2011年11月23日

冒頓単于

冒頓単于 能力データ
魅力 7 / 統率力 9 / 戦闘力 8 / 政治力 5 / 知力 7

冒頓単于は秦末〜前漢前期にかけての匈奴の単于(君主)で、頭曼単于の子として生まれた。
当初は父の後継者に立てられていたが、父の後妻が男子を産んで関心がこの異母弟に向けられると、冒頓単于は邪魔者扱いされ、緊張関係にある隣接勢力の月氏の元に和平の為の人質として送られる。ところが間も無く、頭曼単于は月氏が無礼であるとの理由で戦争を仕掛ける。嫡子を差し出して月氏が油断しているところを突くことと、冒頓単于が月氏の手で殺害されるのを見越してである。しかし、この危機を悟った冒頓単于は間一髪のところで月氏の駿馬を盗み脱出に成功、父のもとに逃亡する。

自身の元に戻った冒頓単于を見込みがあると考えた頭曼単于受け入れられ私兵を与えられたが、冒頓単于はいずれ殺されると思い、クーデターを計画。紀元前209年に反乱を起こして、父、継母、異母弟及びその側近を抹殺した上で、単于に即位した。
クーデターに当たり、事前に冒頓単于は私兵を秘密裏に養成。私兵を率いて「自分が鏑矢を放ったら直ぐさま同じ方向に矢を放て」と命令。まず野の獣を射て、矢を放たないものは斬り殺した。次いで自らの愛馬に向かって射た。同じく放たないものは斬り殺す。更に自分の愛妾を射て、同じく放たないものは斬り殺した。父の愛馬を射る時には全ての部下が矢を放つようになる。こうして忠実な部下を得たうえで父が通りかかった際に鏑矢を放ち、配下の私兵も大量の矢を浴びせ、これがクーデターの端緒となった。

即位直後、東胡から使者がやってきて「頭曼様がお持ちだった千里を駆ける馬を頂きたい」と言った。冒頓単于が即位直後の若輩のため、あまく見てのことだった。冒頓単于は部下を集めて意見を聞いたが、部下達は「駿馬は遊牧民の宝です。与えるべきではありません」と言ったものの、冒頓単于は「馬は何頭もいる。隣り合う国なのに、一頭の馬を惜しむべきではない」といい、東胡へ送った。これで更にあまく見た東胡は、再度使者を送り「両国の為、冒頓様の后の中から一人を頂きたい」と言った。部下達は「東胡はふざけ過ぎています。攻め込みましょう」と言ったが、冒頓単于は「后は何人もいる。隣り合う国なのに、一人の后を惜しむべきではない」と言い、東胡へ送った。するとまた東胡から使者がやってきて、「両国の間で国境としている千余里の荒野を、東胡が占有することにしたい」と言ってきた。先の件では一致して反対した部下達も、遊牧民故に土地への執着が薄いこともあって二分され、その一方が「荒地など何の価値も有りません。与えても良いでしょう」と言った途端、冒頓単于は怒り「土地は国の根幹である!今与えても良いと言ったものは斬り捨てろ!」と言い、馬に跨り「全国民に告ぐ!遅れたものは斬る!!」と東胡へ攻め入る。一方の東胡は先の件もあって完全に油断しており、その侵攻を全く防げなかった。物は奪って人は奴隷とし、東胡王を殺し、冒頓単于は一気に東胡を滅亡させたのである。
冒頓は続けて他の部族に対しても積極的な攻勢を行い、月氏を西方に逃亡させるなど勢力範囲を大きく広げ、広大な匈奴国家を打ち立てた。

紀元前200年、40万の軍勢を率いて代を攻め、その首都馬邑で代王の韓王信を寝返らせる。前漢皇帝の高祖劉邦が歩兵32万を含む親征軍を率いて討伐に赴いたが、冒頓単于は弱兵を前方に置いて負けたふりをし後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物が無く窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の夫人に賄賂を贈って脱出に成功。その後、冒頓単于は自らに有利な条件で前漢と講和した。これにより、匈奴は前漢から毎年贈られる財物により経済上の安定を得、更に韓王信や盧綰等の漢からの亡命者をその配下に加えることで勢力を拡大、北方の草原地帯に一大遊牧国家を築き上げることとなった。これに成立したての漢王朝は対抗する力を持たず、冒頓単于から侮辱的な親書を送られ、一時は開戦も辞さぬ勢いであった呂雉も周囲の諌めにより、婉曲にそれを断る内容の手紙と財物を贈らざるを得なかったという。
その後、前漢王朝が安定し国が富むに至り、武帝劉徹はこの屈辱的な状況を打破するため大規模な対匈奴戦争を開始。しばらく一進一退が続いたものの、前漢の衛青霍去病が匈奴に大勝し、結局、匈奴はより奥地へと追い払われ、その約60年続いた隆盛も終わりを告げた。
posted by ただの中国史好き at 22:29 | Comment(2) | 前漢時代
この記事へのコメント
史記の中では項羽の伝と並んで最も小説的で「面白い」と言えると思います。断片的なエピソードをつなぎ合わせ、隙間を想像力で埋めていく作業は司馬遷の作家としての力量が優れている事の証明になると改めて思わされました。

白登山での一連の攻防は「弱兵を一旦前面に置いて後退させ、敵の無防備・無警戒な追撃を呼び起こし、その間に迂回した騎兵が後方から攻撃、同時に正面部隊も反転して敵部隊を挟撃する」という、後のモンゴル軍も多用した戦い方の嚆矢となりますが、この戦術が冒頓単于のオリジナルの発案であれば彼は戦術・部隊運用の天才といえる、と思われますが・・・実際のところはどうだったのでしょうね?

一代で匈奴帝国の最大版図を切り従えた冒頓は正に英雄と呼ぶにふさわしい人物ですが、それでも帝国としての全盛期が6〜70年位しか続かなかったところに国家運営<守成>の難しさを感じてしまいます・・・
Posted by 李常傑 at 2011年12月11日 10:28
>李常傑さんへ

まさに匈奴史上、突出した英傑ですよね。
農耕土着民族と違い、遊牧移動民族が広大な領土を維持し続けるのは並大抵の国家統治機能を構築しなければ難しいことでしょう。
特に当時の匈奴などは完全に遊牧民族でしょうから、尚更だと思います。
Posted by ただの中国史好き at 2011年12月18日 21:17
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