2012年02月06日

バトゥ

バトゥ 能力データ
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 8 / 政治力 6 / 知力 7

バトゥはジュチ家の第2代当主でキプチャク・ハン国(ジュチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・ハーンの長男ジュチの次男で、後にモンゴル人からは「サイン・ハン(偉大なる賢君)」とまで称される。父ジュチの死により、病弱だった異母兄オルダに代わって次男で母の家柄も良かったバトゥがジュチ家の当主となる。
1236年春2月、モンゴル帝国第2代ハーンであるオゴデイの命を受けてヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、四狗の一人であるスブタイやチンギス・ハーンの4男トゥルイの長男モンケ、そしてオゴデイの長男であるグユク等を副司令として出征。各王家の長子クラスの皇子達、又領民を持っていない皇子達、更に帝国全土の王侯・部衆の長子達、すなわち次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子達が出征するという超大規模なものでバトゥは遠征軍に参軍する皇子達を統括、グユクはその下で皇帝オゴデイの本営軍から選抜された部隊を統括、チンギス・ハーンの功臣筆頭ボオルチュの世嗣ボロルタイがバトゥの本営・中軍の宿将としてこれを率いていた。この時バトゥが率いた兵力は4個千戸隊(約1万人)。遠征軍の征服目標はジュチ家の所領西方の諸族、アス、ブルガル、キプチャクの諸勢力、ルーシ、ポーランド、ハンガリー、更に西方のドイツ、フランス方面をも含んだ。

遠征軍は秋までに当時のジュチ家のオルドがあるイリ方面に到着。冬季にまず宿将スブタイはブルガル市を攻撃、春にキプチャク草原全体に囲い込み作戦を実施、左翼をモンケに任せてカスピ海沿岸を進軍、キプチャクの有力首長バチュマンとアスの首長カチャル・オグラと交戦、捕殺。カスピ海沿岸からカフカス北方までの地域にいたブルタス族、チェルケス族、サクスィーン人(アストラハン周辺)等が帰順、或いはこれを征服。
1237年秋、ルーシ(現ロシア)方面に侵攻。12月下旬にはリャザン、コロムナが劫略され、2月にはウラジーミル大公国を攻略し3月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦してこれを討ち破り戦死に追いやる。ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガリーチ公ダニール等の帰順を受け、モスクワも攻略。その後遠征軍は南に進路を転じてコゼリスクを陥落させ、カフカス北部方面へ一時撤退、諸軍を休養させる。4月からはカフカス北部の諸族の征服を行い、この頃に総司令官バトゥはグユク、ブリ等と論功行賞で激しく対立。その報告を受けたオゴデイの帰還命令によってグユクとモンケは遠征軍を離れモンゴル本土へ出発する。
1240年初春にはルーシ南部に侵攻、キエフを包囲して同地を攻略、破壊。ここでバトゥはカルパチア山脈の手前で遠征軍を5つに分け、ポーランド方面とワラキア方面、カルパチア正面からトランシルバニア経由でハンガリー王国へ侵攻。3月にはクラクフを占領、続いてワールシュタットの戦いでポーランド軍を破ってポーランド王ヘンリク2世を敗死させ、シレジア、モラヴィア地方へも侵攻。カルパティア山間に居住していたサーサーン人を破り、山脈のワラキア人を撃破。
一方、同年3月にはバトゥ本隊はトランシルバニアからハンガリーに侵入、ベーラ4世に降伏勧告を行う。やがてモラヴィアからバイダル、カダアン及びスブタイが合流、ペシュト市を陥落させ、ティサ川流域のモヒー平原でハンガリー王ベーラ4世を急襲してこれを破り、ベーラ4世はオーストリア経由でアドリア海へ敗走。こうしてモンゴル軍はハンガリー全土を支配・破壊するに至る。まさにバトゥの行くところ、敵無しの状況だったのである。続く1241年はトランシルバニア全域の征服、クマン人、マジャール人等のハンガリー王国の残存勢力の掃討、冬には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市を包囲攻撃する。

しかし1241年にオゴデイが死去すると、ほどなくバトゥの本陣にもその訃報が届く。バトゥはオゴデイの死去にともなう遠征軍全軍の帰還命令を受けると、ただちにエステルゴムを陥落させ、カダアンにベーラ4世の追撃を命じる。モンゴル軍の一部はウィーン近郊のノイシュタットまで迫るが、この地域の征服は諦めドナウ流域を経由してキプチャク草原へ撤退。こうしてバトゥ指揮下のモンゴル帝国西方遠征軍は、ハンガリー支配を放棄して帰国することを余儀なくされた。しかし、バトゥの支配したカルパチア山脈以東のルーシ諸国を中核とする東欧の領土は、その後のジュチ・ウルスの基盤となる。
オゴデイ死後、バトゥとルーシ遠征中に険悪な仲となったグユクが第3代ハーンになろうとすると、これに強硬に反対してモンケを擁立。オゴデイが後継者と指名していたのはシレムンであったことを主張、帝国西方の重鎮として不参加を表明しトゥラキナの動きを牽制した為、帝国は5年近く大ハーン位が空位のままという状態に陥った。
結果的にグユクが第三代皇帝(大ハーン)に即位するが、バトゥはクリルタイの決定に不満を抱き大ハーンに即位した後も、グユクから再三にわたり臣従の誓約に赴くようモンゴル本土への召還命令を受けるものの、病気療養を理由に拒み続ける。これに対し、以前から患っていたリューマチの療養のためエミル近辺のオゴデイの放牧地へ行幸すると称し、グユク自ら遠征軍を率いて討伐にやって来るが、同年4月にグユクがビシュバリク付近で急死した為、モンゴル帝国は最有力王族とモンゴル皇帝との内戦という最悪の事態を回避。
グユク死後はモンケを新たなハーンとして推挙し、モンケを強行的に即位させる。この時、バトゥが次代のハーンになることを望む声もあったが、バトゥはあくまで帝国の影の実力者に徹して遂にモンゴル皇帝になることはなかった。その後はジュチ・ウルスの領土の統治に尽力し、ヴォルガ河下流域のかつてのイティル周辺に冬営地サライを首都として定める。バトゥの宮廷を訪れたウィリアム・ルブルックによると、バトゥの宮廷は季節によって南北に移動し、春にはヴォルガ河東岸を北上してブルガール方面に留まり、8月には南に戻っていたと言う。そして1256年、ヴォルガ河畔のサライにおいて48歳で死去。
posted by ただの中国史好き at 23:16 | Comment(3) | 宋・遼・金時代
この記事へのコメント
バトゥはやっぱり統率力10になりますよね、実績からいっても。逆に魅力と戦闘力は8でいいの?それぞれ+1じゃないかな?と思ってしまいますが・・・

チャガタイが無駄に長生きした以外はモンゴル帝国創建時の名将たちって50前後で比較的早死にする人がほとんどですね。バトゥもあと10年寿命が長ければ、ヨーロッパへの再遠征→バルカン北・中部と(現在の)ポーランド・ドイツ位は征服・領域化、(タタールのくびきが東欧・中欧にも及んだ)なんて事になり、世界史を大きく塗り替える可能性が大きかったんじゃないかと思います・・・
Posted by 李常傑 at 2012年02月11日 08:41
それにしても、モンゴルの人物評が他の時代のものに比べてかなり詳細になっており、ただの中国史好きさんのモンゴルの名将たちへの思い入れが特に強いんだなあ、という事がひしひしと伝わってきますね。
Posted by 李常傑 at 2012年02月11日 08:53
>李常傑さんへ

やはりバトゥの統率力は10になりますよね。
オゴデイがあと数年、長生きしていたらモンゴルは中欧まで席巻していた可能性が高いと私も思います。

モンゴル帝国好きはやはりコーエイの「蒼き狼と白き牝鹿シリーズ」のせいですよ(笑)
Posted by ただの中国史好き at 2012年02月11日 22:41
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