2007年04月14日

呉起

呉起 能力データ
魅力 5 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 8 / 知力 8

呉起は、「孫子の兵法」と並ぶ兵法書の著者。
元々孔子の弟子である曾子の門下生となり儒家であったが、母親が亡くなった際に喪に服さなかった為、破門された(曾子は孔子の弟子の中でも最も孝行に重きを置いた人)。
その後各国各地を流れに流れて魏で仕官。戦の上手さと弁舌に長けてたちまち魏の文侯の信頼を得る。

呉起は、軍においては将軍ながらも兵卒と同じ食事をし、起居を共にした為に信頼を得、足を負傷した兵士の膿を自ら口で吸って包帯をしたというエピソードも有る。その兵士は感激し、呉起の為に命を惜しまずに戦ったという。
仕えた魏・楚にて主たる戦跡76戦46完勝、30引き分け。

楚の悼王に招かれてからは政治家としても特権享有の公族を排除し、法令整備をして行政改革を断行。節約分は兵力育成に充てて国力は盛んとなり、彼自身も絶頂を極めたが、信頼を寄せてくれていた楚の悼王の死により、呉起による改革で憂き目をみた貴族に攻められ、悼王の遺体安置所で矢の全身に浴びて壮絶な死を遂げた。
がしかし、貴族達の放った矢は前王の遺体にも何本か刺さっており、それら貴族70余家はまとめて誅殺された為、呉起は死の間際まで策略を弄し復讐をしたと噂された。
posted by ただの中国史好き at 22:50 | Comment(4) | 戦国時代
この記事へのコメント
呉起が仕えた魏の君主は文侯ですよ。その後、息子の代になって楚へ逃亡。楚の悼王に仕えました。
Posted by ペンギン at 2011年09月18日 19:20
>ペンギンさんへ

ご指摘ありがとうございます。
魏は文侯ですよね。あまりに有名な内容を誤記するとは・・・すいません。

楚の悼王には招かれて仕えたんでした。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月18日 23:33
若い頃の余りに強すぎる上昇志向にはとてもついていけません。魅力5という事はただの中国史好きさんも同じように感じていらっしゃるのでしょうね?
この時代の国政改革というとやはり合理性と即効性を追求して法家思想に基づくものにならざるを得ないのでしょう。
秦の商鞅の改革のように、楚に呉起の改革により法家思想に基づく中央集権的政治・行政組織が根付いていたら後の歴史もずいぶん変わったものになったでしょうね。ひょっとすると始皇帝による中国統一もなく分裂状態が更に百年、二百年と続いたかもしれませんが、そう考えると呉起の改革が彼の死とともに潰え、元の木阿弥に戻ってよかったのか?
Posted by 李常傑 at 2011年09月19日 10:33
>李常傑さんへ

やはり人間的魅力という点からすると高評価はし辛いですね。
改革者的君主であれば、ある種の魅了を感じるのかもしれませんが。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月25日 01:21
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