2009年09月21日

馬援

馬援 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 6

馬援は西北辺境出身で元々身分は高くなかったが、経営の才でもって大牧場主となる。がしかしその牧場を狙う西北辺境の遊牧異民族の来襲を幾度となく受け、それを撃退しているうちに軍事の才も得る。
その後、天下が乱れた際に光武帝の下に付き従い、主に天下統一後に将軍として交趾(ベトナム)の大反乱を平定、南方鎮護により神格化された。三国志演義で諸葛亮(孔明)が南征の際に馬援の霊を祭っている。

馬援は年老いてなお盛んな人物で、60歳を過ぎて戦の最前線に出ようとした際、光武帝が「もう歳なんだからやめろ」と言ったが、光武帝の目の前で荒馬を引き出し、飛び乗って走り回り健在であることをアピールし、光武帝を「矍鑠たるものだ。では行ってこい!」と苦笑いさせている。これが元気なお年寄りを矍鑠という語源である。
後に娘が皇室に入った為、馬援は皇族に数えられ光武帝28将からは除外されている。
posted by ただの中国史好き at 10:09 | Comment(4) | 後漢時代
この記事へのコメント
馬援と馬文淵は同一人物ですか?教えてくだ
さい。新潟県新発田市に所在する大倉翁之墓
銘(実業家・喜八郎が祖父、定七のため建てた)
に頼山陽の筆で「定七は馬文淵の如し」と二度
出てきます。また服部之総『志士と経済』(岩
波文庫153-1)P166にも言及。馬文淵はどうい
う人物か探求中。中文読めぬので教示を仰ぎま
す。なお喜八郎は定七と山陽の後代の人。原資
料は大倉家に伝わったものらしい。(未見)
Posted by 南淵貞知 at 2011年07月29日 14:28
>南淵貞知さんへ

馬援は字を文淵といいますので、馬援のことですね。
Posted by ただの中国史好き at 2011年07月31日 23:03
馬援=文淵→分りました。感謝。諸橋轍次辞典に
もありました。頼山陽が大倉家に与えた草稿は
火事で失なわれたので、山陽の遺稿から原稿を
見つけて碑に刻んだーと裏に彫ってありました。
Posted by 有識故実家 at 2011年08月09日 11:14
>有識故実家さんへ

お役に立てて良かったです。
Posted by ただの中国史好き at 2011年08月15日 22:59
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