魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 2 / 政治力 9 / 知力 9
諸葛亮、字は孔明。
諸葛一族は三国時代でも有数の豪族であり、一族は魏・呉・蜀の三国それぞれで要職を得て活用。中でも諸葛亮は劉備に三顧の礼をもって迎えられると、蜀の建国と維持に身命を投げうって尽力したが、魏や呉に比べて国力や人材に乏しい蜀は名将の相次ぐ死と劉備の後を継いだ暗愚な皇帝劉禅がために急速に力を失い、巨星孔明の死によって瓦解への坂道を転がり始める。
実際には軍師としての能力は高くなかった諸葛亮が中国三大軍師(他は周の武王に仕えた太公望呂尚と漢の高祖劉邦に仕えた張良)に祭り上げられているのは何とも三国志演義の魔力による読者の誤った思い入れ、贔屓としか言いようがない。
そもそも赤壁の戦い以後の劉備軍の軍師は紛れもなくほう統であり、ほう統が落命した後は法正が軍師として指揮。法正が亡くなって諸葛亮が軍権を掌握してから蜀軍は戦に勝てなくなる。
後に関羽が呉の呂蒙によって斬られると、劉備は臣下の反対を押し切って自ら敵討ちの為に大軍を率いて呉へ出兵。この際に孔明は「法正が生きていたら主君をお止めしたであろうし、止められなくても負けはしなかっただろう。」と嘆いている。こと軍事に関して、劉備は諸葛亮よりも法正の方を信頼していたのだ。
劉備の死後、孔明は劉備の遺志を継いで蜀軍を率い打倒魏、漢王朝再興の為に出兵を重ねるが、司馬懿によって巧みに防がれて遂に一度も魏の領土を奪い取ることが出来なかった。
では諸葛亮は何の才能に優れていたのか?
それはまさに漢の蕭何の役割と同様、劉備軍が出陣した後の守りと前線への補給能力である。実直清廉な孔明は完璧なまでにこの役割を全うしたが為に、劉備軍は戦に勝てていたとも言える。
ご指摘ありがとうございます。
なるほどなるほど、確かにおっしゃる通りですね。
彼の死後の蜀の瓦解ぶりからすると、統率力は8点をあげてもいいような気もしますので、評価を修正します。
それも三秦の人心が敵失によって漢に傾いてて、
張良の策略で楚の主力が東へ向かっていて救いに行けず、
東方から三秦への食料供給もありません。
漢は後方に簫何がいるために兵力と食料をいくらでも前線に送り込むことができて、
これ以上は考えられないほどに戦略的に有利な状況。
翻って諸葛亮はといえば、有利な材料は関中や隴西の人心が動揺したぐらい。
魏の中央は状況分析と判断が的確で、
不利になれば、洛陽から即座に援軍が投入されます。
また、関中には食料が豊富に蓄積されているし、
潼関を確保していれば、渭水の水運を利用してほぼ無尽蔵に食料を輸送できます。
魏は何度負けても時間さえ稼げれば物量に物を言わせて、
何度でも戦力を回復できますが、
諸葛亮は一度でも負けて戦力を失うか、
あるいは守りを固められて進軍が遅延して食料が尽きたらそれまでです。
これでは韓信の軍事的天才をもってしても、関中・隴西を抜くのは不可能ですね。
自分が正面から指揮した野戦では負けを知らず、
当代最高の名将張郃をも戦死させ、
速戦即決を得意とする司馬懿の攻勢をくじいて守勢を強いた諸葛亮の軍事能力は、
この時代においては最高レベルにあると思います。
正面決戦の強さなら三国時代最強、
膠着した戦況を奇策で打開する発想と能力に乏しいところを減点といったところでしょうか?
この能力の有無が韓信や曹操と、諸葛亮の差ですね。
魏がいくら大軍を送り込んできても、何度も鎧袖一触で殲滅して、
食料が尽きる前に長安を攻略して潼関を押さえるぐらいできないと、
軍事力だけによる北伐は不可能ですよ。
それができるなら、中国史上どころか世界史上最高の軍事の天才です。
軍事能力のみでこれを実現できるのはアレクサンダー大王以外にはいないでしょうね。
蜀漢の諸葛亮、姜維の評価をする際に、よく比較するのが前漢の張良などですよね。
確かに状況や戦力は異なりますが、正史ベースで冷静に評価するならばやはりこの辺りが妥当かと個人的には考えています。
李常傑さん、お菓子っ子さんのコメントによって、統率力を7→8にUPさせました。
29年が長いか短いかは微妙ですが、やはり圧倒的な国力差であるが故の攻めの守り(攻めることによって相手から攻め込まれないようにする。自国を戦場にしないことにより国力疲弊・消耗を抑える)を諸葛亮から受け継いだ姜維の力量が大きいと思います。個人的に好きな武将というのもありますが(笑)。
吉川英治版三国志の篇外余録に「・・・孔明に似て孔明にとどかず、その人格に力量に、いかんともなし得ぬ先天的な力量の差云々・・・」という箇所がありますが、姜維自身が最も痛切にその事を感じていたに違いありません。にもかかわらず諸葛亮の遺志に応えようと粉骨砕身する姿は<滅びの美学>を纏っており、強く惹きつけられます。
蒋琬・費禕が執政している時代は、国内政治は安定し、
外敵も寄せ付けませんでした。
小国の宰相としてこれ以上の成果はないでしょう。
姜維は亡国の責任者ではありますが、それは無理な出兵を繰り返したためではないと思います。
姜維が蜀の亡国に責任を負うべきとすれば、
それは段谷の敗北後に宰相たる録尚書事の資格をもって求心力を回復するのを怠り、
無為無能の董厥・諸葛瞻・黄皓らに政権を明け渡したことでしょう。
指導力を欠いた政権が魏の圧力に対して有効な手を打とうとせずに
馴れ合いに終始した結果、亡国を招きました。
勝敗は兵家の常であり、失敗しても立て直して再戦を挑めば良いのです。
自分で立て直して他日を期そうとせずに、
他人に政権を委ねてしまった無為さが姜維の最大の罪です。
才能だけならば、蜀史上でも屈指の人物とは思うのですが。
まさに滅びの美学ですね。
何故かそういう人物に惹かれます。
諸葛亮に有って姜維に足りなかったもの、その一つが政治力(というかそこに対する関心度と蜀全体の統治における人員配置含めた重要認識度)ではないかと思ってます。
まぁ、劉禅の愚鈍さも如何なものかと思いますが、哀れな程に末期の蜀には国を思い行動出来る硬骨漢がいませんでしたね(諸葛瞻、劉ェも小粒)。
夷陵の戦いで幾多の人材を失ったあと、このような政治姿勢が蜀の国家方針にまで高められると、諸葛亮・蒋琬・費禕ら有能な政治家がいなくなると年月の経過とともに国家組織は縦割り行政化・官僚主義化による縮小均衡へと向かっていき、軍事・政治両面で人材の小粒化が進んでしまったというのは穿ちすぎでしょうか?
ただ、そこまで諸葛亮に見通せというのは無論無理な話しで、三国中最小・最弱の蜀が特に魏に対抗するには組織運営の合理化と官僚個人の能力を最大限発揮し、かつそれを永続的に実施しなければならなかったわけで漢朝復興を国是とする以上荊州失陥と夷陵の大敗北の後、諸葛亮がとり得る唯一の方針でもあったのかもしれません。
夷陵の大敗北で漢朝復興の可能性はほぼ100%潰え、辺境の地方政権に甘んずる事を余儀なくされた中での北伐は諸葛亮にとって不可能を可能にするような大博打だったんだろうなあと改めて感じています。
姜維は三国時代後期最高の将軍の一人だと思います。
機動戦の力量なら三国時代随一かもしれません。
それほどに姜維が率いる軍の行動の迅速さは突出しています。
防御戦にも巧みなのは、剣閣で鐘会軍10万の進軍を阻止して撤退寸前まで追い込んだことからも明らか。
ただ、録尚書事になるまで、軍務以外の仕事を担当したことがなく、
政治的な調整能力には欠けていたのでしょうね。
将帥の才しかない人物が、宰相にならざるを得なかったところが蜀の悲劇であったと思います。
諸葛瞻は董蕨・樊建・黄皓と並ぶ亡国の最大の責任者であると思っています。
蜀の宰相でありながら、保身に汲汲として馴れ合い、
無為無策のまま亡国を招いた責任があります。
また、前線で大軍を擁する姜維の失脚を画策して、
前線と中央の決定的な亀裂を招いた罪もあります。
無能ならまだ許せますが、無責任は許されるべきではありませんね。
最後に壮烈な戦死をしただけで「無能だけど忠臣」にしてもらえて、
とても幸運な人物だなあというのが私の感想です。
劉ェは、単に無意味な場面で殉死しただけの人物ですね。
諸葛亮は李厳に九錫を受けるように勧められた時の断り方や、
ショウ周が初めて謁見した時のエピソード、
関羽への手紙などを見ると、
ユーモアに富んでいておおらかな人物であることがわかります。
優等生を好んでいたわけでもなく、
ケ芝や王平や楊儀のように人格に難がある人物も多く抜擢しました。
魏延や李厳のように扱いが難しいけど有用な先帝時代からの重臣も、
かなり配慮して使っていました。
諸葛亮のように峻厳さと度量を持った人物でないと維持できないような、
組織ではなく個人の力量に大きく依存した体制を作ってしまったことが、
諸葛亮の負の遺産ではないでしょうか?
度量が大きいけれど峻厳さに欠ける蒋エンや費イの時代は
思い切って大ナタを振るうようなことができず、
峻厳に過ぎて度量に欠ける姜維の時代は
人心がバラバラになってしまい、
峻厳さも度量もない諸葛瞻・董蕨の時代には
無為無策のまま国家が滅亡してしまいました。
魏や呉あたりなら、指導者の欠点を補う人物がナンバー2か3あたりにいるのですが、
蜀の場合は指導者のパーソナリティがそのまま国家方針に反映されるという危うさを持っていました。
基礎国力差によるジリ貧を回避するためには、
北伐はきわめて有効な方法だったと思います。
魏に侵攻してうまくいけば西方領土を奪い取り、
うまくいかなければ、退却して秦嶺山脈の彼方に引きこもって時期を待つというのは、
防衛戦と後退戦に長けた諸葛亮ならば、
ローリスクハイリターンな博打でしょう。
癖の有る人材を配慮しながら使ったのも、諸葛亮個人の力量に依存した体制作りを行ったのもそうせざるを得なかったからで、理由はもちろん夷陵の大敗による人材の大量損失を埋め合わせるための苦肉の策だったと私は思います。
また、益州豪族閥と荊州豪族閥の真の宥和が出来ておらず、一部を除く大多数の益州豪族は自家保存第一で政権に一定の距離を置いていた(これは全くの私の想像で根拠はないのですが)事も人材の不足をもたらしていたのでは、と思います。
北伐も他に選択肢がなくやむをえず仕掛けざるをえなかったのではと思っています。時が経てば経つほど大国魏に有利となり、小国蜀のジリ貧に陥る事は明らかだったので・・・
諸葛亮は最初の北伐で防衛体制の整っていない内に長安を落とし、潼関に依って魏と天下分け目の勝負を挑むつもりだったのではないでしょうか?2回目以降の北伐は隴西諸郡と涼州の領域化を図る国力差の縮小に努めるための戦いのような気がします・・・
しかしそれにしても、蜀(諸葛亮)としては魏延をもっと上手く使う手はなかったのでしょうかね?
反骨の相がある人間は現代の世にも周りにもいますが(笑)、やはり使いこなすのが難しいのでしょうね・・・。
姜維は宰相ではありませんよね、将軍だと思います。
ただ、姜維配下にも大した武将がいませんし、蜀はもはや文武共に人材難。
滅びるべくして滅びたのでしょう。
「叛骨の相云々」とは実は諸葛亮と魏延の相性が最悪だった事の諸葛亮のこじつけだったと思いませんか?第1次北伐の目的が潼関での魏との決戦だったとすれば、魏延の具申した子午谷を抜けて軽騎5千で長安を直撃する作戦案はかなりいいセンいったように思えるのですが・・・まさか諸葛亮も嫌いなヤツの意見だから却下したわけでもないでしょうが・・・作戦不可能な事は様々理由が挙げられていますけど。
蜀漢は建国当初から極度の独裁国家です。
劉備は中国的な有徳者のイメージが強いですが、
実際は独裁志向が強く、最後まで主力軍の指揮を他人に委ねることはしませんでしたし、
政治面でも誰にも掣肘できない権力を握っていました。
劉備在世中に、重臣が公然とその意向に背いたり、
名声や派閥を背景に君主権に抵抗しようとした例は存在しません。
諸葛亮の独裁体制は、蜀漢がもともと最高指導者がすべてを掌握する国だったからということです。
一人の独裁者の力量に国運を左右される国というのはとても危ういですが、
杖打ち程度の刑罰でも自分で決済するような諸葛亮の性格には合っていたのでしょうね。
劉備と諸葛亮の相性の良さも、独裁を理想とする政治観が近かったからかもしれません。
この政治体制は結果として蜀の亡国を招きましたが、
これは能力の限界というより、パーソナリティの限界ですね。
あと、俗説で言われる荊州閥と益州閥の対立は、実は存在しません。
劉備政権で起用された人間、諸葛亮政権で起用された人間の傾向はただひとつで、
「最高権力者の信任を得た人物」です。
曹操政権の頴川閥、孫権政権の呉閥・会稽閥のように、
同郷の名士同士の連帯や地元での勢力を背景に政権中枢にいて、
最高権力者ですら下手に手を出せないような人物はいません。
劉備や諸葛亮の信任とは無関係に高位にいる人物も存在しますが、
そういう人物は官位が高いだけで、外部にアピールするためだけのお飾りです。
たしかに蜀漢の中枢には荊州人が数多くいますが、
それはもともと荊州出身の劉焉一族が荊州人を重用していたからで、
征服者である劉備がもともと益州にいた官吏を継続雇用して、
たまたま彼らの中に荊州人が多くいたというだけです。
旧政権の官吏だった荊州人と、劉備が荊州で起用した荊州人は、
まったくの別物です。
また、劉備が起用した荊州人、諸葛亮が起用した荊州人を分類すると、
襄陽豪族、南陽豪族、その他の土着豪族、軍人など多様な出自があります。
さらに劉焉一族や劉表など旧政権との距離、劉備との距離、諸葛亮との距離などもあり、
彼らの共通点といえば結局は「劉備や諸葛亮との距離の近さ」ぐらいしかないのです。
益州人もそれは同じで、益州人を代表する派閥は存在しませんし、
益州人の立場から蜀漢政権の他州人と退治した人物も存在しません。
諸葛亮政権の要人だった益州人には、張裔・馬忠・王平・張翼などがいますが、
いずれも諸葛亮に評価されて用いられた人物で、
益州閥の勢力のおかげで用いられたわけではありません。
諸葛亮死後は、出身地や出自に関係なく、
諸葛亮に重用された人物やその子弟が蜀漢の中枢を担うことになります。
蜀に荊州閥や益州閥があるなら、涼州出身の姜維や予州出身の陳祇が宰相になることはなかったでしょう。
蜀漢が人材に乏しいとはあまり思わないのですが、
そういう印象があるとすれば、
それは劉備や諸葛亮の意向に沿う人物ばかりが起用されたせいかもしれません。
魏・呉と蜀漢の大きな違いは、
数万の兵を率いて一州規模の土地を攻めたり守ったりする都督級の人材の乏しさですね。
そもそも蜀漢には主力軍とは別に数万の兵を割いて守らせるべき土地がないのですけどね。
蜀の南中や永安や江州などの都督は治安維持が主な仕事で、
政治的な性格が強いですし。
ただ、諸葛亮や姜維が北伐を行った時に、
数万単位の別動軍を率いて、魏の都督や刺史の軍と戦えるような将軍がいたら、
かなり戦略の幅は広がったと思います。
まず、子午谷から長安に出る道は非常に険しく、
そこを強行軍で移動したら軍勢は疲労して使い物にならなくなります。
そんな軍勢、しかもたった5000で都督が駐屯する長安を攻撃するのは無理がありすぎます。
さらに、洛陽から長安に出る道は街道も水運も整備されていて、容易に援軍を送り込めます。
魏延の希望的観測が外れて、長安の夏侯ボウが城にこもったら、この作戦はその時点で破綻します。
ありえないぐらいの天佑が起きて夏侯ボウが逃亡して、魏延軍が長安に入城できたとしても、
今度は洛陽から送り込まれる援軍と戦わなければなりません。
疲れきった5000の軍と、疲れていない魏の中央軍数万では、
結果は火を見るより明らかです。
援軍が来る前に諸葛亮の軍と合流できて、
さらに援軍を撃破できたとしても、
今度は援軍の第二波に備えないといけません。
洛陽からのさらなる援軍を阻止するために撞関へ向かったら、西から来る涼州の軍を阻止できなくなりますし、
涼州の軍を阻止しようとしたら、
洛陽からの援軍を阻止できなくなります。
下手をすると、武関から荊州の軍が北上してくるかもしれません。
三方からの援軍阻止と、その合間を縫って関中平定。
これができなければ、蜀漢軍は関中で立ち往生しますが、
成し遂げるには兵力があまりに足りません。
つまり、ありえないぐらいの奇跡が起きて、
希望的観測が全部あたっても、
せいぜい長安を落とせる以上の戦果はあがらず、
関中の確保すらおぼつかないということです。
妄想に近い楽観だけで組み立てられた勝算ゼロの作戦です。
イチかバチかのギャンブルですらありません。
リターンがないのにリスクを冒すのは、
ギャンブラーですらやりません。
魏延は劉備が抜擢して漢中の守りを委ね、
北伐の時は常に主力部隊を統率して武勲を重ね、
別軍を率いて名将郭淮を野戦で撃破したほどですから、
単なる武人と言うだけでなく、戦術能力や統率力も極めて高い将帥であることは疑いありませんが、
戦略的な視野はかなり怪しいと言わざるを得ません。
諸葛亮と魏延の確執については演義で誇張され、またそれが物語的に面白いので、どうしても印象が強いですよね。
あそこまで悪者にされた魏延は可哀想ですが、やっぱり蜀沈没の原因を作った一人と言えると思います。
改めて思うんですが、諸葛亮や魏延などをしっかり惹き付けていた(忠誠を誓わせていた)劉備は凡庸で魅力が高いだけの人物ではなかったのでしょうね。
諸葛亮、姜維、魏延が上手く機能すれば、もう少し戦果はあがったのだろうか…。
主に「英雄の器」「度量が大きい」などの人格の大きさを示す評価と、
「勇名が高い」「武勇に優れている」などの軍事的才能を示す評価があります。
つまり、人間的魅力に富んでなおかつ、軍事的才能もある叩き上げの武人を髣髴とさせる姿ですね。
徐州を手に入れるまでは、軍功だけで成り上がった人ですし、
戦歴もそんなにひどくはありません。
明らかな失策による惨敗といえるのは夷陵ぐらいで、
あとの敗北は戦う前に見切りを付けてさっさと逃げたり、
あまりにも不利すぎて誰が指揮しても勝てなかったであろう戦いがほとんどです。
地盤も持たず、兵力も持たない人間が人間的魅力だけで支持を得られるほど乱世は甘くありません。
そんな人物についていけば、自分の生命すら怪しいからです。
人間的に問題があることが広く知られていた呂布を支持する人間がいたのも、
軍事的才能が高く評価されていて、
傘下に入れば頼りになると思われていたからです。
剛勇を誇るあまり驕慢になった関羽や魏延が劉備に忠誠を誓うことを厭わなかったのは、
劉備が武人としても尊敬に値する人物だったからでしょう。
なるほどなるほど。
劉備を追加する際の参考になります。
劉備が敵と互角以上の戦力を有していたのに負けたのは、
実は夷陵だけだったりします。
戦力がまともな状態で戦えたのは益州攻略と漢中攻防戦と夷陵ぐらいなのですが、
前二者はどちらも歴史を塗り替える大きな意義がある勝利ですね。
外部から要害の益州を攻略したり、
名将夏侯淵を討って、粘り強さを身上とする曹操に粘り勝ちするという、
名将と呼ぶにふさわしい金星を二つもあげています。
配下も優れていたとはいえ、やはり将才がなければ戦は勝てませんからね。
両戦とも局面を替える重要な戦ですし、評価出来ると思います。