2011年08月20日

楊貴妃

楊貴妃 能力データ
魅力 9 / 統率力 0 / 戦闘力 0 / 政治力 0 / 知力 4

楊貴妃、姓名は楊玉環。
唐の玄宗皇帝の寵姫で、玄宗が寵愛し過ぎた為に安史の乱を引き起こしたと伝えられる。傾国の美女と呼ばれ古代中国四大美女(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人。
735年(開元23年)、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁)の妃となるが、玄宗に見初められ長安の東にある温泉宮にて一時的に女冠となり、その後宮中の太真宮に移り住んで玄宗の後宮に入った。楊貴妃は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲・歌舞に優れて利発であったため玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。髪はつややか、肌はきめ細やかで体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる。玄宗が遊幸する時は楊貴妃が付いて行かない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には高力士が手綱をとり、鞭を渡した。玄宗の彼女の寵愛が故に楊一族は権勢を振るい、彼等の依頼への官庁の応対は詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は門を並ぶほどであった。

751年に安禄山が入朝、安禄山を大きなおしめで包み女官に輿に担がせて「安禄山と湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせた。しかしその後も安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため、醜聞が流れた。755年、楊国忠と激しく対立した安禄山は反乱を起こし、洛陽が陥落(安史の乱)。唐側の副元帥である高仙芝は処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり潼関を守ったが安禄山に大敗し捕縛、潼関も陥落する。玄宗は首都長安を抜け出して蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃・楊国忠・高力士・李亨らが同行することになった。しかし、馬嵬に至ると乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は、楊国忠と韓国夫人達を殺害。更に玄宗に対して「賊の本」の楊貴妃を殺害することを要求。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言って庇ったが、高力士の進言によりやむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意。楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死させられた。
posted by ただの中国史好き at 15:42 | Comment(2) | 唐時代
この記事へのコメント
やはり盛唐を代表する人物として、玄宗皇帝と安禄山も取り上げていただきたいなと。(ついでに郭子儀も)
あとは唐代では黄巣・王式・高駢をお願いしたいです。
Posted by 李常傑 at 2011年09月03日 21:48
>李常傑さんへ

玄宗李隆基は既に採り上げ済みです。
安禄山は出来るだけ早期に採り上げたいと思っています。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月04日 02:40
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