魅力 9 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 6 / 知力 7
トゥルイはチンギス・ハーンの四男でジュチ、チャガタイ、オゴデイの同母弟。
幼少時から英邁で武勇に優れ人望も厚く、チンギス・ハーンの正妻ボルテから生まれた末子だった為、末子相続の慣行に従って父の死までウルスの分封を受けずにその手元にもつ帝国の最有力王族であった。
1212年にはじまる第一次金遠征ではチンギス・ハーンが自ら指揮する中軍を率いて常に父の傍近くに仕え、河北から山東にかけての黄河河畔にいたる地域の征服で数々の勝利を収めた。1219年にホラズム朝遠征が開始されると、再びこれに従ってここでも中軍を率いてブハーラー、サマルカンドとその周辺などマーワラーアンナフル地方の諸都市の征服で指揮を採る。1220年秋にはホラズム朝のムハンマドの追撃にイラン方面へ転戦したジェベ、スブタイらの後詰めとして、トゥルイはアムダリヤ川を渡ってホラーサーン地方へ派遣され、この地方の主要都市ニサ、メルヴやニーシャープール、ヘラートなどを征服しているが、先鋒部隊を含めて幕僚に戦死者が出るなど激しい抵抗に遭い、又降服勧告を促す使者が殺害されて都市陥落の際には殲滅戦になるなど苦戦を強いられた。報復として投降した住民を虐殺してもいる。翌年にはムハンマドの三男でガズナ地方の領主ジャラールが大軍を率いて挙兵し、チンギス・ハーンがジュチ、チャガタイ、オゴデイらを引連れてこれをアフガニスタンとインダス河西岸で迎え撃ったときには、ホラーサーンに留まって本軍の後詰めを守った。1225年暮れに始まる西夏遠征では翌年2月にはオゴデイと共に父に随行して西夏領内に侵攻。トゥルイはこれらの諸戦役で父と共に各地を転戦して軍功を挙げ、その武名を轟かせた。
チンギス・ハーンが没すると父の所有していた家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民、軍隊の全てを相続し、親族中で飛び抜けた財力と軍事力を獲得、後継の大ハーン選出まで帝国の政務を代行する監国の地位に就く。そして2年後、後継の大ハーン選出にあたっては自身の即位を固辞し、父が生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを第二代大ハーンに推し、即位させた。
オゴデイが即位すると、4個千人隊のウルスしか所有しない兄オゴデイに、自身のウルスの大部分の指揮権を譲り、その一将軍に甘んじる。間も無くオゴデイを中心に金に対する作戦が発動されると、右翼軍司令官として参戦、金領西部の山間部に侵攻し完顔陳和尚率いる金軍を三峰山の戦いで破って主力を壊滅させる戦功を挙げる。
しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死。
トゥルイの莫大な遺産はケレイト部族出身の妃ソルコクタニ・ベキを経て、両人の優秀なる息子達、モンケ、フビライ、フレグ、アリクブカの四子に継承され後の大元、イルハン朝の基盤となった。