2011年12月23日

チンギス・ハーン

チンギス・ハーン 能力データ
魅力 10 / 統率力 10 / 戦闘力 8 / 政治力 6 / 知力 8

遊牧騎馬民族のモンゴルにおいて、テムジン(後のチンギス・ハーン)の父がタタール部族に毒殺されたのは彼が13歳の時であった。ライバルのタイチウト族に命を狙われ、沼に身を沈め藻草に顔を隠して息をしながら敵の追跡を逃れ、新婚早々に最愛の妻ボルテをメルキト族に奪い去られ苦難の連続であったが、かえってこの逆境がチンギス・ハーンの政治、軍事上の天賦の才に磨きをかけた。
成年に達したチンギス・ハーンは、ケレイト部族の長ワン・ハンと盟友ジャムカの助力によってメルキトへ復讐を果たし、その寛容と仁慈の人格が以後周辺の諸部族を味方につけてゆく。そして遂に父の仇であるタタール族を討ってこれを従え、離合集散が常であった全遊牧民族の統一者として部族長会議(クリルタイ)で大汗(ハーン)の地位につき、チンギス・ハーンとなる。
このクリルタイが開かれた時、チンギス・ハーンは既に最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市攻略に苦戦し、講和はしたものの西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせる。更に同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功。

一方、両雄並び立たずでジャムカと即位をきっかけに敵対するに至り、ジャムカは従者の裏切りで捕縛。チンギス・ハーンの面前に引き出されると、チンギス・ハーンは罪を許すがジャムカは死を要求、やむなくモンゴル特別の恩典を用いて絞首刑にする。
盟友を斃して最終的な勝利者となったチンギス・ハーンは、着々と帝国の建設を進める。まず中国に対する遠征の準備をすすめて金と開戦。三軍に分かたれたモンゴル軍は長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍、金の軍隊を撃破して北中国を荒らす。西夏戦で攻城戦の経験を積み学習したモンゴル軍は、やがて戦争史上最も活躍し最も成功した都市征服者となるのである。当時約5000万人いた中国の人口が僅か30年後に約900万人になったことからも、当時の虐殺の規模が窺い知れる。
こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と都市攻略の成功の結果、チンギス・ハーンは1213年には万里の長城の遥か南まで金の領土を征服、併合していた。翌1214年、金と和約を結んで一旦軍を引くが、和約直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南の開封に首都を移した事を背信行為と咎め、再び金を攻撃。翌年、モンゴル軍は金の従来の首都、燕京(現在の北京)を包囲し陥落させる。後に後継者オゴデイの時代に活躍する耶律楚材は、この時チンギス・ハーンに見出されてその側近となっている。燕京を落としたチンギス・ハーンは将軍ムカリを燕京に残留させ、その後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。

この頃、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、西遼最後の君主チルクから王位を簒奪していた。モンゴル帝国は西遼の混乱をみてクチュルクを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力はこの時までに西夏と金に対する継続的な遠征の10年によって疲弊していた。そこで、チンギス・ハーンは腹心の将軍ジェベに2万の軍を与えて先鋒隊として送り込み、敵国を大いに打ち破る。カシュガルの西で敗れ、敗走したクチュルクはやがてモンゴルに捕えられ処刑され、西遼の旧領はモンゴルに併合された。この遠征の成功により、1218年までにはモンゴル帝国は西はバルハシ湖まで拡大、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム朝に接することとなった。
1218年、チンギス・ハーンはホラズム朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者がこれを虐殺。その報復としてチンギス・ハーンは末弟テムゲ・オッチギンにモンゴル本土の留守居役を任せ、自らジュチチャガタイオゴデイトゥルイら嫡子達を含む20万の大軍を率いて中央アジア遠征を行い、シルダリア川流域に到達。モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチを悉く征服。モンゴル軍の侵攻は極めて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊された。ホラズム朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、1220年までにほぼ崩壊したのである。

ホラズム朝のムハンマド国王はモンゴル軍の追撃を逃れて遥か西方に去ったため、チンギス・ハーンはジェベスブタイを追討に派遣。彼等の軍がイランを進むうちにムハンマドはカスピ海上の島で窮死するが、ジェベとスブタイはそのまま西進を続けてカフカスを経て南ロシアにまで達した。彼らの軍はキプチャクやルーシ諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅威はヨーロッパにまで伝えられた。
一方、チンギス・ハーン率いる本隊は、王子ジャラールを追って南下を開始。モンゴル軍は各地で敵軍を破り、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、バーミヤーンといった古代からの大都市を悉く破壊、住民を虐殺した。アフガニスタン、ホラーサーン方面での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、ジャラールの抵抗に苦戦を強いられていた。
チンギス・ハーンはジャラールをインダス河畔まで追い詰め撃破するが、ジャラールはインダス川を渡ってインドに逃げ去る。寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切って帰路につく。チンギス・ハーンは中央アジアの北方でジェベ、スブタイの別働隊と合流し、1225年になってようやく帰国した。

西征から帰ったチンギス・ハーンは広大になった領地を分割し、ジュチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。末子トゥルイにはその時点では何も与えられなかったが、チンギス・ハーンの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。しかし、後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。
これ以前、臣下となっていた西夏皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否したうえにチンギス・ハーンがイランにいる間に金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。遠征から帰ったチンギス・ハーンはこれを知ってほとんど休む間も無く西夏に対する懲罰遠征を決意。モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略。冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲した。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。
翌1227年、チンギス・ハーンは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて陝西・河南の金領を侵させる。自らは残る部隊と共に諸都市を攻略した後、興慶を離れて南宋との国境、すなわち四川方面に向かったものの、陣中で危篤に陥る。この為、モンゴル軍本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、1227年にチンギス・ハーンは陣中で死去。その死は伏せられたまま全軍粛々と北帰し、遺体はモンゴル高原の起輦谷へ葬られた。これ以後、大元ウルス末期まで歴代のモンゴル皇帝達はこの起輦谷へ葬られた。
彼は死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトゥルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。

チンギス・ハーンが作ったモンゴル軍は、戦時において千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することの出来る軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3〜4頭の馬がいる為に常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。よって、大陸における機動力は当時世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたのである。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・ハーン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命され、統括の任を委ねられた。このような左右両翼構造の更に東西では、東部の大興安嶺方面にチンギス・ハーンの3人の弟であるジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギス・ハーンの3人の息子であるジュチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。こうして、チンギス・ハーンの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造はモンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。

大小様々な集団に分かれ、互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服。最終的には当時の世界人口の半数以上を支配するに致る人類史上最大規模の世界帝国「モンゴル帝国」の基盤を築き上げた。
死後、その帝国は百数十年を経て解体となったが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神となり、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。
posted by ただの中国史好き at 23:14 | Comment(2) | 宋・遼・金時代
この記事へのコメント
軍事的な側面から言えば、冒頓単于や突厥の可汗たちとそれほど大きな違いがあるとは思わないのですが、耶律楚材に代表される旧金の官僚達やウイグル系経済官僚を積極的に取り込み、徴税・財政を早くから重視しているのが冒頓や柔然・突厥の可汗たちとの大きな違いでしょうか。
チンギス・ハン個人が徴税システムや財政概念を従来の東アジア系遊牧国家より一段深く捉える事が出来たためにモンゴル帝国のあの爆発的ともいえる軍事的成功をもたらした(軍事行動を財政面から支えた)のではないかと思います。
そうした意味から言えば、中国本土を失いモンゴル高原に撤退した後の北元とその後裔であるタタールやオイラートがまるで先祖返りしてしまったかのように中国北辺一帯の略奪と中国王朝からの経済援助を引き出す事に腐心せざるを得なかった点をみれば、逆説的にチンギス・ハンの凄さや偉大さがより理解できると思われます・・・
Posted by 李常傑 at 2011年12月30日 11:15
>李常傑さんへ

スタートがモンゴルの一部族のしかも苦境からでここまで成功し得たのは、ひとえにチンギス・ハーンの突出した力量と一族、配下の優秀さだと思います。
彼等にまともに匹敵しうる英雄、軍団は見当たりませんよね。
Posted by ただの中国史好き at 2012年01月02日 00:10
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