魅力 6 / 統率力 10 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 7
中国史上屈指の名将。
養父韓擒虎も世渡りが下手で隋の朝廷において不遇だったが、李靖はそれにも増して世渡りが下手だった為、韓擒虎が亡くなると後楯を失って50歳くらいまで出世の機会を得ずにいた。一度、楊素邸に招かれその軍事理論を話すると、楊素は「卿はいずれこの椅子に座ることになるだろう」と言って感心したという。
李世民が父の李淵を担ぎ起兵した時、隋に仕えていた李靖は煬帝に急報を届けようとするが捕まり、李淵が処刑しようとするところをその才能を見込んだ李世民に許されて帷幕に加わる。李靖もまた李世民に惚れ込み、忠誠を尽くして後に凌煙閣に李世民が功臣24人の姿を描かせた際、武臣第一等に描かれる。
李靖は王世充ら隋末の群雄討伐、江南平定に従い、629年に北方の騎馬民族である突厥が侵攻してくると行軍総管となって防御。以後は対外民族との戦いに従事するようになる。特に629〜630年の突厥討伐においては、騎兵隊(恐らく中国史上最強の騎兵隊で副将が李勣、その他の将として尉遅敬徳、程知節)を率いて唐北部の一大勢力であった突厥の本拠を急襲し、たった一日で陥落させる。頡利可汗は逃亡するが李靖は冬のモンゴル高原、敵地の中深く侵入してことごとく突厥軍を破り頡利可汗を捕縛、突厥を滅ぼす大殊勲をたてる。又、634年に吐谷渾が侵入するとこれを撃退して唐の勢力確立に成功。
騎馬遊牧民族帝国である突厥に正面から騎兵戦でことごとく勝ち、滅ぼした李靖は中国史においては突出した騎兵戦の天才であり、唐安定の第一功績者でもある。後に衛国公に封じられ、李靖と太宗李世民の対話は「李衛公問対」という書物にまとめられて兵法書として高い評価を受けている。