2010年02月21日

司馬炎

司馬炎 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 5 / 知力 5

司馬懿の孫で西晋の武帝。
魏における祖父以来の蓄積を受け継ぎ、禅譲による帝位簒奪を行って西晋を建国。屯田制や九品中正制度など魏以来の改革を進め、名将杜預王濬等の活躍によって280年に呉を亡ぼして久しぶりの天下統一を成し遂げた。しかし、一方で西晋周辺には異民族の侵入が続き、自らも晩年は女色にふけり(亡ぼした国の後宮を全部取り込み、後宮三千人どころか後宮の美女は一万人を超えていた。司馬炎は毎日後宮へ通うが、一万人の美女の誰が誰か判らない為、ひとまず羊の引く車に乗る。羊が停まった所の女性を抱くわけだが、そこで後宮の女性達は羊の好きな塩を入口に盛るようになり、それが遥か後年の現在に至っても水商売の風習となって残っている)政治も顧みなくなるなど、司馬炎の時代は統一も束の間、後の永嘉の乱のような混乱時代の序章でもあったといえる。

ただ、司馬炎は降伏した国の皇帝は一人も殺さず、貴族にして天寿を全うさせてやるなど、寛大な面ももちあわせていた。
posted by ただの中国史好き at 23:25 | Comment(15) | 西晋・東晋・五胡十六国時代
この記事へのコメント
晋武帝司馬炎で注目しているのは魏より禅譲を受けてから15年も軍を動かさなかったところです。既に蜀を併呑し、呉と晋の国力差は決定的に開いていたので15年の間に1度も天下統一の軍を起こさなかった方が不自然な気がします。陸抗の名声が余りに高くて大軍の派兵をためらわせる程だったのでしょうか?しかし晋にも羊祜や杜預がいたので彼らに1軍を与えて陸抗を江陵あたりで釘付けにしておいて合肥や江夏から10万ずつの兵力で攻め込めばもっと早い段階で天下統一が出来たようにもおもうのですが。
Posted by 李常傑 at 2011年08月21日 10:51
第一に涼州の鮮卑の反乱。
第二に交州や荊州方面での攻勢が何度も頓挫したことでしょうね。

涼州鮮卑の反乱は9年にわたって続き、3人の刺史を戦死させ、
司馬炎をして「蜀や呉よりも手強い」と言わしめるほどの激戦でした。

交州方面では交趾の反乱に乗じて南中監軍霍弋の軍が交趾・日南・九真を制圧しましたが、
3年間の戦いの末に呉に奪回されます。
荊州方面でも西陵督歩闡の反乱に乗じて荊州都督羊祜の大軍が攻勢をかけますが、陸抗の活躍で失敗します。

涼州の反乱が鎮圧されて、呉に全力を注げるようになり、
なおかつ郭馬の反乱を鎮圧すべく呉の主力軍が交州向かっていて前線を離れたため、
ようやく呉を攻め滅ぼせる目処がたったのです。
Posted by お菓子っ子 at 2011年08月22日 00:04
恥ずかしながら歩闡の反乱による西陵の戦いがあった事をすっかり失念していました。晋はこの時10万の大軍を動員していましたね。涼州での鮮卑族の大規模な反乱については今回初めて知りました。お教えいただき、ありがとうございました。
Posted by 李常傑 at 2011年08月22日 00:32
>お菓子っ子さんへ

それでもやはり、歴代王朝建国者の中では容易に天下を掌中に入れた方ですね。
そもそも、司馬炎自身が最前線で軍を率いたことってほぼ無かったのではないでしょうか?
Posted by ただの中国史好き at 2011年08月23日 20:49
>李常傑さんへ

比較的安易な統一を果たし、序盤は善政を敷いたのに既に北方からは荒々しい馬蹄の音と不穏な煙が巻き起こっていたのでしょうね。
一流というにはやや物足りない感のある人物です。
Posted by ただの中国史好き at 2011年08月23日 20:55
祖父以来三代にわたって築き上げた路線にただ乗っかっていただけ、とは言い過ぎか。お菓子っ子さんに教えていただいたように内政面ではそれなりに問題を抱えていたようですし。賈充・衛瓘らお目付け役がそれなりに有能だったから何とか統一に漕ぎ付けた印象をもっています。
しかし天下統一を果たすとすぐ女狂いに走るようでは所詮名門のボンボンにすぎない事を露呈しましたね。
Posted by 李常傑 at 2011年08月23日 23:05
>李常傑さんへ

ほんとですね。
Posted by ただの中国史好き at 2011年08月29日 22:24
>ただの中国史好きさん
司馬炎が自ら兵を指揮して戦ったことはないです。
一般には、最も容易に天下を手に入れたのは隋の楊堅と言われていますが、
彼とて北周の一重臣から自らの手で立てた功績と政争での勝利を
バネに権力の座に昇っているわけで、
世に出た時に既に父が権力を握っていて、
自らの器量で権力を勝ち取る必要がなかった司馬炎よりは苦労しています。

>李常傑さん
涼州の鮮卑の反乱は占田・課田法に対する反発かきっかけでした。
これは土地所有の上限を定める法律で、
豪族勢力の伸張を防ぎ、自作農を増やそうとする土地改革でした。
歴代の中華王朝の盛衰は自作農人口と密接に関わっているので、
この改革はきわめて妥当であり、
既得権益層の反発を受けて、反乱が起きようとも、
断行する価値がある方策です。
ですから、失政とはいえないでしょう。

司馬炎は内政には熱心で、制度改革や民生の安定に尽力し、
名君の部類に入る人物です。
ただ、国防面では過度の軍縮や皇族封建など、
多くの過ちを犯していますので、
軍事に関する見識には欠けていたと言えます。

司馬炎の奢侈癖に関しては天下統一以前からですし、
その言動を見ると放埓で楽観的な典型的魏晋貴族です。
晋の建国の元勲の中にも、軍事を厭い、奢侈に流れた人物は多くいますので、
(そういう人々が呉征伐を最後まで妨害し続けた)
「そういう時代だった」ということでしょうね。
Posted by お菓子っ子 at 2011年08月30日 13:14
占田・課田法の理念がどれほど素晴らしく、また必要性があったとしても、実際に9年にも及ぶ大反乱を招いたのは運用面で重大なミスがあったからでしょう?それは失政と言うべきなのでは?
また、鮮卑によるそうした大反乱を経験しておきながら三国統一直後に大幅な軍備の削減を行ったのは、後漢光武帝が天下統一後に民力回復を優先して行った軍備の大幅削減を状況の変化(曹操以来塞外諸民族を内地に移住させ戦力として利用したが、平時には漢族社会の大きな異物となり、政治的問題化するのはわかりきっていたはず)を考えずに短絡的にマネしただけではと私は捉えています。
黄巾の乱以来100年に及ぶ戦乱の時代に終止符を打った自分の功績は光武帝に匹敵し、王朝も200年位は続くに違いないと楽観的に思い込み、一気に緊張感を失った人物が司馬炎の実像に思えます。
「名君の部類に入る」とは過大すぎる賛辞では?私の事実誤認でしょうか・・・
Posted by 李常傑 at 2011年08月30日 20:10
>お菓子っ子さんへ

司馬炎自身の軍の統率力は微妙ですが、配下の統率力はまずまずだと思ってます。
でもやっぱり、この人は後宮1万人と羊のイメージが…。
Posted by ただの中国史好き at 2011年08月31日 00:01
>李常傑さん
土地所有の制限によって兼併ができなくなったら経営縮小を迫られますし、
さらに土地調査で収入を把握されて、税制改革で課税を強化されたら、
大土地所有者は経済的に破滅します。
ですから、このような政策が施行されたら、
唯々諾々と従って没落するか、政治工作で骨抜きにするか、
あるいは武装蜂起して政府と戦うかしかありません。
この時の涼州鮮卑は最後の道を選びました。

政府にとっても、大土地所有者の力を弱めなければ財政基盤を得られないので、
どちらも納得できる妥協は成り立ちません。
政府が倒れるか、大土地所有者が破滅するかの戦いです。
つまり、乏しい財源しか持たない弱体な王朝になるのがいやなら、
流血も覚悟の上で断行するしかないと。

反乱を鎮圧できずに王朝が転覆するのなら論外ですが、
鎮圧して抵抗勢力を粛清して、最終的に財政基盤の確保という目的を達成できたのなら、
的確であったというべきですね。

光武帝は同様の改革を行って河北と山東がことごとく蜂起する事態を招きましたし、
日本でも太閤検地に反発する国人や領主が日本中で蜂起して、
数万の軍勢を差し向けてようやく鎮圧できたほどの反乱もありましたが、
これを失政とみなす意見はありません。

軍備削減に関しては、疲弊している民衆の負担軽減という観点もあり、
それ自体は間違ってないのですが、
それとセットになる軍事力によらない異民族対策を模索せずに放置したのは大きな失策です。
光武帝は数少ない常備軍を北方に集中して配置して専守防衛に努めました。
塞内に大勢の異民族が居住していた晋ではこの方法は無理なので、
郭欽が提言した異民族の強制移住が妥当であると思われますが、
戸籍のうちで異民族が過半数を占める州郡もあったので、
人口が激減したこの時代で、異民族の人口は魅力的でもあります。
財政面では司馬炎の措置に一定の分を認めることもできますが、
異民族の制御を失った時の方策を欠いている点において、
誤っていたといえます。

内政面に限定すると「自らが統治していた間は成果を挙げた、死後に禍根を残した」
というあたりでしょうか。
しかし、自分の死後に「たかが政争に軍事力を持ち出して、
あげくのはてに異民族の兵力まで動員する」
なんて真似をする愚劣な人間が大勢いるなんて、
さすがに想像を超えているとしか言いようがないですね。
そこまで予測して手を打つのは人間には無理です。
Posted by お菓子っ子 at 2011年08月31日 16:26
>ただの中国史好きさん
征呉前後の朝廷の足並みの乱れ方はかなりひどいです。
反対派が推進派をしきりに讒言して、
建業攻略が目前に迫った時でもなおしつこく推進派の高官の処罰を求めたり、
征呉の中止を求める上奏を行ったりしていました。
にもかかわらず呉降伏後の論功行賞で、
反対派は処罰されるどころか、推進派以上の恩賞を受け、
さらに推進派は失脚するか、あるいは反対派の顔色を伺って逼塞する有様。

それ以外にも、国益を省みずに足を引っ張り合う大臣ばかりで、
国家のために一致団結して協力し合うような雰囲気は晋の朝廷にはありませんでした。
初代皇帝としての治績は及第点であるものの、
臣下の統率は明らかに乱れていたというべきですね。
Posted by お菓子っ子 at 2011年08月31日 16:43
>お菓子っ子さん

占田・課田法は確かに豪族の土地所有と奴隷・小作人の所有に制限を加える側面もあったようですが、額面通りに実行されたとはとても思えません。晋武帝ですら足元にもおよばない程の財力を有し、気違いじみた浪費競争を演じた石崇・王トのような存在は占田・課田法が徹底して実施されていれば説明がつきません。
鮮卑がこの占田・課田法の実施に対して反乱を起こしたというのも余りしっくりとこないのです。鮮卑は半農・半牧を生業としていたので反乱を起こすとすれば、むりやり農地を与えられて土地に縛り付けられる事に対して(当然いままでより高い税負担となるため)反感をつのらせた、という位しかイメージできません・・・
むしろ後漢時代に羌族が地方官の無法ともいえる収奪に怒り、大反乱を起こした事例をほぼトレースしていると考える方が自然な気がします。
羌族の反乱鎮圧後、後漢は護羌校尉を新設して羌族の不穏な動きを監視する一方で地方官による無茶な収奪を禁止する措置をとりました。曹操は南匈奴を自軍の戦力として管理するために護匈奴校尉を設置しました。晋武帝統治下(あるいはそれ以外でも)鮮卑に護鮮卑校尉が設置されたとは私はしりませんが、実際はどうだったのでしょう?
反乱平定後もほったらかしだったのであれば、やはり政治的に<?>なのでは・・・
「自らが統治していた間は成果を上げた」というよりは「自らが統治していた間はボロが出ずに済んだ」という方がより実態に近いのではと、私などは感じてしまいます。認識の差は埋まりそうにありませんね・・・
Posted by 李常傑 at 2011年08月31日 22:24
王ト・王済は皇帝の姻戚ゆえの権勢、
石崇は後ろ盾である賈氏の威光と地方官時代の不法行為によって蓄財しています。
どのような時代であろうと、彼らは法の及ばない存在ですね。
この手の法律は、地方豪族を締め付けてその力を削ぐことができれば、
十分成果が上がったと言えます。
中央の権勢家より、地方豪族の方が圧倒的に多いので、
その土地と小作人を回収できれば、国を富ませるに足るからです。
王トや王済や石崇のような人間が権勢を盾に、
桁外れの蓄財をすることを許す司馬炎の君主としてのあり方には大きな問題がありますが、
それは占田・課田法が有効であったかどうかとは別の問題になります。

三国の時代から異民族は収奪の対象になっています。
農業もそうですし、彼らの持つ家畜や交易の利も課税対象です。
もとからあった収奪への怒りが、占田・課田法による課税の厳格化でさらに募って蜂起に至ったのでしょう。
地方の有力者である禿髪樹機能を締め付けるのに十分な程度には、
占田・課田法が有効だったからこそ反乱が起きたと考えるべきです。
掛け声だけで実施がいい加減なら、役人と結託して適当な報告をさせれば良いのですから。
異民族の有力者と結託して、便宜をはかる見返りに
利をむさぼる地方官はどの時代にもいます。

反乱の後、司馬炎は護羌校尉を涼州刺史と、西戎校尉を雍州刺史と兼任させ、
民政と軍事の責任者を一元化することにより、
西北の異民族管理体制を強化しています。
この体制が有効だったことは、八王の乱の時の涼州刺史・護羌校尉として河西の軍事と民政を一手に握った張軌が、
中央の混乱を尻目に安定した統治を行い、
やがて自立するに至ったことで証明されています。

甘いと言えば甘いのですがそれなりに手は打っていますし、
西晋を滅亡に招く引き金となった楊氏や賈氏などの専横、皇族の内戦、
無為無能な貴族大臣などの問題はモラルの問題であり、
さすがに司馬炎の責任に帰することは難しいというのが私の立場です。
むしろ、「このような皇族や外戚や大臣しかいなかったのに、
よくもまあ天下の大乱を起こすことなく君臨し続けられたものだ」と感心すらします。
Posted by お菓子っ子 at 2011年09月01日 13:21
>お菓子っ子さんへ

やはり統率力は6がせいぜいといったところでしょうね・・・。
Posted by ただの中国史好き at 2011年09月03日 13:02
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。