2010年09月23日

楊素

楊素 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 4 / 政治力 6 / 知力 8

隋の文帝楊堅を支えた高熲と並ぶ名臣だが、楊素は陰謀を好み、贅沢好きな奸雄の資質をもつ人物であった。
北周の北斉平定に先鋒として功績があり、楊堅(後の隋の文帝)が丞相に昇ると楊素はこれと親交を結んで汴州刺史に任ぜられた。尉遅迥の乱が起こると北周の大将軍に昇って滎州刺史の宇文胄を撃破。徐州総管に転じて柱国となり、清河郡公に封ぜられた。
隋が建国されると、上柱国・御史大夫に昇る。楊素の妻の鄭氏は嫉妬深く、これに楊素は怒って「もし私が天子となったとしても、お前は皇后にはしてやるまい」と言ったのを鄭氏が上奏した為、免官された。

文帝楊堅が江南を奪う計画を考え始めると、楊素は数度にわたって南朝陳を平定する策を進言。信州総管に任ぜられ、永安で「五牙」「黄龍」と称する大艦を次々と建造して楊堅の次男である晋王楊広(後の煬帝)を補佐し、自らは行軍元帥となって水軍で長江を下って一挙に陳を滅ぼす。又、陳滅亡後に江南で頻発した隋に対する反抗を次々と撃破。
592年、蘇威に代わって尚書右僕射となり、張衡と高熲とともに朝政を分掌。598年、突厥の達頭可汗が塞内に侵入すると霊州道行軍総管となって出征し、撃破。601年、高熲に代わって尚書左僕射となり、楊素の一族の多くは隋の高官に任命され、楊素自身の邸宅も宮殿風に建築して贅を極めた。

文帝の晩年、太子楊勇と晋王楊広とのあいだには次の皇帝位をめぐる暗闘があったが、楊素は建前は中立を保ったものの、裏で太子の悪評を流して楊広の立太子に協力。やがて文帝は独孤皇后の言を容れて楊勇を廃嫡し、楊広を太子に定めた。604年、文帝が逝去して煬帝楊広が即位。この時、病床の文帝が太子楊広の非行に激怒して、廃太子の楊勇を呼び出そうとした。楊素はこれを察知して楊広に報告し、楊広が父の殺害を命じたとする説も根強い。
煬帝の弟である漢王楊諒が乱を起こすと、楊素はこれを討伐して鎮圧。605年、尚書令となり太子太師に任ぜられた。606年、司徒に昇り楚国公に封ぜられた。しかし、煬帝の猜疑を受け、失意のうちに逝去。子に楊玄感、楊玄奨、楊玄縦、楊仁行、楊萬石、楊積善がいる。
posted by ただの中国史好き at 13:34 | Comment(2) | 隋時代
この記事へのコメント
文帝楊堅は楊素に対してかなり遠慮していたような印象ですが、煬帝は立太子や即位時の楊素の働きに負い目を感じ、逆に事あれば楊素を貶めてやろうとしていたように感じます。
私の印象では魅力+1、政治+2、知力−1といったところでしょうか・・・
Posted by 李常傑 at 2011年10月01日 22:49
>李常傑さんへ

政治力については際立った実績もないので(勿論、功績はありますが)、このあたりが妥当かと。
策略や機略は知力で評価しました。
Posted by ただの中国史好き at 2011年10月03日 00:35
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