魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 8
後漢以来の名家であるが呉に仕える。
蜀の皇帝劉備は、呂蒙によって斬られた関羽の仇をとり、荊州を取り戻す為に10万の大軍を自ら親征し発した。蜀軍は怒涛の勢いで呉軍を撃ち破り進軍、呉軍は荊州の拠点であった江陵まで追い詰められる。しかし翌年夏、蜀軍は夷陵で呂蒙の後任として大都督となった陸遜の火計によって大敗し、多くの将軍や文武官(馬良・傅とう・馮習・王甫・張南など)を含む8万余が戦死。劉備は趙雲や馬忠に助けられかろうじて白帝城へ敗走、ここに永安宮を造営して滞在。そのまま逝去した。
これが有名な夷陵の戦いである。この戦いによって蜀は力を失い、滅亡への道をゆっくりと転がり始める。
陸遜はこの大功の後は対蜀担当官として重きをなしたが、特に大きな戦をしたわけでもなく、目立った武勲もあげていない。
後年は軍政両面に渡って呉で重きを成し244年に丞相となるが、孫権と対立するなど呉の国内分裂に巻き込まれて憂死。子の陸抗は知勇備えた名将として、孫の陸機は文才に優れるなど、子孫も呉の中核を成す優秀な一族であった。
5万を超える大軍を2度も壊滅させた将なんて、三国時代にはほとんどいません。
曹休10万の大軍壊滅の功がありましたか。
確かに5万超の大軍を2度壊滅させた将は稀有ですね。
統率力を7→8にUPさせました。
@呂蒙を除き皆江南の大豪族出身で、高い知識や
教養を身につけていた
A領内の山越との局地戦で一族の長として部曲を率いて戦い、机上の兵書・軍略の知識を実戦で磨きあげる事ができた(実戦経験の豊富さ)
B鎮圧後の山越の民の慰撫に務める事で戦闘を多角的に見る経験を積んだ
山越の反抗と言う内憂を抱え込み、その鎮圧に多くの労力を割かざるを得なかった事が逆に優れた軍司令官を生み出す土壌になった、と考えたのですが、ムリがあるでしょうか・・・