2010年12月25日

李世民

李世民 能力データ
魅力 10 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 10 / 知力 10

李世民は中国史上最高とも言える唐の第二代皇帝太宗。
十代で父李淵を担いで起兵し二十代で天下を取ったが、二十代にして実力で天下を取ったのは中国史上、楚の項羽と李世民の二人だけである。項羽が一代で滅びたのに対して唐は300年近く続いたわけで、まさに空前絶後の覇王。

16歳の時、隋の煬帝が雁門において突厥に包囲されると、李世民は煬帝救出に尽力。また父である李淵が歴山飛の包囲下に置かれたときは、軽騎を率いて救援した。617年、李淵が太原で起兵すると、右領軍大都督・敦煌郡公となって長安に向けて進軍。宋老生を撃破し、長安を平定すると、秦国公に封ぜられた。618年、唐が建国されると6月に李世民は秦王に封ぜられ、尚書令に任じられている。唐朝では即位前の李世民が尚書令に任じられたため、皇帝の前職に臣下を就任させることを忌避し、滅亡まで尚書令は欠員となった。
李世民は武将として優れた才能を発揮し、薛仁杲、劉武周、王世充、竇建徳、劉黒闥といった隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たす。建国の戦功に比してその地位が報われていないと李世民とその側近達は不満を有するようになり、高祖李淵はその対策として天策上将なる称号を李世民に与え、また弘義宮と言う宮殿を新たに築き、これを与えた。李建成も李世民に対抗し、高祖に訴えて李世民の謀士である房玄齢と杜如晦を遠ざけるなどの対抗策を採ったが、李世民は二人と密かに連絡し、626年6月、長安宮廷の玄武門で李建成と弟の李元吉を殺害する事件を起こした(玄武門の変)。この政変により、高祖は8月に李世民に譲位し、事態の収拾を図った。

627年、元号を貞観と改元。房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなる。629年、充実した国力を背景に突厥討伐を実施。李靖李勣を登用して出兵し、630年には突厥を崩壊させ、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し太宗に天可汗の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である可汗より更に上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。更に640年、西域の高昌国を滅亡させ西域交易の重要拠点を直轄領とした。

文化的にもそれまで纏められていた「晋書」「梁書」「陳書」「周書」「隋書」の正史を編纂させ、特に「晋書」の王羲之伝では自ら注釈を行った。また645年には玄奘がインドより仏経典を持ち帰っており太宗李世民は玄奘を支援して漢訳を行わせている。これらの充実した政策により李世民の治世を貞観の治と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。「旧唐書」では「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれている。後世、太宗李世民と臣下たちの問答が「貞観政要」として編纂されている。

李世民の晩年は立太子問題が発生。当初立太子されたのは長子の李承乾であったが、弟の魏王李泰を偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を図ったとして廃された。魏王も朋党を組んでいて不適格だとして、皇后の兄である長孫無忌の意向により、最も凡庸な李治(後の高宗)を皇太子としたが、この立太子問題が後の則天武后の台頭の要因となることとなった。
644年、高句麗へ遠征(麗唐戦争)するも失敗に終わり、それから5年後の649年に崩御。
posted by ただの中国史好き at 21:09 | Comment(11) | 唐時代
この記事へのコメント
個人的には煬帝とあまり変わらないのではないかと。

この二人の差はストッパー役の魏徴がいたかいなかったかだけだとおもいます。
Posted by 肉 at 2011年09月17日 16:53
煬帝の悪行の幾つかは唐以降に(唐建国を正当化するために)捏造されたものだろうと思いますが・・・
同様に唐太宗についても玄武門の変が最初から帝位簒奪を企てていた事を覆い隠すために様々にその生涯全体について潤色が施された可能性が強いとは思いますが・・・  それでも煬帝と唐太宗が同じレベルと言い切るにはためらいをおぼえます・・・
魏徴がいたかどうかがそれほど大きく2人の明暗を分けたとは私は思いません。
Posted by 李常傑 at 2011年09月17日 19:29
李世民は酷薄で自己中心的で虚栄心の強い人物で、
暴君の素質を持っていましたが、
酷薄さが冷徹な判断を導き、自己中心性が強烈な覇気に、
外聞を気にする虚栄心が悪事を自制させたと思います。
つまり、人格的な欠陥に名君足り得たということです。

李世民が戦場で叩き上げて地位を築きあげたのに対し、
煬帝が宮廷での権謀術数で権力を得た人物であったことでしょう。
戦場で鍛えあげられた李世民は徹底したリアリストとなり、
宮廷の外の世界を知らなかった煬帝は
「君主とはかくあるべき」という矜持のみが肥大したロマンチストとなった。
それがこの二人の君主としての明暗を分けたのだと思います。

煬帝ならば、君主の過ちを糾弾して無謬性を冒す魏徴のような諫臣は許容できなかったでしょう。
逆に李世民は、自らの野心を満たすためならば、
諫臣に過ちを指摘されて面目を潰されることも厭わなかったでしょうから、
高熲は不興を買ってもせいぜい数年間の左遷で済んで、
殺されることはなかったでしょう。
Posted by お菓子っ子 at 2011年09月18日 07:32
>肉さんへ

李世民と煬帝は同列に語ることは出来ないと私は思います。
帝王にとって、ストッパーがどんな人間であれ、やはりそれを受け入れる度量があるか否かの要素が非常に大きいかと。

煬帝も追加しないとダメですね(能力差はやはりつく形になると思います)。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月18日 23:12
>李常傑さんへ

私も全く同じ意見です。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月18日 23:13
>お菓子っ子さんへ

李世民は様々な敵陣営の人間を都度呑み込んでいってます。
これは余程の度量と彼や彼の陣営に魅力が無ければ成し得ないことで、暴君の素質を持っていたとは私は思えません。

史書は次の時代の国の史家が記して作られることが多いのでしょうが、彼の評価はやはり他の帝王と比べても極上に読めます。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月18日 23:18
酷薄残忍な朱元璋も敵陣営をどんどん飲み込んでますよ。
悪人だから度量や魅力が欠けるということはなく、
むしろあまりにも大きすぎる悪ゆえに人間を吸引する力を持つこともあります。

酷薄さは冷徹な頭脳、自己中心性は強烈な覇気、
虚栄心は天下を飲み込むような巨大な野望ともなります。
頭脳と覇気と大望を備えたスケールの大きな人物に出会ったら、
彼がどんな悪人であっても、それに魅入られる気持ちを我慢することは、常人には困難でしょう。
李世民とはそんな人物だったのではないかと。

善政は善人の善意から発するものではないし、
覇業も天下万民を思う無私の人に成し遂げられるわけでもありません。
Posted by お菓子っ子 at 2011年09月19日 01:46
李世民がお菓子っ子さんのおっしゃるような露悪的人物とは思えません・・・
酷薄さ、自己中心性、虚栄心、この3要素は天下を伺う群雄や歴代王朝の創建者なら必ず兼ね備えていますが、誰もが天下を争う段階に入ると多大な自制心をもって儒教思想に基づく理想的君主像を「演じ」るようになります。そうしなければ王朝組織の構築やその永続的運用に欠かせない知識人階級の支持が得られないからです。
魏晋南北朝から隋・唐にかけては貴族政社会の最盛期。露悪主義の若造ではどれ程才能豊かであってもこうした層を取り込む事は不可能でしょう。
Posted by 李常傑 at 2011年09月19日 14:37
李世民の場合は、いかにも儒教的君子を演じている感が見え透いていて、
にじみでる悪徳を隠し切れないというのがあります。

李勣に皇太子への忠誠を尽くさせるために採った手段や、
病床に就いた功臣長孫順徳への仕打ちは、
計算ずくで物事を考えていて、人情を解しない者のすることであろうと思います。

純朴な李勣ならば、病床で手を取って涙を流しながら「息子を頼む」と言えば、
あんな手を込んだことをしなくても感激して引き受けたでしょうし、
長孫順徳の旧功や娘への溺愛ぶりを思えば、
少しでも愛情のある人間ならば慰めの言葉の一つでも出ると思うのですが。

歴代の中華皇帝の中でも自制心は屈指だと思うのですが、
人情への理解が薄く、計算ずくで物事を動かす功利主義的な面が露骨に見えている人物だと思います。
それゆえに私は彼を大悪党と言うわけです。

知識人の支持を得るのは、「天下万民の益となる」「仕えても名に傷が付くような人物ではない」というのが重要で、
李世民を支持した人々も彼が道徳的な善人だから支持したわけではなく、
無用に民を害さず、天下万民に益となる人物だったからです。

酷薄な劉邦や朱元璋がいかに武将や官僚を粛清しても、
無用に民を害さなかったために支持を失うことなく、
理想的な君主として評価されたことを思えばお分かりになると思います。
Posted by お菓子っ子 at 2011年09月20日 04:19
>お菓子っ子さんへ

李世民と朱元璋では、呑み込み方(呑み込まれ方)が違うのではないでしょうか?
まぁ、聖人君子では激動動乱の天下は収めれないでしょうね。大悪党の素養が無ければ無理かも。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月25日 23:47
文中にある2つ目の「杜如晦」が「杜如誨」となっております。
私は「杜如晦」の方で憶えていたのですが、
検索してみますと「杜如誨」と載せているところ(wikipediaなどの別サイト)も多く見つけられました。
これは「晦」の間違いではなく、
「誨」と書かれる場合もある(史書で実際に書かれている箇所があった)という事なのでしょうか?
Posted by 通りすがりの質問者 at 2013年08月09日 15:54
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