2011年09月03日

石勒

石勒 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 6

風雲児石勒は20歳くらいの時に二人一組で枷をはめられ、親兄弟と離れ離れになり山東に売られた。山東では農場の牧夫となるが、やがて牧場の馬を盗んで群盗入りする。劉淵の傘下に入ったあたりから勢力を伸ばし、劉淵の子の劉聡が没して一族の劉曜の時代(前趙)に入ると独立を決意。山西・河北は石勒の勢力圏となるまでに成長した。
王衍を捕らえて訊問した際、王衍は政治への無関心を表明したが、石勒は「君は若い時から朝廷に仕えて名声も四方に聞こえていた。地位も責任もある立場だった。なのにどうしてそうも政治に無関心なのか?天下を混乱に導いたのは、君のそういう態度にあったのではないか?」と詰り、刀で殺すまでもないと土塀の下敷きにして消した。

若い時に学問をする時間が無かったが、後に古典(特に歴史)に学ぶ態度を忘れず、時間さえあれば「史記」「漢書」を配下に読ませて聴き、「あ、そのやり方は違っているのではないか?それでは天下統一が出来ぬ」と歴史上の失敗等は直ぐ反応したという。
石勒が理想としたのは漢の高祖劉邦で、曹操司馬懿は孤児寡婦を騙して天下をとったと嘲笑。ある日、配下に「わしは史上のどの者に比較出来るか」と聞いたところ、「策略は漢の高祖より優れ、武も魏の曹操より上でありましょう」という回答があると、「身の程というものが人間にはあるものだ。それは言い過ぎだ。もし私が高祖の時代に生きていただら北面して仕え、韓信や彭越と先陣を争ったに違いない。高祖と後漢の光武帝劉秀の間くらいのところか」と言った。
posted by ただの中国史好き at 13:48 | Comment(11) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
この記事へのコメント
石勒は結構好きです。なので一つここは好評価を。
かなり負け戦は多いほうで、軍団の崩壊も二回程見受けられます。
でも二戦目三戦目は大抵石勒が勝って巻き返すので、周囲の群雄から見れば、叩いても叩いても絶対に死なないで復活してくる気味の悪い化け物とでも思われてたのでしょうね。
異常なまでの頑強さと回復力、としか言いようがないほど捲土重来しまくってる。
五胡〜南北朝含めても、石勒に勝利を収めれる将軍は結構いるでしょうね。ただし最後は巻き返される。

単純な強さで測れない部分こそ、石勒の本当に恐ろしいところだと思います。

以上のことから統率や知力はもう少しあってもいいかな?
Posted by 肉 at 2011年09月03日 20:25
肉さんがおっしゃるとおり、石勒は何度も負けてるのですが、
負けっぱなしの相手はいないんですよね。
どんなに大敗しても必ず巻き返して、相手を打倒しています。
戦争でも謀略でも外交でも、ここぞというところは絶対に落とさない強さがあります。
99敗しても、最後の1勝ですべてを引っくり返すタイプです。
評価に困りますね。
純粋な戦の強さなら、ほぼ負けなしの苟晞や祁弘の方がずっと上なのですが、
どちらも最後に石勒と戦って敗死していますし。
Posted by お菓子っ子 at 2011年09月03日 21:24
>ただの中国史好きさん
お菓子っ子さんに続き肉さんという、かなり中国史に詳しそうな方が参戦してこのブログも盛り上がってきそうですね。にぎやかしのド素人の私も皆さんを白けさせない程度にピントの外れたコメントで参加させていただきたいと思います。
石勒についてですが、全ての項目で1ずつ低いな、というのが私の印象です。肉さんの指摘するようにしばしば大敗を喫した事で評価が低くなっているのでしょうか?あと、漢人の虐殺もありましたかね・・・
ただ、漢人知識人を積極的に集めてブレーンにしたり、法制度や学校制度を再構築したりと治世に見るべきものがあったと思います。在位年数がせめてあと10年長かったら・・・と少々残念です。
Posted by 李常傑 at 2011年09月03日 21:27
石勒か張賓が長生きしていたら、華北は後趙が北魏の地位にいたかもしれませんね。
石弘は文弱の質ですが、それだけに良い後見人がいれば、
名君になれたかもしれません。

後趙の悲劇は石勒と張賓という頭脳を早くに失ってしまったことでしょうね。
名将名臣は多いですが、残念ながら皆手足の才しかありませんでした。
Posted by お菓子っ子 at 2011年09月03日 23:46
>肉さんへ

石勒の「武」に関する評価は難しいところですね。彼が尊敬していた劉邦と似ているかも。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月04日 02:42
>お菓子っ子さんへ

評価が難しいタイプの人物だと思います。
負けても負けても崩壊せずに最後には勝利をつかむという点では、やはり統率力が優れているのだとは思います。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月04日 02:44
>李常傑さんへ

おっしゃる通りです。
つたないブログに詳しいコメントいただいて、私自身も勉強になりますので、頑張って更新していきたいと思います。
統率力、政治力を1上げてもいいのかな?という感じです。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月04日 02:46
劉邦が戦に弱いイメージがあるのは、
ライバルの項羽の強さが常軌を逸していたからで、
項羽戦を除くとかなり高い勝率を誇っています。
挙兵から死の直前まで常に前線で軍を率いていますし、
項羽の軍を劉邦がずっと河南で拘束し続けたことが、
漢楚戦の勝敗を決する最大の要因になったと考えると、
軍事的力量は当代屈指と考えてよいでしょう。
特に大軍を指揮しての戦績ならば随一です。
項羽と韓信という巨人がいたせいで、霞んでしまったのでしょうね。

それに比べると、石勒を勝率で上回る将帥はいくらでもいます。
減点法で評価したら、苟晞や祁弘のほうがずっと強くなるんじゃないでしょうか。
しかし、最後に勝ったのは石勒。
これをどう評価するかですね。
Posted by お菓子っ子 at 2011年09月04日 10:57
劉邦に似て戦術面での敗北を戦略面で失地回復したという事ですか?
だとすれば将兵の統御に長けていなければならないし、敗北後に巻き返すには兵員や装備の補充も必須ですから、統率力と政治力はより高くないと辻褄があわなくなりますね。
君子営に集められた漢人知識人たちはどのような働きをしたのでしょう?政治・行政にコミットしただけですか?張賓は石勒の軍師・参謀としての役割も担っていたのでしょうか?
張賓の役割しだいでは石勒の知力を上げる事もあり得るのでは・・・
石勒があと10年帝位にあれば事情は変わったかもしれませんが、張賓が長生きして石弘のサポートをしても結局は暴虐な石虎のクーデターで元の木阿弥になったような気がします。
Posted by 李常傑 at 2011年09月04日 14:10
石虎はたしかに暴虐ですね
弁護できるとすれば仏教に寛容だったのとそのずば抜けた将才、勇猛さぐらいですかね。

慕容垂・格兄弟の切り取った領土の大きさも石虎の切り取った領土の大きさには及ばないくらいですからね〜。
Posted by 肉 at 2011年09月04日 22:50
>李常傑さん
石勒は劉邦のように勝つまで何度も再戦を挑んだというのではなく、
勝てない相手とは、勝てるようになるまで戦わないんですよね。
相手の靴もなめかねないような勢いでへつらったり、
別の方向に転進したり、本当に徹底してます。
自分と敵の強弱を見極める眼力は凄いの一言に尽きます。
これは知力の範疇でしょうね。
遠謀深慮というよりは、勝てそうなら戦うし、
勝てそうにないなら戦わないというスタイルをとことん突き詰めた結果ですね。

君子営はブレーン集団ですね。
手足として使うためではなく、頭脳として用いるために知識人を集めました。
その筆頭たる張賓は政治・外交・軍略のすべてにおいて石勒を良く輔佐した名軍師です。
宰相としても優れた力量があり、実務能力と人望はずば抜けていました。
彼の朝野における圧倒的な存在感は、
石虎では到底太刀打ちできなかったでしょう。
諸葛亮が劉禅を輔佐しているのに、それでも簒奪を企む人物がいないのと同じことです。

>肉さん
荒々しい気性が戦場で発揮されると勇猛さに、
政治の場では残虐さになったのでしょうね。
自制心が乏しかったのだと思われます。
Posted by お菓子っ子 at 2011年09月05日 02:02
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