2011年04月10日

劉仁軌

劉仁軌 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 5

日本の教科書にも出てくる白村江の戦い、劉仁軌はその白村口で日本軍と戦って全滅させた人間である。この敗戦により、古代日本は大陸における勢力圏を全て失った。
若い頃は貧しく学問好きで、官途に就くと折衝都尉の魯寧が横暴であった為にこれを鞭打って殺害した。太宗李世民に詰問されると、「臣が辱められたために殺しました」と臆せずに答えたことからかえって太宗に気に入られ、咸陽の丞に任ぜられた。給事中にまで昇るが権臣の李義府に憎まれるようになり青州刺史に左遷、更に遼東征伐において漕運に失敗した罪を着せられ、59歳にして一兵卒に落とされた。
この年、蘇定方率いる唐軍が百済の都泗沘城を攻め、百済を滅亡させる。しかし、翌年に百済の遺臣鬼室福信らが泗沘城の奪還を試み包囲。この際、劉仁軌は自ら志願して援軍に赴き、百済残党を支援する倭(日本)の水軍を白村江で迎撃、400余隻の軍船を焼き払って大勝する(白村江の戦い)。さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させた。

665年に高宗が泰山で封禅を行った際には、新羅・百済・耽羅・倭4国の首領を率いて参加し、大司憲を拝し、右相兼検校太子左中護に進み、楽城県男に封ぜられた。668年には李勣に従って高句麗を平定。674年には新羅の文武王を討って(羅唐戦争)大勝し、翌年には左僕射となって朝政に参画した。そして685年3月2日、在職中に没する。享年84。死後に開府儀同三司并州大都督を贈られ、高宗の陵墓である乾陵に陪葬された。
posted by ただの中国史好き at 23:14 | Comment(0) | 唐時代
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