2011年12月25日

オゴデイ

オゴデイ 能力データ
魅力 9 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 7 / 知力 7

オゴデイは父チンギス・ハーンに従い、モンゴル統一や金遠征、大西征に従軍。特に大西征においてはホラズム朝の討伐で戦功を挙げ、その功績によりナイマン部の所領を与えられた(オゴデイ・ウルス)。オゴデイにはジュチチャガタイという2人の有能な兄がいたが、ジュチは出生疑惑をめぐるチャガダイとの不和から、チャガタイは気性が激しすぎるところからチンギス・ハーンから後継者として不適格と見なされた一方、オゴデイは温厚で一族の和をよくまとめる人物であった為、父から後継者として指名された。
父の死後、モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオゴデイの弟でチンギス・ハーンの末子に当たるトゥルイを後継者に求める声があった。これは慣習だけではなく、トゥルイ自身が智勇兼備の名将であったうえ周囲からの人望も厚かったこと、父時代に立てた多数の武勲などが要因であるが、トゥルイはこれを固辞してあくまで父の指名に従うと表明し、1229年9月13日のクリルタイでオゴデイはチャガタイやトゥルイの協力のもと、第2代モンゴル皇帝に即位することとなったのである。

その後、オゴデイは父の覇業を受け継ぐべくトゥルイの活躍で金の名将、完顔陳和尚率いる金軍を壊滅させ、1234年までに金を完全に滅ぼす。更に首都としてカラコルムの建設を行い、同地でクリルタイを開催。南宋方面とキプチャク草原からルーシ・東欧に至る西方遠征の二大遠征と、併せて高麗、カシュミールへの遠征計画を決議した。南方遠征については、総司令として中央軍を三男のクチュに任じて山西経由で南下させ、次男コデン率いる西路軍を陝西・四川方面へ派遣しこれを征服させた。
1236年からは甥でジュチ家の当主であったバトゥを総司令官とし、功臣スブタイを宿将としつつ長男グユクやトゥルイ家の当主モンケなど各モンゴル王家の後継者クラスの王族たちを派遣し、ヴォルガ・ブルガール、キプチャク諸部族、カフカス北部、ルーシ諸国、ハンガリー王国(アールパード朝)、ポーランド王国(ピャスト朝)など東欧の大半までを制圧するに至る。しかし、南宋に送り出した遠征軍は、皇太子のクチュが陣中で没したために失敗に終わった。

内政面においては父時代からの大功臣でウイグル人財務総監のチンカイやマフムード・ヤラワチ、耶律楚材らを重用し、全国に駅伝制を導入して領土が拡大した帝国内の連絡密度を高めた。またオルホン河畔に首都カラコルムを建設し、農耕地、都市部の管轄のために中書省を設けた。しかし相次ぐ対外遠征や新首都建設などからの財政悪化、さらには急激に拡大しすぎた領土間の連絡が密に取れず、次第に帝国の一族間における分裂などが顕著になったこと、そして何よりもオゴデイの長男グユクとバトゥの対立が決定的となって一族間に不和が生まれたことなどが、オゴデイの晩年には大きな癌となる。

1241年に大猟を催し、ウテグ・クラン山で幕営し深夜まで飲酒に興じていたが、翌朝、寝床で絶命。56歳。過度の酒色で健康を害して死去したものとされる。死後はチンギス・ハーン、ボルテと同じく起輦谷に葬られた。
オゴデイは生前、後継者として3男のクチュを指名していたが、不幸にも早世。それ以外の息子(グユク以外)のほとんどは早世してしまっていた。この為、生前はクチュの長男シレムンを後継者とし、あるいは甥にあたるトゥルイの長男モンケを後継者として考えていたらしいが、オゴデイの死後、皇后のトゥラキナによる巧みな政治工作でグユクが第3代ハーンに選出された。
posted by ただの中国史好き at 20:55 | Comment(2) | 宋・遼・金時代
この記事へのコメント
兄弟の性格の違いがそれぞれの役割分担にはまって父チンギス・ハンの征服事業をさらに発展させる好循環を生み出したと言えるのでは? 

それぞれ性格・個性の違う、しかも皆水準以上の能力の持ち主である息子達に恵まれたチンギス・ハンはとてつもない強運の持ち主でもありますね。

オゴタイ・ハンは晩年は朝から晩まで酒浸りでアル中による心筋梗塞かなにかで死亡したんじゃありませんでしたっけ?なまじ政治的調整能力に優れ、偉大すぎる父から与えられた役割を忠実に果たそうとしたために一武人としての想いや生き様を封印せざるを得なかったがための鬱屈した想いが酒に走らせたように思われ、同情を禁じ得ません・・・
Posted by 李常傑 at 2012年01月04日 10:30
>李常傑さんへ

その通りだと思います。
この4兄弟全てチンギス・ハーンとボルテの子ですから、余程優秀な遺伝子(の組み合わせ)なんでしょうね。

オゴデイはその通りです。トゥルイもその説がありますし、モンゴルの英傑は皆酒豪であり、それによって命も縮めているように思われます。
調整能力に優れる=自身の主張を抑えるとも言えますし、チンギス・ハーンの後継者たるプレッシャーもあいまってストレス溜まっていたんじゃないでしょうか。
Posted by ただの中国史好き at 2012年01月04日 23:14
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