2011年10月09日

高仙芝

高仙芝 能力データ
魅力 5 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 5

高句麗人で父の代より唐に仕え、西方辺境の守りを務めて武勲をあげる。
特にハンニバルのアルプス越え以上の快挙と後世評された、747年の一万の兵を率いてのパミール高原越えによって西へ向かって吐蕃と結んでいた小勃律を討ったことは特筆すべき事項。大食(アラビア)など西方72ヶ国を服属させ、750年には石国(タシケント)を討って国王を捕虜とするが、長安に送って斬ったがために石国と西域諸国は新興のアッバス朝イスラム帝国に救援を求める。そこで高仙芝はまた天山山脈を越えて西へ出てイスラム軍と対決。歴史上有名なタラス河の会戦である。この時、唐軍の中にトルコ系の少数民族による部隊がいたが、高仙芝に反感をもっていてイスラム軍に寝返ったために大敗。西域における唐勢力退潮の一因となった。

この戦いで多くの中国人がイスラム軍の捕虜となり、その中に製紙職人がいてずっと西のサマルカンドまで行かされて紙の製法を初めて西方世界に伝えた(中国で後漢時代に発明された紙が、600年以上経ってヨーロッパで使われるようになった)。又、捕虜のひとりに杜環という人物がイスラム帝国の本拠地であるアラビアまで連れて行かれ、アラビアについての貴重な記録「経行記」を残した。
この大敗北を高仙芝は朝廷に報告せず自己の保全を図るが、755年に安史の乱が起きて洛陽が陥落すると潼関に退き、玄宗の怒りをかって殺された。
posted by ただの中国史好き at 22:52 | Comment(2) | 唐時代
この記事へのコメント
洛陽失陥は安禄山羈下の胡兵と新たに徴募したばかりの唐軍兵との兵としての質の差がありすぎて戦にならなかったためで、天下の要衝潼関に拠って守りを固めるしか戦いようがなかったのでしょう。
洛陽は古来より地形的に防御に向かない都市として有名でしたから、戦略的撤退もやむなしか(ただ、見捨てられた格好の洛陽市民は安禄山軍に蹂躙・略奪を受け、悲惨の一語に尽きますが・・・)。
タラス河畔の戦いでは敗北を隠した報告書のウソがすぐに露見したにもかかわらず昇進したんじゃありませんでしたっけ?潼関への撤退は戦略的に次善の策であったにもかかわらず玄宗の激怒をかって処刑され・・・
この頃の玄宗は老害と平和ボケの両方で正常な判断力を既に失っていたんじゃないですかね?
高仙之と封常清を処刑せずにおけば使える手駒が増えて安史の乱の収束も3〜4年は早まったのではないかと思われますが。
Posted by 李常傑 at 2011年10月10日 18:24
>李常傑さんへ

玄宗は庶民には人気があったらしいですが、後半治世は失点多いですよね。潼関で何とか防げたのではないかと思ってしまいます。
Posted by ただの中国史好き at 2011年10月15日 20:29
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