魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 8 / 政治力 5 / 知力 5
カイドゥはチンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシの子。
30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)フビライ率いる元朝と対立、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定付け、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設した。いわゆるカイドゥの乱である。
カイドゥの属するオゴデイ家一門は、モンゴル帝国の第3代皇帝であったグユクが亡くなると、第4代皇帝となったモンケの一門トゥルイ家に帝位を奪われ、ジュンガリア地方(現在の中国新疆ウイグル自治区北部)エミル川流域の所領(ウルス)は没収されなかったものの、有力者が追放されるなど厳しい圧迫を加えられた。これに不満をもったカイドゥは、1259年にモンケが急死しその弟フビライとアリクブカが後継者争いを始めるとアリクブカに与し、この内紛がアリクブカの敗北に終わると入朝して帰順するよう要求するフビライの求めを拒否。この混乱の間にカイドゥはオゴデイ家内での権力を掌握し、西北モンゴリアにいたフビライ配下の軍を攻撃し反抗の意図を明確にする。
これにより、西南で境を接するチャガタイ家のウルス(チャガタイ・ハン国)で権力を掌握したバラクとマーワラーアンナフル(現在のウズベキスタン)にある肥沃なモンゴル皇帝直轄領の支配権横領をめぐって争うが、1269年にバラク及び西北ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の代表者と会盟、マーワラーアンナフル領を両家で分割するとともに、共同してフビライへ反旗を翻すことを決する。
1270年、チャガタイ家のバラクはイランに侵攻するが、イルハン朝の君主でありフビライの甥アバカにカラ・スゥ平原の戦いで敗れて勢力を失い、カイドゥはバラクの後継者に自らの推すニグベイを立てるが間もなく反抗した為に戦死させる。これによりチャガタイ家の権力が空白となり、カイドゥはバラクの遺児ドゥアを擁立してチャガタイ・ウルスを自らのオゴデイ・ウルスの支配下に置くことに成功する。
一方、国号を大元としていたフビライは同年自身の四男ノムガン率いる軍を中央アジアに派遣、チャガタイ家の本拠地アルマリクを占領。しかし、この軍に参加していたモンケの遺児であるシリギが反乱を起こしカイドゥと結び、ノムガンを捕えてカイドゥに引き渡す。シリギの乱はフビライによって直ぐに鎮圧されたが、ノムガンの率いた元の中央アジア駐留軍は解体、アリクブカの遺児メリク・テムルらモンゴリア東部にいた王族・貴族がカイドゥの下に投じた。
これにより、カイドゥの支配地域はジュンガリアのオゴデイ・ウルスを中心に、東はアルタイ山脈東麓のアリクブカ家のウルス、北はトゥヴァ地方のオイラト部族、西はイリ川流域のチャガタイ・ウルスからトランスオクシアナに至り、アム川でイルハン朝と境を接する広大な領土に広がる。このカイドゥが実効支配した領域は「カイドゥ王国」「カイドゥ・ハーン国」「カイドゥ・ウルス」等と呼ばれる。
1287年、チンギス・ハーンの弟テムゲ・オッチギンの子孫でモンゴリア東部を支配する元の貴族ナヤンがフビライの日本遠征政策に不満をもち、カチウン家、ジュチ・カサル家など他の東方三王家を率いて反乱を起こすとカイドゥはこれに呼応、カラコルムを攻略するべく西からモンゴリアに侵攻するが、バヤン率いる元のモンゴリア駐留軍に阻まれる。やがてフビライは親征に出てナヤンを敗死させ、更にカラコルムに出兵したためカイドゥは軍を退き、フビライ打倒は失敗に終わる。
フビライが病没し、テムルが大ハーン位を継ぐと、元の政権安定を見てカイドゥの許から元に投降する者が続出。カイドゥはこれを食い止め、決戦に臨むため1300年に中央アジアの諸勢力の総力を挙げて出征、カラコルムの戦い、タミールの戦いのいずれも元軍の迎撃の前に大敗し、その時の戦いで負った戦傷がもとで間も無く死亡した。
カイドゥの死後、以前にチャガタイ家にカイドゥが据えていた傀儡当主のドゥアが中央アジアの最高実力者にのし上がり、カイドゥの遺児チャパルを追ってオゴデイ家を併合することになる。