2007年04月22日

楽毅

楽毅 能力データ
魅力 9 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 6

楽毅は、燕の昭王に招かれて将軍となり、斉に復讐を図る昭王の為に怒涛の勢いで斉を攻め、斉70余城のうち、2城を残して全て陥落させ占領する。
この残った2城のうちの1城、即墨城に名将田単がいて仲々攻め落とせないでいるうちに昭王が没して恵王が立つ。残り2城に手間取る楽毅を訝る恵王は田単の放った間者による「楽毅は斉で独立して王になる」という流言に引っ掛かり、楽毅を総司令官から解任。動揺した燕軍は、田単の火牛の計によって撃破され、占領した70余城を悉く奪い返された。愕然とした恵王は、燕を去って趙王に仕える楽毅を呼び戻そうと手紙を送るが丁重に断られたものの、楽毅の子孫をむげに扱う事は無かった。

昭王があと数年生きていたら、恵王が楽毅を信任していれば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。
楽毅はあの諸葛亮(孔明)が尊敬した人物。
posted by ただの中国史好き at 20:58 | Comment(20) | 戦国時代
この記事へのコメント
戦国時代屈指の名将ですね。
戦術面では白起や李牧に劣るものの、その優れた外交手腕は当時最高レベルでしょう。それに六カ国連合を纏め上げたことを鑑みると統率力は10にあげたいですね。
Posted by とうりすがり at 2011年08月17日 20:26
>とうりすがりさんへ

戦国時代を代表する名将ですが、満点をあげれるまでの能力には今一つ足りないかと。
Posted by ただの中国史好き at 2011年08月19日 00:57
そうでもないと思いますよ。

戦術ではたしかに白起に劣りますが六カ国連合を纏め上げ斉軍に勝利したあとの斉への侵略の手際のよさ、統治の迅速さを見ると十分それに値する功績はあげていますね、統率に関しては同時代の武将に比べても頭二つ分くらい飛びぬけているかと。

以上のことから満点はあげてもいいんじゃないですかね?

Posted by 肉 at 2011年09月04日 22:41
>肉さんへ

怒涛の戦果と、楽毅が外されてからの燕軍の情けないまでの負けっぷりは楽毅の能力の高さを物語っていますが、やはりそうすると田単の方が上か互角きと。

あと、亡命後がパッとしませんね。
昭王の器の大きさと信頼あってこその楽毅なのかもしれません。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月05日 21:09
そうでしょうか?

昭王はたしかに名君ですが「昭王あっての」と言われるほどではないとおもいます、一定以上の器を持つ君主のもとなら誰でも、というわけでもないと思いますが名将と呼べるだけの軍功は立てられると思います。

楽毅解任の件は恵王の狭量さが招いたことであり、恵王が度量の広い人物であったのなら楽毅は解任されずにすんだでしょうね。

もし解任されずに城攻めを続行していたとしてもたしかに落とせなかったかもしれません、しかし楽毅がいれば燕は斉の城を失わずにすんだでしょう、それを考慮にいれても田単より下というのはないでしょう。
Posted by 肉 at 2011年09月06日 19:53
ちなみに亡命後は、「燕・趙両国から客卿としての待遇を受け、趙の地でその生涯を閉じた」となっているのでパッとしないと言うのはちょっとちがうとおもいます。

個人的に思うに、もうやりきった感があったので穏やかに余生をおくりたかったんだろうと思います。
Posted by 肉 at 2011年09月06日 19:57
とうりすがりさんの言う「外交手腕」とは「戦略の構築」と言い換える事ができると思います。確かに6ヵ国で連合軍を結成し、当時最強だった斉を攻撃するというのは並みの将相では実行はおろか発想すら出来ないでしょう。せいぜい隣国と2ヵ国同盟を結ぶ程度かと。
その優れた楽毅が数ヵ月包囲しても田単率いる即墨城を落とす事が出来なかった・・・これは何を意味するかというと、
 ・楽毅は戦略面では同時代において最も優れた司令官  だったが戦術面では最も優れた指揮官ではなかった
 ・田単は戦略面の能力は不明(戦略を構築するような  地位に居なかった)だが、戦術面では同時代におい  て最も優れた指揮官だった
という事が言えると思います。
「宮城谷昌光の読みすぎだ」と言われるかもしれませんが、楽毅は人格高潔過ぎてどんな手段を使ってでも勝つ、という点が無い分、そこが魅力とも弱点ともなっていたように思います。田単に反間の計で付け込まれたのもきっとそのあたりでしょう。
私は「燕昭王あっての楽毅だった」との、ただの中国史好きさんの見解に大賛成です。恐らく楽毅は燕という国家の臣下になったつもりは全くなく、昭王個人の臣下であるという気持ちだったのだと思います。
「辺境の弱国燕が最強の斉を討つためには、ぜひともあなたの力が必要だ」という昭王の言葉が楽毅の心の琴線に響いたために、「士は己を知る者のために死す」の心境だったに違いありません。昭王の想いを果たすために昭王死後も陣中に留まっていたものの、何ら紐帯を持たない恵王に疑心を抱かれれば斉を攻める意味すら無くなってしまいます。
故郷は趙国内の中山だったので趙の爵位をもらった方が何かと生活しやすかったのでしょう。しかし燕からも爵位をもらったのは故・昭王の恩義に報いるため、燕に軍を率いて攻め込む事はしない、という言外のアピールだったのではないでしょうか?趙の王や朝廷は当てが外れた思いだったでしょうが。
Posted by 李常傑 at 2011年09月06日 21:45
楽毅が即墨を落とせなかったことをもって、田単のほうが優れているとするならば、
即墨と同じく楽毅が落とせなかった莒の防衛を指揮していた法章の指揮能力も、
楽毅より高いんでしょうか?

要害や堅城に結束力の強い部隊が拠れば、
当代最高の名将率いる大軍でさえ撃退できます。
だからといって、その名将より、撃退した部隊の指揮官のほうが名将かといわれると、
そうではないでしょう。

田単も将軍になった後に、無名の将が守る城を攻めあぐねて、
魯仲連に気の緩みを批判されています。
Posted by お菓子っ子 at 2011年09月08日 09:58
>肉さんへ

私が田単の方が上だと思うのは、統率ではなく知力においてです(能力データの通りですが)。
楽毅の知力も互角なのかもしれませんが、やはりそれを発揮しきれない性格・気質が邪魔をして清濁併せ呑む程の凄まじさは感じないんですよね。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月09日 22:08
>お菓子っ子さんへ

やはり歴史を振り返り、ターニングポイントとなる戦で勝利を収めている人物は能力データを高くしちゃいます・・・。
逆に些末な戦での勝敗はさしてその人物の能力を左右する影響力はないかも。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月09日 22:12
確かに細かい戦いの勝敗よりは、強敵相手の大戦の勝敗で考えるべきでしょうね。

そうなると、五カ国連合軍の結成を献策して、使者として盟約を結んだのも楽毅の仕事ですから、
秦と並ぶ超大国の斉をほとんど一人で残り二城まで追い詰めた楽毅は武将としてだけでなく、
策士や説客としても、ターニングポイントを左右するほどの実力があると思うのです。

個人的には楽毅は外交能力と調整能力に優れたアイゼンハワータイプの将軍で、
同盟軍を含む大軍の統率に長けるものの、戦術の妙には欠けるのではないかと思います。
軍を率いて成功した政治家や縦横家上がりの人物はこのような傾向がありますね。

楽毅は名将の評が高いわりに、他の有名な将軍と違って、
具体的な用兵がわかりませんし、
当時の斉ならば、五カ国で攻めたら力押しできると思われますし。

勢いに乗って大軍の利で押しつぶす戦しか出来なかったから、
楽毅は残る二城を落としきれなかったのではないかと。
Posted by お菓子っ子 at 2011年09月10日 02:55
お菓子っ子さんがどうやら私と大体同じような結論に達してくれたようで、ほっとしました(笑)・・・

肉さんの「楽毅が解任されなければ燕は斉の征服地70城余りを失わずにすんだはず」という意見には私は「?」です。
当時の戦国七雄の2トップの1つである斉のほぼ全域を燕が領土化すれば旧斉を上回る超大国が出現する事になり、国境を直に接する趙・魏・楚には大変な脅威となります。秦もまた、自らを上回る超大国の出現をよしとはしないでしょう。
趙・魏・楚が揃って領土の割譲を要求するか、三ヶ国連合軍を結成し、戦争となる事もあり得たのではないでしょうか?秦も三ヶ国連合を支援する可能性の方が高いと思われます。加えて後方では田単が蠢動しているので、楽毅がいかに名将といえども旧斉の領土を維持し続ける事はかなり困難ではないかと。
趙・魏・楚がそれぞれ西北部・東部・南部で5〜10城を獲得し、燕は済水以北に5+αを領土化するにとどまり、田単が30〜40城を回復し、七雄のなかで五番目か六番目に転落した状勢で戦国時代末期へと時代が進んでゆく、というのが私の予想です。
Posted by 李常傑 at 2011年09月10日 10:05
私の意見は、李常傑さんとは多少異なります。
楽毅がいる限り、田単は即墨に閉じ込められたままでしょう。
どんな軍事の天才でも、よく統率された大軍には勝てません。
楽毅は戦術の妙には欠けるかもしれませんが、
五カ国連合軍を一糸の乱れもなく統率していただけでも、
卓越した統率力を有することがわかります。
騎劫の敗北も楽毅解任で士気を維持できなくなったためですしね。

楽毅健在なら、田単の奮闘むなしく70城の占領は維持できたでしょうね。
それを外交的成果として、戦後処理でどれだけ多くの領土を得られるかによって、
縦横家たる楽毅の真価が問われるでしょう。
Posted by お菓子っ子 at 2011年09月10日 10:38
楽毅が恵王の信任を受け続け、司令官の地位に留まれば、そもそも私の言うような周辺3国(秦を含めれば4国)の介入など許さないという事ですね?
その場合、楽毅のとる手段にはどのような方法が考えられるでしょう?
趙・魏・楚の軍事介入を未然に防ぐためにそれぞれの国境線付近の5〜6城を割譲して後顧の憂いなく即墨とキョ(くさかんむりに呂)を持久戦で攻め続けるなら長くても半年位で落城させられそうですが。
燕は57〜8城を領土化して東の超大国となり、楽毅は恐らく戦後、宰相になり、批判の余地もない程の名声が今日まで伝わるようになるでしょうね。
話しが前後して申し訳ないのですが、5カ国連合軍を組織した時に燕は他の4国にどのような見返りを与えた(あるいは約束をした)のでしょう?
Posted by 李常傑 at 2011年09月10日 11:49
>お菓子っ子さんへ

外交能力と調整能力に優れたという評価は確かに的を得ているかもしれませんね。
たらればも含めて考えるとキリがありませんが、政治力は上げてもいい気がしますので、1上げて5にします。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月10日 21:43
彼の政治力5はちょっと低くないでしょうか?
攻略した斉の諸都市を全て維持するのには、相当な政治能力がないと無理だと思います。
比較として、斉が燕の首都まで攻め込んだとき、燕の諸人はこぞって反乱を起こしたため、維攻略都市の維持に苦心したと言われてます。
また、後の時代、諸葛亮や劉邦などがその、文武両面において憧れたというくらいですから、やはり政治力は高かったのではないでしょうか?
Posted by 教祖 at 2011年09月19日 10:11
>教祖さん
楽毅の政治力が卓越したものであれば太子時代から相性が悪かった恵王に対して何らかの手を打って関係の修復を図ったはずだと思われるのですが、現実には人間関係の隙間を田単に察知され、離間策によって総司令官の解任、失脚を余儀なくされています。
5ヶ国連合軍を組織して至強の斉に有利な戦いを挑むというスケールの大きな戦略的発想・構築は知力の高さを証明していますし、将としての戦場での駆け引きも一流の人ですが、戦場の外では政治的配慮に欠けていた、と言わざるを得ないのでは・・・
Posted by 李常傑 at 2011年09月19日 11:24
人間関係は政治力とかだけで評価すべきではないと思います。
この部分は主君のほうのパラメーターがメインなのでは思います。(田単はより上位の存在の恵王に策略をかけた)
この件は楽毅をとばしたというより恵王が楽毅を失ったとも考えるべきかと思います。
実際この時代の政治力の評価の高い人物の多くは常に近い場所で活動してるにもかかわらず、同じような事態で非業の死をとげてます。(近いのに根回しがしきれていない??)
昭王の死のような大きな事態の対処を戦場にいてはどうしようもないのではと思います。
また、そういう人たちと違って、特に楽毅は亡命したとはいえ結果的に忠義の臣という評価を確立した上で高い地位で人生をまっとうできた点はある意味したたかとも評価すべきとも思います。
Posted by みーくん at 2011年09月20日 20:32
>教祖さんへ

怒涛の勢いで斉の各城を奪取し、自身の交代劇によって瓦解するまで統治させた力は確かに評価すべきですが、彼の「政治力」ではない気がしています。
軍事統治による「統率力」かなという評価をしています。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月25日 23:51
>みーくんさんへ

楽毅は後世に名高く、仮に自分が君主だとした場合に重用したいと思わせる名将ですよね。
他にも名将は多々いますが、その中でも屈指の存在です。
それが故に、彼の「政治」をもっと見てみたかった気がします。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月25日 23:55
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