2010年04月03日

劉穆之

劉穆之 能力データ
魅力 8 / 統率力 4 / 戦闘力 2 / 政治力 8 / 知力 8

劉穆之は東晋末期に劉裕に仕えた政治家。
若い頃から読書を好み、広く書物に通じていた。404年、劉裕が京口で桓玄討伐の兵を挙げると、何無忌の推薦により劉裕の主簿として召し出される。劉裕が首都建康を平定すると、劉穆之は多くの重大な処分をたちどころに定め、更に司馬元顕や桓玄以来の弛緩した政治を一新し、以後劉裕の腹心として重用されることになった。

劉穆之は劉裕に進言して、宰相として朝廷の大権を掌握することを成功させ、その後も劉裕の南燕征服や盧循の平定の際にも、多くの献策や決定を行った。劉裕が劉毅を討伐すると建威将軍に任じられ、建康に留まり諸葛長民の補佐についた。諸葛長民が劉裕に疑心を抱くと、劉穆之は彼をなだめつつも謀反の動きに備え、これにより劉裕は諸葛長民を誅殺した。416年、劉裕が後秦征服の遠征を行うと、劉穆之は建康に留まり世子の劉義符を補佐して朝廷を取り仕切った。同年、劉裕は旧都洛陽を回復したが、朝廷から未だ九錫が授けられずにいた為、王弘が使者として建康に赴き、九錫を要請。劉穆之はこのことを恥じて病を発し、翌417年に死去した。享年58。長安にいた劉裕は劉穆之の死を聞くと急いで彭城に戻り、劉穆之に散騎常侍・衛将軍・開府儀同三司を追贈。更に改めて侍中・司徒を贈り、南昌県侯に追封した。

劉裕は即位後も劉穆之を懐かしみ、常に「彼が存命ならば私が天下を治めるのを助けただろうに」と漏らしていた。光禄大夫の范泰が「劉穆之は創業の折に功業を残しましたが、王朝交替の事業に関わることはできませんでしたな」と言うと、劉裕は笑って「お前は一日に千里を駆ける名馬のことを耳にしていないようだな」と答え、「劉穆之が亡くなって私は人に軽んじられるようになった」と述べたという。

劉穆之は朝政や出征の補給を取り仕切り、その事務処理は流れるように速やかだった。陳情の人々で部屋があふれているような時でも、書類を決裁しながら彼らと応対してみせた。賓客と談笑して時を過ごして倦むことがなく、休暇の時は典籍や文章にいそしんだ。豪奢を好み、食事は贅沢を極め、毎朝10人分の食事を作らせ、食事の時には決まって客10人と食事をした。
posted by ただの中国史好き at 21:54 | Comment(0) | 南北朝時代
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