2009年09月27日

耿恭

耿恭 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 3 / 知力 5

光武帝の死後、国境警備を強化する為に後漢は西域都護、戊校尉、己校尉を新設。耿恭は戊校尉に任命される。
翌年、匈奴が車師国を撃破し、金満城をも攻めたが耿恭に撃退される。その後、疏勒城(車師国内の後方)に駐屯したがまたしても来襲した匈奴を撃退。
同年8月、皇帝の明帝が死去し章帝が即位するや、匈奴族は直ちに車師国と連合して疏勒城を水路を絶って包囲。耿恭は城内で水源を探し、30メートル以上井戸を掘ったところで水脈にぶつかった為、井戸に向かって拝むパフォーマンスを見せ、湧き出た水を見た将兵は歓喜し、士気は大いに上がった。
その後も後漢と匈奴両軍が援軍を送り、疏勒城包囲戦は続いた為に城内では食料が無くなり、耿恭は将兵達と甲冑や武器に使われている革を煮込んで食べながら、城を固守。やがて匈奴は撤退する。
生き残った耿恭と部下たった26名中、玉門にまで戻った際に更に13名が心身衰弱で死亡。後漢朝廷は班超を代わりに駐留させ、鎮守させた。

他にも羌族が隴西、漢陽に進攻した際には、耿恭は馬防と共に救援として羌族を打ち破り、投降者は数万人にのぼったという。ただ、朝廷に戻った馬防(章帝の親戚)の讒言によって投獄される。解職後は故郷に戻り、静かに息をひきとった。
posted by ただの中国史好き at 23:34 | Comment(0) | 後漢時代
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