2008年04月30日

衛青

衛青 能力データ
魅力 6 / 統率力 9 / 戦闘力 7 / 政治力 4 / 知力 5

衛青は、絶世の美女である姉の衛子夫が武帝の後宮に入り寵愛を受けた為、抜擢されて将軍となった。
がしかし単なる幸運の持ち主ではなく、将軍として統率能力に長け、各戦で活躍。紀元前280年の対匈奴戦では斬首数千、翌紀元前279年の対匈奴戦でも斬首数千、獲得した家畜数十万という戦果をあげ、遂には大将軍に任ぜられた。その結果、かつての主人であった平陽公主(武帝の姉)を妻に迎える事になったのは、皮肉としか言い様がない。

衛青自身は温厚かつ慎重な人間で、不遇の李広を気の毒に思い、李広が自刎して死後、李広の息子に殴られても黙っていたという。ところがこの衛青の気持ちを知らずに幼少より大貴族として育った甥の霍去病が仕返しとばかり李広の息子を狩の際に射殺してしまい問題となるわけだが・・・・。

いずれにしても、非常に有能かつ功績も大きい人ながら、いまいち地味で人気も低いのが可哀想な人物。

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posted by ただの中国史好き at 17:35 | Comment(0) | 前漢時代
2008年04月29日

李広

李広 能力データ
魅力 8 / 統率力 9 / 戦闘力 10 / 政治力 3 / 知力 5

李広は、前漢屈指の豪将で呉楚七国の乱の際も騎兵隊を率いて活躍。弓の達人で、虎だと思い射た矢が虎の形に似た石を貫いたという故事が残る程で、個人戦でも強かったが部隊を率いても無類の強さを誇った。
その後も対匈奴北方防衛の中心として、数々の武勲を立て匈奴から飛将軍と恐れられ勇名を轟かせた。
又、文帝が狩に出掛けた際、飛び出して来た虎と李広が組み合って短剣で刺し殺したのを見て、文帝に「お前は50年遅く生まれてしまった。50年早く生まれていれば、高祖に従い大諸侯になれただろう」と嘆息し言わしめた。

ところが、その後武帝の時代に入り、武帝が愛妃の衛子夫ゆかりの衛青や霍去病を重用し始めると赫々たる武勲にも関わらず彼等の後塵を拝する様になり、空回りが多くなる。
紀元前119年、衛青ならびに霍去病と匈奴討伐に遠征した際、作戦を誤った事を恥じて陣中で責任を取り自害。

清廉なる性格で恩賞も部下と分かち合い、自身の蓄えはほとんど無かった為、部下は彼の為に死を恐れず戦ったという。

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posted by ただの中国史好き at 23:49 | Comment(0) | 前漢時代
2008年04月14日

周亜夫

周亜夫 能力データ
魅力 5 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 6

周亜夫は、劉邦の漢帝国樹立に功有った周勃の子で、河内郡太守から兄が罷免された後を継ぎ侯となる。
将軍として北方防衛にあたっていた際、後の文帝(劉邦の子)が陣中を訪れた時に兵士が例え皇帝といえども陣中にみだりに入る事は出来ないという軍律を固く守り、文帝を阻んで入れさせなかった事件が有り、文帝はその件で周亜夫について感心し、真の将軍であると褒めた。

その後、呉楚七国の乱が起こり漢帝国が揺らごうとした時、時の皇帝である景帝は周亜夫を将軍として派遣。周亜夫は敵が団結しない様に敵の本拠地と出撃してきた敵軍との間を分断し、補給を絶つ事によって慌てて引き返すところを撃破する戦法で、瞬く間三ヶ月で乱を平定する。

がしかし、周亜夫は大功をたてたものの景帝とうまくいかず、謀反を疑われて絶食して死ぬという悲劇的な最後を遂げる。

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posted by ただの中国史好き at 06:24 | Comment(0) | 前漢時代
2008年03月01日

韓信

韓信 能力データ
魅力 5 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 7

韓信は、若い頃は不遇で洗濯女に食事を世話になったり、街の無頼の徒の言い掛かりに抵抗せず、その股を潜ったりして匹夫と呼ばれ馬鹿にされていた。
やがて秦末の動乱で項梁や項羽に仕えたがまともに用いられず、四川に入った漢の劉邦に仕えて以後本領を発揮。中国史上でも彼を上回る名将は数える程しかいないと言われるその卓越した能力によって、連戦連敗であった漢軍を時に背水の陣など奇抜な戦術を用いながら楚軍とまともに戦わしめ、遂には打倒する。
その軍事的な功績は、軍師の張良や内政と補給の蕭何と並び建国三大功臣に挙げられる程に大きく、王に封ぜられる。

だが、自身が「多々ますます弁ず」と語る程に自信を持っていた、その用兵力と戦略眼が漢帝国建国後は逆に呂后に警戒され、蕭何の謀計によって一族殲滅となる。捕らえられ、処刑される際に「狡兎死して走狗煮らる」すなわち、良い猟犬はずる賢い兎がいる間は大事にされるが、それらの兎がいなくなってしまうと用無しで煮て食われてしまうという意の有名な言葉を残す。

名将の最期としては、あまりに惨めなもので、彼の政治力の無さが惜しまれる。

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posted by ただの中国史好き at 21:32 | Comment(0) | 秦・楚時代
2008年02月11日

項羽

項羽 能力データ
魅力 7 / 統率力 9 / 戦闘力 10 / 政治力 3 / 知力 5

項羽は、中国史上最強の武将と言って間違い無いだろう。
名は籍、字が羽なのだが、項籍よりも項羽という呼び方が有名。
叔父の項梁に育てられて大きくなった項羽は、秦末の動乱に項梁と挙兵。項梁死後は楚軍を自ら率い、鉅鹿の戦いで勇名を轟かせ、以後圧倒的な戦闘力を見せ付けて西進、関中に入って楚王を義帝とし、自らは覇王として君臨する。
だが、間も無く漢王劉邦が反旗を翻して北上すると、漢楚戦争に突入。
中国三大軍師に数えられる張良、中国の名将と言えば上位15位以内に挙げられるであろう韓信、内政と補給にズバ抜けた才力を発揮する蕭何、この三人をもってして苦戦せしめた項羽の突出した戦闘力は筆舌し難いものがある。

この項羽の最期を、史記の作者司馬遷も惜しんだ節が随所に見られる。
漢楚戦最期の垓下の戦いにおいて、項羽は最愛の人、虞美人を手にかけた後に名馬騅に跨って城から脱出。追撃する漢軍に次々と護衛の兵が討ち取られて28騎にまで減るが、そこから項羽は漢軍に突撃して何百人を討ち取って追い払う。この際、楚軍で失ったのはたった2騎のみ。凄まじい武力、戦闘力としか言いようが無い。
しかし、流石の項羽も力尽き31年の生涯を閉じる。

ちなみに、「保元物語」で登場する怪男児、源為朝(身長2m超、剛弓の使い手)の部下が28騎だったというのは、項羽の最期に付き従った28騎の部下の例に倣ったもの。

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posted by ただの中国史好き at 00:31 | Comment(0) | 秦・楚時代