2011年10月22日

閣羅鳳

閣羅鳳 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 7

雲南地方の南詔国は非漢民族が建国。中国とインド、二方面から影響を受けて元々文化程度が高く、英明たる第五代国王閣羅鳳が楊国忠が送り込んだ唐の大軍を三度にわたって撃破、唐からの完全独立を果たした。
この際、唐の役人で鄭回が捕虜となるが、閣羅鳳はその才能を認めて重臣に抜擢。唐に倣った文化国家建設を全面的に委ねる。鄭回はそれに応えて南詔国の国家制度を整え、漢字を導入し、唐との間に友好関係を確立させ、以後南詔国の王族は唐の成都へ留学するようになった。
posted by ただの中国史好き at 13:47 | Comment(5) | 唐時代
この記事へのコメント
なぜ成都だったんでしょう?時期的にすぐ安史の乱で長安が蹂躙され廃墟と化してしまったから?
初唐・盛唐は東アジア・東南アジア・中央アジア各国の国使や留学生が長安目指して引きも切らず、というイメージですが、中唐や晩唐の頃は周辺諸国の遣使等はどんな様子だったのでしょうね?
一応、日本は894年までで遣使は打ち切りとなりましたが、新羅や渤海、南詔辺りではどの時期まで国使を唐の朝廷に送っていたのでしょうか?
Posted by 李常傑 at 2011年10月23日 01:22
>李常傑さんへ

当時の唐と吐蕃、南詔の関係は非常に微妙であり、閣羅鳳の次王(孫)異牟尋の代に吐蕃に手を焼く唐(西川節度使)へ帰順して激戦を繰り返すことから、南詔国の確立後も暫くは遠く長安までは留学に行けなかったのではないでしょうか?
目の上のたんこぶの吐蕃はウイグルと戦っていましたし、未だ未だいつ何時国がどうなるか判らない状態だったので、せいぜい成都への留学が目一杯だったのかもしれません。

9世紀前半に唐と吐蕃が衰退していくまでは唐に遣使していたようです。その後、一時は成都を占領して東南アジアを席巻しました。
Posted by ただの中国史好き at 2011年10月30日 23:39
すいません。
どこに書けば良いのか分からなかったのでこちらに書きますが、ページ左の「中国歴史時代区分」の「戦国時代」のところですが、選択しても人物が表示されないようです。

(このコメントは確認後削除して頂けると幸いです)
Posted by 通りすがり at 2011年11月08日 00:17
>通りすがりさんへ

ご指摘ありがとうございます。
ほんとだ・・・何故なのか調べてますが判りません。。。
Posted by ただの中国史好き at 2011年11月13日 23:29
戦国時代を選択いただいた際の表示、恐らく直りました。
色々ご不便をお掛けしました。
Posted by ただの中国史好き at 2011年11月13日 23:49
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