2010年01月04日

趙雲

趙雲 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 8 / 政治力 4 / 知力 6

日本で諸葛亮に続き絶大な人気を誇る趙雲(字は子龍)は、三国志演義の中で関羽、張飛、馬超、黄忠とともに蜀の五虎将軍に挙げられている(五虎将軍は実在しない。正史である「蜀志」では「関張馬黄趙伝」で一つの伝記になっており、フィクションである三国志演義においてこの五人をまとめて五虎将軍と呼んだ)。
劉備が漢中王となった時、関羽を前将軍、張飛を右将軍、馬超を左将軍、黄忠を後将軍に任じるなど、四名は万の軍を率いて戦う地位であり同格に扱われていたが、趙雲は二ランク位下の劉備の親衛隊長的な役割、位置付けであった。その二年後に劉備が帝位についた際は馬超を驃騎将軍、張飛を車騎将軍など、更に昇進させているが、趙雲は全く昇進していない。

ただ、実力や功績は劉備軍内、蜀内では誰もが認めるところであり、他の四名に等しいと考えられていたからこそ、陳寿は正史「三国志」で趙雲を他の四名と並べて一つの伝記にまとめたのであろう。
その後「三国志演義」がメジャーになると、五名の中で一番下であった筈が関羽と張飛の次の位置付けとなった感が強い。趙雲は生前は実力の割りに地位や名誉的には不遇だったが、死後評価がぐんと上がった人物と言える。
死後は長男の趙統が後を継いだ。
posted by ただの中国史好き at 23:23 | Comment(4) | 三国時代
この記事へのコメント
そもそも劉備陣営は赤壁戦後の荊南平定戦と夷陵の戦い以外は常に兵力劣勢の条件で戦って来たため、関・張両名は常に部隊の先頭に立って突撃し、自らの命を的にして兵の士気を鼓舞する必要があったのではないかと。旗挙げ初期を除けば袁紹との決戦以外では曹操陣営は常に敵軍に対し優勢な戦力で臨み、部隊運用を優先しなければならなかった夏侯淳・夏侯淵・張遼・徐晃らがそれほど個人的武勇の点で関・張に劣っていたとは思えないのです。同じ理由で趙雲が同時代に評価が低かったのは劉備陣営にあって個人的武勇よりも部隊指揮官としての役割に徹していたからでは?馬超・黄忠は関・張と武功を争う気概満々だったのに対し、趙雲は余りに冷静すぎた(大人すぎた)のかも・・・
Posted by 李常傑 at 2011年07月30日 17:55
>李常傑さんへ

おっしゃる通りですね。
同じ能力の人間でも、その役割や個性によって伝えられ方や歴史書への記され方が変わることがあると思います。
Posted by ただの中国史好き at 2011年07月31日 23:05
趙雲の活躍の大半は趙雲別伝にありますが、
それでも蜀志6に併記されている他の4将よりは一段落ちる気がします。
人柄も武勇も優れていますが、それでも関・張や馬超のような威名も、
黄忠のようにそれだけで青史に名を留める資格があるような絶大な功績もありません。
官位も劉備在世中は翊軍将軍に留まっていて、
前将軍関羽・車騎将軍張飛・驃騎将軍馬超・後将軍黄忠より落ちます。
それどころか、鎮北将軍魏延や輔漢将軍李厳よりも格は落ちますね。

官位というのはその人物の権限と適正を評価する目安の一つになります。
季漢輔臣賛では重厚さを評価されていて、
別伝でも硬骨さを示すエピソードが一番目立ちます。

陳寿の評は「灌嬰・滕公のともがら」
どちらも劉邦の武将で項羽や黥布のような武勇も、
韓信のような軍略も持ち合わせていませんが、
忠実で部下として用いるにはこの上ない人物。
灌嬰は韓信が最も信頼して、重要な局面を任せた武将で、
統一後に最古参の樊會や周勃ですら猜疑を受けたのにも関わらず、
一度も疑われずに常に軍のトップにあり続けたほど信頼された人物。
滕公夏侯嬰は言うまでもないですね。

趙雲の場合も武勇や功績は落ちるものの、
灌嬰や夏侯嬰になぞらえるような忠誠心と人柄によって、
他の4将と肩を並べるべき存在と陳寿は評価したのではないでしょうか?
数値以外の観点で用いるべき理由があった人物ですね。
Posted by お菓子っ子 at 2011年08月07日 15:29
>お菓子っ子さんへ

趙雲の評価はまさにそこに尽きるのでしょうね。
赫々たる武勲や歴史書に記されるところは少なくても、将たる者の一番信頼に足る人物というのはそういったところとはまた別の物差しで計られるべき人間力があったのだと私も思います。
Posted by ただの中国史好き at 2011年08月15日 22:53
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