2010年03月15日

謝玄

謝玄 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 6

孝武帝の時代、前秦の符堅が現れて南下と天下統一の勢いを示していた。この際、謝玄は叔父である東晋の名宰相謝安から江北の軍事6万を託されて100万の前秦軍と淮水一帯で戦う。
この東晋最大の危機となった「ひ水の戦い」にあたり、一族の団結を固めて南に避難してきた流民や劉牢之の兵を指揮し、僅かの軍勢で符堅を撃退。急使によりこの勝報を聞いた謝安は友人と家で碁を打っていたが、何事か聞く友人に「なに、小僧どもが敵をちょっとやっつけた様です」と言い、お客が帰った後で「やった!」と飛び上がった途端に下駄の歯が折れてひっくり返ったという逸話が残っている。

この戦いの結果、前秦は瓦解して東晋は生き延びえた。謝玄はこの後も山東省や河南省に出撃するが、中央と意思疎通を欠いて功をあげぬまま病没した。
posted by ただの中国史好き at 23:04 | Comment(2) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
この記事へのコメント
考えてみれば100万もの大軍にわずか6万の寡勢で対峙するのによく兵士が雲散霧消してしまわなかったな、と改めて思います。(西晋の征呉戦の際、隋の征陳戦の際等、呉や陳の防衛部隊が一夜明けたら大部分が逃げ散っていた、なんて話しもあったように記憶していますが・・・)
余程謝玄の統率力が優れていたのだろうと思われます。
ヒ水の戦いの後に朝廷との意思の疎通を欠き、戦功をあげる事が出来なかったのは、謝家は東晋朝下の名門であったためこれ以上謝玄に功を立てられると(建国当初の王一族のように)謝家に朝廷を壟断される事態を恐れ、わざと戦功を立てられない様朝廷側が仕向けたのではないかと思いますね。
大功を立てたがために疎まれ、思う存分能力を発揮出来なかった不幸な事例といえるのでは・・・
Posted by 李常傑 at 2011年09月05日 23:52
>李常傑さんへ

そうですね。
謝安のバックアップがなかったのかな?と思ってしまいますよね。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月09日 21:52
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