2011年10月02日

安禄山

安禄山 能力データ
魅力 6 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 6

安禄山は「口に密あり腹に剣あり」と言われた宰相李林甫が10余年政権を握っていた頃、後に楊貴妃の縁で宰相となる楊国忠等と結託、玄宗の信任をまんまと得る。父はイラン系、母はトルコ系の胡人で、心ある者は安禄山の本質を見抜いたが次第に唐朝内で勢力を拡大。大唐帝国正規軍60万のうち18万の兵権を握るまでになり、反逆を起こして一ヶ月で洛陽を陥として遂には皇帝をも僭称(安史の乱)、蜀へ逃げた玄宗に付き従った楊国忠、楊貴妃は自軍の兵に殺され、顔真卿・張巡・郭子儀ら政府軍も安禄山に対し戦果をあげる事が出来なかった。

一方で安禄山ら反乱軍も内乱が発生。安禄山自身も眼を病み、疽に悩んで部下に辛くあたる。侍臣の李猪児は陰茎を切り落とされ、怨みをおさえて復讐の時期を待つ。安禄山の嫡子である安慶緒も継母とその子が安禄山のお気に入りの為に怨みを秘め、安禄山の側近ナンバーワンである巖荘もことある毎に怒鳴られ、鞭で打たれるために怨んでいた。この三人が組んで安禄山の寝所に忍び込み、李猪児と安慶緒が彼の腹や胸を刺す。「名を言え!外からの賊ではあるまい!!」と怒鳴ったのが安禄山の最期。
後に安慶緒も史思明に殺され、史思明もその子に殺されたのは皮肉な運命というか、歴史は繰り返す。
posted by ただの中国史好き at 01:08 | Comment(4) | 唐時代
この記事へのコメント
挙兵するまでにかなり綿密な計画を練っていたにもかかわらず、北方の要衝太原を確保しようとしなかった点で戦略眼の皆無である事を露呈していますね。
将としての実力は三鎮18万数千を束ねるには本来不足も不足(現実にはかなり統御に成功している;その辺りがよくわかりません)、華北の大部分を支配下に置いたのは羈下の胡兵の勇猛・堯勇あっての事だと思います。
自身の能力に比して巨大すぎる野望を抱き、それに突き動かされる形で反乱を起こしましたが、根本的にはこの程度の将才の持ち主に三鎮18万もの兵力を持たせた玄宗に乱の責任がある、と言わざるを得ないのでは・・・
Posted by 李常傑 at 2011年10月10日 19:13
>李常傑さんへ

おっしゃる通り、安史の乱の根本的な原因は楊国忠などの専横を許した玄宗と節度史制度でしょうね。
しかしそれにしても、万乗の皇帝たる玄宗の近辺、ないしは首都を護るこれといった武将がおらず安禄山がはばをきかせるとは酷すぎ…。
Posted by ただの中国史好き at 2011年10月15日 20:47
節度使制度の成立は一種の国民皆兵制ともいうべき府兵制の崩壊により、辺境防衛のために設置・施行されたとの説明が多いのですが、現代中国の1省位の広域(地域によってバラつきは有るにしても恐らく20州位?)に渡って軍権だけでなく徴税や人事も含んだ行政権も有しており(司法権はどうだったかな?忘れた・・・)、中央政府の支配力が揺らげば地方に軍閥が割拠する事を簡単に許してしまうような危険極まりない制度をなぜ施行したのかがよくわかりません??

哥舒翰が吐蕃と勝ったり負けたりの激戦を天宝年間に入ってからも行っているので、周辺諸民族の侵入を防ぐために大軍を迅速に招集・出撃させるための必要制度だったという事だったのでしょうが・・・

唐帝国は見かけの華やかさとウラハラに中央集権化が不徹底だった(律令制も建前だけで中身はスカスカだったとか?)というか、統治が雑だったのでしょうか?

Posted by 李常傑 at 2011年12月11日 11:39
>李常傑さんへ

玄宗期がターニングポイントでしょうね。
辺境以外にも節度使を置き始めたのは玄宗ですし。
背景として、兵力弱体化が懸念されていた唐にとって、窮余の策として徴兵ではなく募兵とし、兵士に屯田制を採らせる策に出たのでしょう。
徴兵だと農民兵は士気も上がりませんし、逃亡したりしますし。
Posted by ただの中国史好き at 2011年12月18日 21:29
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