2012年01月21日

ボオルチュ

ボオルチュ 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 5 / 知力 7

ボオルチュは1206年初春のチンギス・ハーン第二次即位の場面において88名の千戸長を選定した勲臣リストが載るが、うちボオルチュはイェスゲイに仕えたコンゴタン氏族のモンリク・エチゲに次ぐ勲臣第2位とされる。
父イェスゲイと部民を失い、困苦の日々を送っていたテムジン(後のチンギス・ハーン)一家はある日、遊牧民にとって財産である馬のほとんどを盗まれてしまう。奪回の為、追跡を開始した途中でテムジンがたまたま出会ったのがボオルチュ少年だった。テムジンから事情を聞いたボオルチュの行動が、目撃していた盗賊の追跡とそのアジトの強襲と劫掠の協力であり、13歳の少年とは思えないその義侠、不敵、智勇に感銘をうけたテムジンは、最初の部下として親友として行動を共にさせる。
以後、帝国初期の創業に参画、長じて屈指の勇者に成長。戦争に強いだけでなく政策の相談を受けることもあり、モンゴル草原制覇の後は中国北部、中央アジアに征旗を立て、誠忠と智勇はチンギス・ハーンが高く認めるところであった。

後にチンギス・ハーンは最も有能と認め信頼を寄せた四駿の一人、ムカリを得た。勲臣第3位のムカリや第7位のクビライを凌ぎ、チンギス・ハーンからオゴデイの時代に掛けてモンゴル帝国における全諸将筆頭で、特にモンリク・エチゲ、ココチュらコンゴタン氏族の勢力が失脚してからは名実共にモンゴル帝国の筆頭部将として活躍。事実、近代以前の最高軍事力のひとつであった十二万九千戸のモンゴル集団を分配した時、三万八千戸を統帥する最高統率者、右翼(バラウン・ガル)万戸長に任命され、トゥルイ家を補佐。封土はアルタイ山脈方面である。

ボオルチュの没年ははっきりしていない。その死後、爵位たる廣平王は息子のボロルタイがが継ぐ。ボロルタイはボオルチュの右翼軍を受け継ぎ、バトゥの西方遠征では宿将となるなど活躍、孫のユステムルは元朝の名臣として名高い。
posted by ただの中国史好き at 22:31 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
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