魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 7 / 知力 7
ムカリはモンゴル帝国の初代大ハーンであるチンギス・ハーンの優秀なる側近四駿四狗の筆頭とも言える人物で、チンギス・ハーンの左翼諸軍に属す24の諸千戸隊を統括する万戸の長。ボオルチュと並ぶモンゴル帝国創業の大勲臣の一人であり、チンギス・ハーン即位時の功臣表ではモンリク・エチゲ、ボオルチュに次ぐ第3位に数えられ、死後に東平王、魯国王に封じられた。
後のチンギス・ハーンことテムジンがキヤト・ジュルキン氏族の首長、サチャ・ベキ、タイチュ兄弟を攻め滅ぼした時、ジュルキン氏族に仕えていたジャアト・ジャライル部族もテムジン一門に降伏。首長であったテレゲトゥ・バヤンの息子達はテムジンに帰順し、そのうちの一人グアン・ウアは息子のムカリ、ブカをテムジンに目通りさせて差し出し、ムカリとブカはテムジンの侍衛集団であるケシクに加えられ養育を受けることになる。
1196年頃からチンギス・ハーンに従ってモンゴル統一の過程で数々の武功を挙げた為、チンギス・ハーンが即位すると万人長に任じられる。金討伐でもチンギス・ハーンに従軍し、遼東・遼西平定で功績を挙げる。
1217年、チンギス・ハーンより国王の称号とゴビ砂漠以南の領土を与えられ、モンゴル族・契丹族・投降した女真族からなる大軍を委任され東方攻略を一手に引き受けた。ムカリは史天沢や厳実、張柔ら漢人軍閥を降伏させて味方に取り込むことで金討伐戦を有利なものとし、更に高麗王朝の服属にも成功。しかし晩年は老齢のためか次第に衰えが見え始め、また金の抵抗も激しく金の首都・開封戦では敗退し、失意のまま同年山西南部で死去した。54歳。
子孫はチンギス・ハーンの孫フビライの創設した元王朝の世襲貴族として仕え、ムカリの子バアトルはフビライの義兄弟として王朝創設に貢献。
ムカリは軍事能力だけでなく政治力にも長けており、モンゴルの人口不足を解消する為に無駄な殺戮は決して行なわず、労働力の確保に努めた。ところが1223年にムカリが没すると、息子のボオルがムカリ国王家の第二代当主となるが、ムカリ国王家による金朝領の経営が順調に進んでいないことを鑑みて皇帝オゴデイは金朝への親征に乗り出し、これを滅ぼす。この為、金朝の征服に前後して皇帝オゴデイ直下の中書省による華北経営権拡大や諸王家による所領の分割などの狭間でチンギス・ハーン治世以来の華北経営の方針が大きく転換、ムカリ国王家による華北経営権はほぼ全面的に失うことになった。
尚、モンゴル帝国の拡大とともにムカリも建国の功臣として崇敬の対象となり、ムカリ国王家の国王世襲はチンギス・ハーンより認められた特権とする認識が帝国内に定着し、その一族もモンゴル貴族社会では尊敬の対象とされた。国王の任命権そのものは大ハーンが有していたものの、その選出は国王家の内部の問題とされ、大ハーンが勝手に次の国王を定めたり、国王を廃することは出来ないとされたのである。
好きな将だけにキャリアの最期に大きな敗北により、失意のうちに亡くなったというのは非常に残念な気がします・・・
ムカリはコーエーのゲーム「蒼き狼と白き牝鹿」シリーズでも能力バランス高くて使える武将だったんですよね(笑)。
まさに名将なんですが、未だ粗野の遊牧民族であったモンゴル軍団を統率して攻城戦を繰り広げたのはさぞや大変だったかと思います。この人の生涯で小説書いたら面白いのではないでしょうか。