2010年03月21日

苻堅

苻堅 能力データ
魅力 7 / 統率力 4 / 戦闘力 3 / 政治力 6 / 知力 6

東晋時代、争乱続く中国大陸の北方を統一した男が現れる。その名を苻堅。
元々北方異民族の出身だが中国文化に耽溺し、中国統一の理想に燃えて降伏した敵は殺さずに自軍に組み入れるなど、名宰相王猛も「理想と現実は違うのですから、無理に南方の東晋を征服しようなどと思ってはいけません。」と遺言を残したほど。

がしかし苻堅は王猛の遺言を無視して前秦100万の大軍を擁して長江を渡る。苻堅の採った作戦は、わざと負けるふりをして敵を誘い込み、これを包囲撃滅するというものだが、100万の大軍にはそれが徹底されていなかった。謝玄率いる東晋軍6万が決死の覚悟で突入してきたところを苻堅が一時退却の指示を出したところ、前秦軍の中から負け戦だという声があちこちで起こった。元々東晋軍で前秦へ降伏した者達が前秦軍に組み入れられていたが、彼等は苻堅に心から従っていたわけではない為、この機会に負け戦だと次々に叫んで軍を混乱させたのである。
こうして100万もの大軍がいっぺんに崩壊、四散。苻堅が気付くと本陣まで敵兵が迫って来ており、慌てて逃げ出す始末で1000〜2000にまで減った自軍は風声鶴唳(風の音にも敵軍の奇襲ではないかと恐れる始末)の有様で、慕容垂の軍に護られ命からがら北へ逃げ帰った。

これを契機に前秦の求心力は低下。西燕、後秦が独立し、それらに敗れた苻堅は禅譲を迫られるが拒否して縊り殺された。
posted by ただの中国史好き at 23:55 | Comment(5) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
この記事へのコメント
失礼ながら、苻堅では?
Posted by 肉 at 2011年09月02日 19:47
あ、ホントだ。
Posted by 李常傑 at 2011年09月03日 00:30
>肉さんへ

うわっ、ありがとうございます!
訂正しました。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月03日 12:57
石勒のところで漢人虐殺に触れた際に思いついた事を述べてみたいと思います。
英主石勒でさえ、(帝位に就く前とはいえ)永嘉の乱に際して10万近い漢人を虐殺、甥の石虎もほぼ同様、漢人であったが石虎の養孫となり、クーデターを起こして後趙を乗っ取った冉閔は胡族20万を虐殺したといわれています。
胡族地方官や駐屯軍による漢人住民に対する過酷な収奪とそれに付随した数百から数千の殺戮はそれこそ枚挙にいとまがない程発生していたのでは、と想像できます。
王猛が死に際し「東晋を攻めないよう」遺言したのは、苻堅治世下たかだか10数年ではいまだ各民族間の真の宥和には程遠いという現実をふまえての、正に<最期の忠言>だったのでしょう。
まあ、それでも苻堅の立場からすれば100万もの大軍を編成できる国力が有るなら天下統一に乗り出したくなるのもわからなくもないですが。
「大軍に兵法なし」といわれるように、小細工など弄さずに力攻めし、謝玄の前線部隊が壊滅すればあっさりと東晋王朝は降伏したのではないかと思うのですが・・・
逆に自軍が烏合の衆である事を自覚していたからこその小細工だったのかな?
Posted by 李常傑 at 2011年09月04日 12:28
>李常傑さんへ

それは無いでしょう。
私は苻堅大好きなのですがこの戦いに関しては辛口評価を。

慢心していたのではないのかと、モチベーションの違いでしょう。

前秦軍からすれば「勝てる戦い」だったのでしょう、なので滅茶苦茶と言うほどでもなく極自然に気が抜けていたんでしょう。

それを東晋軍側からみると「勝たなくてはいけない戦い」だったのではないのかと、なので謝玄以下やれることを全てやった上で戦いに挑んだのでしょう。

ここらへんの認識の違いだと私は思います。
Posted by 肉 at 2011年09月04日 22:24
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