2011年11月22日

張巡

張巡 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 8

中国史上、屈指いや最高と言ってもいい籠城の名将。
安禄山の乱時、張巡は中国の南北の交通の動脈たる重用な拠点、睢陽を守っていた。仮にここが落城した場合、一挙に安禄山軍が長江下流域になだれ込み、大唐帝国は経済的な基板を失い滅亡してしまう程、重用な要地である。
ここに孤立無援、10万の敵に対して3〜5千の兵で二年間に渡り城を守り抜く。その間、いくら援軍を呼んでも張巡が手柄をたてることを妬んで援けに来ないという惨状。やむを得ず、張巡は後に日本の楠木正成も戦法に流用したであろう藁人形を作って敵をごまかしたり変幻自在の戦法を駆使して奮戦を続けるが、孤立無援のまま遂に食糧が尽きて全城飢えに苛まれる。兵士達は栄養不足で失明し、敵が攻撃してきても立ち上がることも出来ない状態となって遂に落城、張巡は殺される。

張巡のこの活躍は唐を救ったが、直ぐには表彰されなかった。
何故なら、落城寸前に将兵が飢えて人肉を喰ったという事件があった為であるが、最終的には朝廷も援軍や食糧を送らなかった責任もあり、表彰され睢陽には廟が建てられた。
posted by ただの中国史好き at 00:06 | Comment(2) | 唐時代
この記事へのコメント
まず、スイ陽は大運河に面した要衝であり、食糧・物資の流通拠点であるにも関わらず、2年も放置したまま、というのは国政にあずかる者としてどうなのよ、国家存亡の一大事なんだよ?と当時の唐朝の政治家・官僚たちにツッコミ入れたくなりますよね。逆にその程度だから安禄山も反乱起こしたのでしょうけど。

栄養失調で兵士が失明し、立ち上がる事もままならない程になるまで包囲する安禄山軍が最後の攻撃に出なかったのは包囲戦序盤に余程手ひどく逆撃を喰らったために積極的に攻勢に出られなかった、という事なのだと理解しました。普通ならそこまでいく前に逃亡兵の多発により軍が崩壊するとか、将校クラスの裏切りによって落城するパターンだと思いますが、それがなかった事自体、張巡の名将としての証明である、という事なのでしょうね。
Posted by 李常傑 at 2011年12月06日 22:31
>李常傑さんへ

そうですよね。
何というとんでもない上層部なんだと思います。腐敗もここに極まれりという感じでしょうか。

絶望的な状況だからこそ必死になって戦ったのかもしれませんが、名将でなければ投降したい配下に寝首かかれて終わっていたかもしれませんしね。
Posted by ただの中国史好き at 2011年12月09日 22:41
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