2011年10月22日

郭子儀

郭子儀 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 6

郭子儀は玄宗皇帝以来の武将で、名も子儀、字も子儀という変わった人物。
無名の頃に軍の食糧が失火で焼けてしまった為に管理責任を問われて檻に入れられ運ばれる途中、詩人の李白に出会う。李白は郭子儀と話をしてその才能を感じ、玄宗に話した為に処刑を免れた。後に李白が叛乱に巻き込まれて反逆罪で殺されそうになった時、郭子儀が自分の功績に代えても助けて欲しいと言って恩を返したという。
安史の乱時には副将李光弼と共に河北地方を転戦して功をあげ、玄宗の後を継いだ粛宗は郭子儀の功もあり唐朝が再興出来たと賞賛したほど。とはいえ、郭子儀の意見は粛宗に容れられず、乱後も宦官に妨げられて兵権を解かれるなど不遇であった。
がしかし粛宗の次の代宗時代に吐蕃の侵入が始まるや再び活躍。763年の吐蕃と連合した僕固懐恩の乱や、765年のこれにウイグルが加わった30万の連合軍の進入時には、主力軍の吐蕃を撃破。代宗の次の徳宗時代即位時には、尚父の称号を受けて大尉中書令に昇進した。

揺らぐ唐帝国を名実ともに支えた武将で、これだけの巨大な功績をたてながら韓信と違って朝廷に疑われることも殺されることもなく、第一線を退いてからは宰相となって人々から尊敬も受け晩年を過ごした。
ただ、息子は後に皇帝の娘を嫁にもらうが、夫婦喧嘩をした際に「お前は皇帝の娘だと思って威張ってるんだろうが、父だって皇帝になろうと思えばなれたのだ。ただならなかっただけだ。」と怒鳴り、皇女に皇帝へ訴えられるが皇帝は「その通りでお前が悪い。」と一切咎めなかったという(郭子儀は恐縮して息子を板で殴りつけたが)。
posted by ただの中国史好き at 12:57 | Comment(2) | 唐時代
この記事へのコメント
4代の皇帝に仕えてあれ程の功績を打ち立て、なおかつ身を全うし得たというのは、長い中国史上でも稀有な存在ですね。
唐朝は中国史上でも宦官の政治介入が激しく玄宗期の高力士はまだ皇帝個人に対する強い忠誠心とそれなりの見識を有していたといえるでしょうが、粛宗期の李輔国以降は国政を壟断して斜陽の唐朝にとって正に「癌」ともいえる存在でした。
郭子儀が身を全う出来たのは皇帝の傍に張り付いて権力を振るった宦官勢力に進んで膝を屈して彼らのご機嫌を取りむすんだからではないか、と(相変わらず根拠もなく)思いました。

郭子儀の息子に公主を嫁がせたのは誰(粛宗?代宗?徳宗?)でしょう?エピソードの雰囲気からすると功成り朝廷で高官となった徳宗時代のような気もしますが・・
Posted by 李常傑 at 2011年10月23日 01:00
>李常傑さんへ

郭子儀の息子の嫁は代宗の娘ですね。
ちなみにこの息子は六男です。
Posted by ただの中国史好き at 2011年10月30日 23:08
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