2012年01月14日

テムル

テムル 能力データ
魅力 4 / 統率力 5 / 戦闘力 4 / 政治力 5 / 知力 4

テムルはモンゴル帝国第6代皇帝であり、大元ウルスの君主としては第2代大ハーン。
世祖フビライの次男チンキムの三男。父がコンギラト氏出身の正夫人ココジンとの間に儲けた3人の嫡子のうち末子にあたる。父で皇太子のチンキム、祖父フビライに寵愛されていた次兄ダルマバラが相次いで早世した為、フビライの晩年にその後継者の最有力候補となった。
1293年、モンゴル高原に駐留して中央アジアのカイドゥの侵攻に備えていた将軍バヤンがフビライに召還されると、代わりにモンゴル高原駐留軍の司令官に任命され、皇太子の印璽を授けられる。翌年フビライが没すると上都でクリルタイが開かれ後継者が議され、監国として後継者選定を主導する母ココジンや、知枢密院事として軍事権を掌握していたバヤンは一致してフビライによって皇太子に指名されていたテムルを推し、テムルが長兄カマラを抑えてモンゴル皇帝(大ハーン)に即位した。

テムルが即位すると高原に対するカイドゥの侵攻はますます強まった為、兄の晋王カマラに加えて従兄弟の安西王アナンダを始めとする大軍を高原に送り込む。それでも元軍はカイドゥの軍に敗戦を重ねたものの、次第にカイドゥ勢力の行く末を見限った高原西部の王族・貴族が元に投降し始める。これに焦りを深めたカイドゥは配下のオゴデイ家とチャガタイ家の諸王の悉くを動員、全力を挙げて高原に侵攻するが、テムルは甥のカイシャンらを追加派遣してこれにあたり、元軍はカラコルムとタミールで行われた2度の戦いでカイドゥ軍を大いに破る。カイドゥが戦傷がもとで間も無く没したのを機に、チャガタイ家の当主ドゥアはオゴデイ家を継いだカイドゥの息子チャパルを説得してテムルに服属を申し出た。テムルは服従を承認し、フビライ即位時の内乱以来分裂状態にあったモンゴル帝国に45年ぶりの平和統合がもたらされたのである。

テムル政権ではフビライの財政制度を踏襲。テムルの後ろ盾であった将軍バヤンはテムルの即位後間も無く亡くなったが、父チンキムの莫大な遺産を管理する母ココジンがテムルをよく支える。だが、テムルは飲酒と荒淫の悪癖があり次第に病気がちとなってチャパル等との和平を受け入れた頃にはほとんど病床で政務を執ることが出来無くなっていた。宮廷では1300年にココジンが亡くなってからはテムルの皇后ブルガンが勢力を持ち、テムルの代理として政務を取り仕切って権勢を振るう。
1301年に、元寇の弘安の役の江南軍司令官の范文虎(賈似道の婿)をはじめ、将校の雌ソ彪、王国佐、陸文政らの罪状を、僅かに生き残った将兵が「自分達を見捨てて逃げ帰った」と告訴。このことを耳にしたテムルは激怒し、皇后ブルガンと共に徹底的な調査を命じる。范文虎は妻の賈氏をはじめ家族と共に斬首、雌ソ彪、王国佐、陸文政の一家も皆殺しの刑に処された。
やがてテムルが没すると、ブルガンとその反対派の間で政変が起こることになる。
posted by ただの中国史好き at 23:36 | Comment(2) | 元時代
この記事へのコメント
モンゴル/元以前の歴代中国王朝でも頻繁に見られたように、皇帝を取り巻く外戚や権臣たちの利益共同体にとっての必須条件として、傀儡である皇帝はあんまり優秀でないほうが望ましいという典型のような気がしますが・・・
Posted by 李常傑 at 2012年01月30日 19:26
>李常傑さんへ

モンゴルも何代も皇帝を経ると次第にレベルが落ちてきますが、それでもかなりの代まで優秀だったのではないかと個人的に思います。
そういう意味ではテムルは平均点前後の皇帝ではありましたが(相変わらずモンゴル皇帝にありがたちな飲酒荒淫タイプ)、次のカイシャンは軍事面では優秀ですし人口総数の割にモンゴル族というのはほんと優秀ですよね。
Posted by ただの中国史好き at 2012年01月30日 23:01
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