中・朧西方面くらいは領土拡大できたんじゃないかと思うんですが・・・一時的に征服できたとしても乱を鎮圧した爾朱栄が奪回に来れば守りきれないか・・・
Posted by 李常傑 at 2013年01月13日 06:31
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