2012年01月10日

モンケ

モンケ 能力データ
魅力 6 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 7 / 知力 8

モンケはチンギス・ハーンの四男トゥルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男で、モンゴル帝国の第4代皇帝。若い頃から資質に優れ、父トゥルイと共に金の名将である完顔陳和尚を三峯山の戦いで破って大勝を収め、父の死によりトゥルイ家の当主となる。第2代モンゴル皇帝オゴデイの下でカラコルムのクリルタイにおいて諸国への遠征計画が発議された。その一つとしてジュチ家の当主バトゥを総司令としてヨーロッパ遠征が決議され、チンギス・ハーン家の各王家から次期当主クラスの王族達を選抜してこれに従軍させることとなった。モンケもトゥルイ家当主として異母弟のボチェク(トゥルイの七男)と共に従軍。遠征軍の総司令官となったバトゥに従ってまずヴォルガ・ブルガール地方に侵入し首都ブルガールを諸将筆頭のスブタイと共に征服、ついで翌年にはボチェクと共にキプチャク諸部族の首長バチュマンを追い詰めて捕殺する武功を挙げた。又、アラン人達の諸城制圧、ルーシ諸国征服においてはキエフ攻略で戦功を挙げる。

1241年にオゴデイが死去した為、本来ならばシレムンかモンケが後を継ぐ筈であったがオゴデイの皇后トゥラキナの政治工作で、オゴデイとトゥラキナの間に生まれた長男のグユクが後を継ぐこととなる。モンケはこれに不満を持つがトゥラキナ生存中は雌伏し、同じくグユクの即位に不満を持つジョチ家のバトゥと手を結ぶ。トゥラキナはグユクを見届けると、その2ヶ月後に病死。グユクはオゴデイ、チャガタイ両家での自勢力の支持基盤を固めようと強引に当主位の改廃を行い、さらに甥のシレムンも遠ざける。特に先年から反目していたジュチ家のバトゥとの対立が決定的となり、あわや内戦になりかけたが即位2年後の1248年にグユクも病死した。
バトゥはオゴデイ家とチャガタイ家から政権を奪い、帝国で最大勢力を誇るジュチ家とトゥルイ家が共同して帝国の国政再建を計画し、ソルコクタニ・ベキと連携。グユクの没した後、その皇后オグルガイミシュが摂政となったが、バトゥはソルコクタニ・ベキやモンケ、フビライ等トゥルイ家の王族達や有力諸将達と共に独自に集会を開き、ジュチ家とトゥルイ家が主催するクリルタイを強行し、全会一致でモンケを次期モンゴル皇帝に指名、モンケは全会一致をもってモンゴル帝国の第4代皇帝として即位した。
この時、後々の害になるとして先帝グユクの皇后として隠然たる影響力を持っていたオグルガイミシュ、更にはシレムン、イェス・モンケ等オゴデイ家やチャガタイ家の反対派を処刑、粛清している。

その後は皇帝としての地位と支配力を固めるべく、河北やトルキスタン等に行政府を設置するとともに財政政策に重点を置き、財政を潤わせる。更に次弟であるフビライを漠南漢地大総督に任じて南宋攻略を、三弟のフレグを征西方面軍の総司令官に任じてイラン方面を侵略させ、1258年にはアッバース朝を滅ぼしている。しかし、晩年のモンケは有能な次弟フビライの存在を恐れ、これを一時的に更迭した為に南宋攻略は遅れ、苛立ったモンケは自ら軍を率いて四川方面から南宋攻略を目指し、帝国諸軍に先行。突出して侵攻したがその途上、翌年に重慶を攻略した後に軍陣内で流行した悪疫にかかって死去した。
モンケは剛毅な性格で奢侈を好まず、シャーマン信仰に篤いモンゴル人である一方、学術教養にも深い理解を示した。モンケ自身数ヶ国語に通じていたうえ、暦を制定するためジャマールッディーンに天文台を建設させた。
posted by ただの中国史好き at 00:34 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。