2012年01月07日

グユク

グユク 能力データ
魅力 5 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 4

グユクは第2代皇帝オゴデイの長子で第6皇后トゥラキナとの間に生まれた長男であり、モンゴル帝国の第3代皇帝。蒲鮮万奴を討ってこれを捕らえる功績を挙げ、父オゴデイがカラコルムを首都と定めた際、併せてこの時召集されたクリルタイでジュチ家の当主バトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍、三弟クチュ、次弟コデンらを総司令官とする南宋遠征軍、更には高麗へも軍を派遣することを決定し、グユクはオゴデイ家を代表してバトゥの西方遠征に従軍することになった。バトゥに次するトゥルイ家の長男モンケチャガタイ家のブリ等と共にルーシ遠征で活躍。
しかし他の兄弟をはじめ、特に従兄弟のバトゥと仲が悪く、他の王族たちと常に対立していた。遠征中の酒宴でブリがジュチ家の王子達と口論になり、遠征軍の総大将であるバトゥを面罵し、グユクもブリに同調。このことでジュチ家の王族達ともめた為、グユクの素行を知った父オゴデイは自身が一族の和を重んじる性格であったことから、一族の最有力者であるバトゥと仲の悪いグユクは自分の後継者として不適格と見なし、候補から除外していたとされる。実際、遠征中のバトゥからこの報告を受けた父オゴデイは激怒し、グユクは本国への召還を命じられるが、オゴデイは1241年グユクが本国に帰還する途上で病没してしまった。
父の死により、本国に最も近い場所にいたグユクは幸運にもハーン位を望むに一番優位な立場となった。
結果、生母トゥラキナが摂政として巧みな政治工作を行い、不仲の従弟バトゥの強硬な反対こそあったもののモンケを抑えて祖父チンギス・ハーン即位所縁の地であるココ・ナウルにおいて開催されたクリルタイで第3代モンゴル皇帝に即位することとなったのである。

即位後の10月、母のトゥラキナが病死すると自ら親政を開始。
軍事面で南宋・イラン諸地方・高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努める。そして自らもヨーロッパ遠征再開の為、一軍を率いて西征へ出発したものの、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク方面で43歳にて急死。かねてからの過度の酒色で健康を害したが為の病死といわれている。
グユクの死後、その皇后であったオグルガイミシュが摂政監国として国政を代行したが、バトゥとモンケらトゥルイ家の王族達はオグルガイミシュの招請を拒否して独自にクリルタイを開催。オグルガイミシュはこの動きに抵抗したが、ジュチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主達がバトゥとモンケの集会に参集したことに加え、シレムンやグユクの子であるホージャ・オグルやナグの兄弟も参加を表明するに及び、モンケがバトゥの支持を得て第4代モンゴル皇帝として即位した。
posted by ただの中国史好き at 23:53 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
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