2011年01月31日

秦叔宝

秦叔宝 能力データ
魅力 9 / 統率力 7 / 戦闘力 9 / 政治力 2 / 知力 4

秦瓊、字を叔宝というが字をもって通称とする秦叔宝のほうが有名。
はじめ隋の将軍である来護児の部将となるが、未だ下っ端役人だった頃に母親が亡くなる。当時隋の大将軍であった来護児は使いを立ててこれを弔問。役人が驚きいぶかしく思って「士卒が死んでも将軍は弔問することがありませんでしたのに、今ひとり秦叔宝をわざわざ弔問するのはなぜですか?」と尋ねた。来護児は「あいつには武才があり、志節もそなわっている。只者ではないし長く卑賎な身分ではおるまい」と答えたという。
その後、張須陀に従って羅士信と共に李密を滎陽で討伐。張須陀が李密に敗れて戦死すると秦叔宝は残兵を率いて李密に投降した。李密が敗れた後は王世充に降るが王世充の性格を嫌って程知節らとともに唐に帰順、秦王李世民の幕下に属した。
尉遅敬徳と美良川で歴史に残る壮絶な一騎打ちを戦って功績を挙げ秦王右三統軍となり、宋金剛を介休に敗走させて上柱国に任ぜらる。王世充、竇建徳、劉黒闥らに対する征討でしばしば先鋒に立って敵陣を突破、功績により翼国公に封ぜられる。玄武門の変の後、左武衛大将軍に任ぜられ実封七百戸を受けた。

638年に亡くなり徐州都督を追贈され、昭陵に陪葬。太宗李世民はかれの人馬像を石に刻んで墓前に立てさせた。639年、胡国公に追封。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。後世には尉遅敬徳とともに門神として信仰された。
posted by ただの中国史好き at 00:23 | Comment(2) | 唐時代
この記事へのコメント
尉遅敬徳と互角の一騎打ちを演じた豪勇の将で、ほぼ李世民軍の先鋒として敵陣を突破してきた猛将であるのに、印象としてはコインの裏、陰陽の陰、という感じで三国志における関・張・馬・黄に対する趙雲みたいなイメージですね(田中芳樹編「隋唐演義」での冷静で落ち着いた描写に洗脳されているのかもしれません)。
尉遅敬徳とほぼ同等の武力の持ち主である事は動かしようのない事実なのに、「項羽や楊大眼と一騎討ちしたらどっちが勝つか?」という想像をしてもあまりワクワクしないんですよね・・・
Posted by 李常傑 at 2011年10月17日 22:07
>李常傑さんへ

そうなんですよ。まさに趙雲のように何かこう惹かれないというか・・・。
居れば凄く有難い武将なんでしょうがね。女性にはこういうタイプの武将の方が人気がなのかもしれませんが。
Posted by ただの中国史好き at 2011年10月22日 13:03
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