2009年11月14日

呂蒙

呂蒙 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 5 / 知力 8

呂蒙は三国志屈指のヒーローである関羽を破って捕縛し、斬った武将として有名である。
が故に三国志演義では悪役として描かれており、NHKの人形劇三国志では城に立て籠もった関羽を誘き出す為に罪の無い人々を次々に殺すというとんでもない設定にされてしまっている。

そもそも、呂蒙は姉の夫が孫策の重臣であった縁故で孫策に仕えるようになり、孫策死去の後はその弟である孫権に仕えた。黄祖との戦いでは都督の陳就を自ら討ち取るなど、その武勇で功績を重ねると、208年の赤壁の戦い、その後の江陵の戦いでも戦功をあげて偏将軍・尋陽県令に任命される。その後も呉屈指の勇将として対曹操戦や反乱平定に活躍。
がしかし、呂蒙には教養がほとんど無かった。主君の孫権は彼に教養の大切さを諭し、そこから勉学に励むと、後に魯粛の後任として荊州へ訪れた際には魯粛から「呉下の阿蒙に非ず」(呉にいた頃のお馬鹿な蒙ちゃんではない)と評され、それに対して呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」(日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっている。いつまでも同じ先入観で物事を見ずに常に新しいものとして見よ)と言った。尚、孫権は成人してから学問に励んだ武将として、呂蒙と蒋欽を挙げている。

214年には、孫権統率の下で甘寧と共に曹操領の皖を降し、廬江太守の朱光を捕らえ、数万人を捕虜とする。この功績によって廬江太守の任を授かる。
215年、魯粛が1万の軍を率いて劉備軍の荊州総督である関羽を牽制。呂蒙は長沙・桂陽を降伏させ、ケ玄之を使者として派遣して零陵太守を降伏させる。この後、関羽と魯粛が会談、孫権と劉備は和解し、孫権は長沙・桂陽を領有、劉備は零陵を領有することとなる。

魯粛の後任として後を継いだ呂蒙は、大国の魏を交戦するよりも、劉備が締結を無視して占拠している荊州南部の全域を奪い返すことを主張。
219年、樊城攻めに掛かりきりだった関羽に対し病と偽り、後任として無名の陸遜を任命して油断させ、さらに関羽配下の士仁・麋芳を寝返らせる。これによって関羽は益州への退路が断たれて孤立し、ついに冬12月に当陽県の南方でこれを捕え、その子の関平と共に処刑した。呂蒙は関羽を討ち取り、荊州を奪還するという大功績を挙げたのである。
しかし、以前から病に臥せりがちであった呂蒙はまもなく死去。死後は次男の呂覇が後を継いだ。彼の後任には陸遜が選ばれ、孫呉の軍権を掌握していく。
posted by ただの中国史好き at 23:00 | Comment(2) | 三国時代
この記事へのコメント
呂蒙は江陵攻略や皖城攻略での作戦立案、皖城攻略の戦闘指揮、濡須戦での防衛指揮など、
戦術指揮官と作戦参謀の才能を兼ね備えた稀有な将です。
そして、そのどっちでも大きな戦いを左右する役割を果たしています。
軍事的才能では三国時代屈指ですね。
荊州無血攻略という空前の大功も立てています。
人望も厚くて誰からも慕われ、傍若無人で張昭にすら不遜な大度をとる荒くれ者の甘寧ですら、
呂蒙には心服していました。
これほどの将が最高点7は少し寂しいように思います。
Posted by お菓子っ子 at 2011年08月07日 14:27
>お菓子っ子さんへ

確かに最高7点はちょっと厳しいかもしれませんね。。。
統率力と知力は7→8点にUPさせました。
Posted by ただの中国史好き at 2011年08月15日 22:45
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