2012年01月28日

ボロクル

ボロクル 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 4 / 知力 5

ボロクルはモンゴル帝国初期の武将であり、四駿の1人。1206年のチンギス・ハーン第2即位での功臣リストでは第15位。
テムジン(後のチンギス・ハーン)がキヤト・ジユルキン氏族を滅ぼした時に、降服して来たジャライル部族の首長達のうち、後にジョチ・カサルの傅役となるジェブケという人物がジュルキン氏族の幕営地からまだ幼児だったボロクルを連れて来た。ジャライル部族の首長達は自分の子弟などをテムジンに目通りさせてテムジンやその家族のもとで養育や側仕えさせ、このなかにはムカリ等もいた。
成長すると、チンギス・ハーンの側近として活躍。ナイマン部に襲撃されたケレイト部の為に援軍を率いて活躍、その後ケレイト部と対立して決戦に至った際には重傷を負ったオゴデイを救い出す。

ボロクルはチンギス・ハーンに仕えた当初、侍衛集団であるケシクの一員として大膳職に任じられる。その後ケシクの長であるケシクトゥとなり、同時に万戸長にもなる。更にその後にチンギス・ハーン旗下の諸軍編成中、右翼軍の第二位に列せられる(右翼軍総司令官ボオルチュに準ずる副司令)。
1206年にオノン川河源で開かれたクリルタイによってモンゴル帝国が成立した時、88名の千戸長の1人に任ぜられてダルハン(モンゴル帝国において功臣に与えられる称号で、9度罪を犯しても免ぜられる)の特権が与えられた。1217年に帝国に叛旗を翻したトマト部討伐に向かった際に敵の斥侯に捕えられて殺される。
ボロクルの子孫はその功績によって第1ケシク(怯薛)の宿衛長を世襲。息子のトガンは父の職権を継ぎ、トガンの子シレムン、タガチャルの子孫はフビライの時代以降も代々万戸長になるなど譜代の功臣として栄えた。特にシレムンの息子ユチチャルはフビライ、テムルに仕え、録軍国重事、和林(カラコルム)行省左丞相となる。モンゴル高原駐留時のカイシャンには近侍してこれに仕え、太師、和林行省右丞相さらには淇陽王に封され、父トガンも淇陽王に封されている。タガチャルの息子にはベルグテイ、スルドタイがおり、ベルグテイはモンケの代に南宋遠征のおり蒙古・漢軍四万戸を率いたが戦死、スルドタイもモンゴル軍1万戸を率いてフビライの南宋遠征に従って襄陽・樊城の包囲に参加、更に鄂州、岳州、漢陽などへ攻め進み武功をあげる。
posted by ただの中国史好き at 00:04 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
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