馮異 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 6
地方の役人だった馮異は劉秀(後の光武帝)のもとへ身を投じ、敗走の最中に一杯の粥を劉秀、ケ禹と三人で分け合って食べたりするなど、艱難辛苦を共にしながら功績を重ねる。
馮異は、他の将軍達が自身の手柄について皆の前で自慢しあっていると、一人だけ大きな樹の根元に腰を降ろしてニコニコと笑いながら目をつぶって聞いている様な奥ゆかしい人物で、大樹将軍と呼ばれた。
孫子の兵法に通じ、王郎・赤眉の賊、公孫述などを討って後漢の国内平定に尽力したが、後に従軍中に病没。後漢創業28功臣の一人に数えられる。
→馮異に一票
2009年06月21日
馮異
posted by ただの中国史好き at 22:03
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| 後漢時代
2009年05月23日
ケ禹
ケ禹 能力データ
魅力 8 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 7 / 知力 8
ケ禹は後漢創業28功臣の筆頭。
後の光武帝、劉秀が洛陽で学問を学んでいたまだ無名の青年時代、非常に優秀な七歳年下の少年と対等に付き合っていた。それがケ禹である。
後に劉秀が3千の兵で60万という王莽の大軍を破ると、ケ禹は何百キロの路を遥々駆けつけた。
ケ禹到来を喜び、「君が来てくれたのは友情の為か?」と問う劉秀に対し、彼は「違います。私はあなたについて歴史に名を残したい(功名を竹帛に垂る)。」と答えたという。劉秀は笑ってケ禹を参謀に加えた。
参謀・指揮官としては必ずしも超一流ではなく大敗することもあったが、ある戦いの際には劉秀とケ禹と馮異の3騎だけで一杯の粥を三人で分けあいながら敗走するなど、以後常に劉秀を支え続け、後漢建設時に起こった赤眉の乱鎮圧にも奔走。
劉秀が漢王朝の再興を宣言し帝位に就いたのが31歳。この時にケ禹は24歳の若さで大司徒(宰相)に就く。光武帝の信頼厚く、次の明帝にも仕えて太傅となった。
→ケ禹に一票
魅力 8 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 7 / 知力 8
ケ禹は後漢創業28功臣の筆頭。
後の光武帝、劉秀が洛陽で学問を学んでいたまだ無名の青年時代、非常に優秀な七歳年下の少年と対等に付き合っていた。それがケ禹である。
後に劉秀が3千の兵で60万という王莽の大軍を破ると、ケ禹は何百キロの路を遥々駆けつけた。
ケ禹到来を喜び、「君が来てくれたのは友情の為か?」と問う劉秀に対し、彼は「違います。私はあなたについて歴史に名を残したい(功名を竹帛に垂る)。」と答えたという。劉秀は笑ってケ禹を参謀に加えた。
参謀・指揮官としては必ずしも超一流ではなく大敗することもあったが、ある戦いの際には劉秀とケ禹と馮異の3騎だけで一杯の粥を三人で分けあいながら敗走するなど、以後常に劉秀を支え続け、後漢建設時に起こった赤眉の乱鎮圧にも奔走。
劉秀が漢王朝の再興を宣言し帝位に就いたのが31歳。この時にケ禹は24歳の若さで大司徒(宰相)に就く。光武帝の信頼厚く、次の明帝にも仕えて太傅となった。
→ケ禹に一票
posted by ただの中国史好き at 12:24
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| 後漢時代
2009年02月07日
陳湯
陳湯 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 4 / 知力 5
タラス河畔にいた匈奴の勢力が盛んな時期に西域副校尉として西域都護に着任。当時の匈奴は烏孫などの部族を圧迫するのみにとどまらず、漢の使者も殺し、勢力拡大の一途を辿っていた。
これに対して陳湯は独断で兵を動かし、西域の兵をも集合させて匈奴の支単于を攻め殺して西域の平穏をもたらした。がしかし、独断専行での功績に対する論功行賞は長引き、一旦関内侯に任ぜられたものの、戦利品の着服が露見して罪を問われ僻地に流罪となる。
後に前漢を倒した王莽が西域を統括する人材を臣下に諮問した際、真っ先に名前が挙げられたが亡くなった直後であった。幸か不幸か、この後、王莽の新が瞬く間に倒れて後漢時代が訪れたことを考えると、陳湯はちょうど良いタイミングで天寿を全うしたのかもしれない。
→陳湯に一票
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 4 / 知力 5
タラス河畔にいた匈奴の勢力が盛んな時期に西域副校尉として西域都護に着任。当時の匈奴は烏孫などの部族を圧迫するのみにとどまらず、漢の使者も殺し、勢力拡大の一途を辿っていた。
これに対して陳湯は独断で兵を動かし、西域の兵をも集合させて匈奴の支単于を攻め殺して西域の平穏をもたらした。がしかし、独断専行での功績に対する論功行賞は長引き、一旦関内侯に任ぜられたものの、戦利品の着服が露見して罪を問われ僻地に流罪となる。
後に前漢を倒した王莽が西域を統括する人材を臣下に諮問した際、真っ先に名前が挙げられたが亡くなった直後であった。幸か不幸か、この後、王莽の新が瞬く間に倒れて後漢時代が訪れたことを考えると、陳湯はちょうど良いタイミングで天寿を全うしたのかもしれない。
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posted by ただの中国史好き at 16:10
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| 前漢時代
2008年12月30日
鄭吉
鄭吉 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 5 / 知力 6
長江下流の会稽出身の鄭吉は、一兵卒から栄達して初代西域都護に着任。以後10年間の長きに渡り、匈奴相手に砂漠の戦いを繰り広げて西域諸国を守り続けた(趙充国の下で戦う)。
前60年には、匈奴の日逐王先賢択が単于に背いて漢に降る際に西域諸国5万の兵を動員し、これを無事迎えて長安に護送。
後に安遠侯に封じられた。
→鄭吉に一票
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 5 / 知力 6
長江下流の会稽出身の鄭吉は、一兵卒から栄達して初代西域都護に着任。以後10年間の長きに渡り、匈奴相手に砂漠の戦いを繰り広げて西域諸国を守り続けた(趙充国の下で戦う)。
前60年には、匈奴の日逐王先賢択が単于に背いて漢に降る際に西域諸国5万の兵を動員し、これを無事迎えて長安に護送。
後に安遠侯に封じられた。
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posted by ただの中国史好き at 13:33
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| 前漢時代
2008年12月13日
アッティラ
アッティラ 能力データ
魅力 7 / 統率力 10 / 戦闘力 8 / 政治力 4 / 知力 6
強力な騎馬民族であるフン族の王ルーアの甥として生まれ、後に兄ブレダと共に王位に就く。がやがてブレダを狩の最中に謀殺して単独の王となるや、以後中央ヨーロッパから東ヨーロッパ、ロシアにまたがる世界史上屈指の版図となる大帝国を築いた恐るべきフン族の大王(チンギス・ハーンのモンゴル帝国は別格として、アレクサンドロス3世のマケドニア王国、ナポレオン・ボナパルトのフランス、冒頓単于の匈奴、ティムールのティムール帝国、アクバルのムガル帝国、トラヤヌスのローマ帝国、木杵[ムカン]の突厥等と並ぶ規模)。
度々東西ローマ帝国へ侵攻しては領土割譲を得るか多額の賠償金を得て退却する事を繰り返した為、ローマ圏からは「神の災い」「神の鞭」として畏怖され、ガイセリック(ヴァンダル族)と並び破壊者の象徴として恐れられた。ローマ帝国以外にも東はバルト海沿岸のゴート王国を滅ぼし、フランク王国を属国化し、ブルグント王国軍を壊滅させた。
フン族による征服の際の容赦無い殺戮と略奪を恐れた諸民族によって民族大移動が行われたとまで言われるまさに恐怖の帝国であり、後のチンギス・ハーンやティムールは東方からの侵略者としてモンゴロイド系(黄色人種)であったとされるアッティラの再来と呼ばれて恐怖された。一方で、北欧圏ではアッティラは偉大なる王として畏敬されている。
この恐怖の大王の死はあっけなく訪れる。
40歳、自身の新たな妃として美女イルディゴを迎えた婚礼の儀で泥酔し、鼻血による窒息死(脳溢血)で死亡。
アッティラを失ったフン族は、後継者である長男エラクがネダオの戦いで東ゴート族とゲピダエ族の残党に敗れると一挙に瓦解、崩壊した。
→アッティラに一票
魅力 7 / 統率力 10 / 戦闘力 8 / 政治力 4 / 知力 6
強力な騎馬民族であるフン族の王ルーアの甥として生まれ、後に兄ブレダと共に王位に就く。がやがてブレダを狩の最中に謀殺して単独の王となるや、以後中央ヨーロッパから東ヨーロッパ、ロシアにまたがる世界史上屈指の版図となる大帝国を築いた恐るべきフン族の大王(チンギス・ハーンのモンゴル帝国は別格として、アレクサンドロス3世のマケドニア王国、ナポレオン・ボナパルトのフランス、冒頓単于の匈奴、ティムールのティムール帝国、アクバルのムガル帝国、トラヤヌスのローマ帝国、木杵[ムカン]の突厥等と並ぶ規模)。
度々東西ローマ帝国へ侵攻しては領土割譲を得るか多額の賠償金を得て退却する事を繰り返した為、ローマ圏からは「神の災い」「神の鞭」として畏怖され、ガイセリック(ヴァンダル族)と並び破壊者の象徴として恐れられた。ローマ帝国以外にも東はバルト海沿岸のゴート王国を滅ぼし、フランク王国を属国化し、ブルグント王国軍を壊滅させた。
フン族による征服の際の容赦無い殺戮と略奪を恐れた諸民族によって民族大移動が行われたとまで言われるまさに恐怖の帝国であり、後のチンギス・ハーンやティムールは東方からの侵略者としてモンゴロイド系(黄色人種)であったとされるアッティラの再来と呼ばれて恐怖された。一方で、北欧圏ではアッティラは偉大なる王として畏敬されている。
この恐怖の大王の死はあっけなく訪れる。
40歳、自身の新たな妃として美女イルディゴを迎えた婚礼の儀で泥酔し、鼻血による窒息死(脳溢血)で死亡。
アッティラを失ったフン族は、後継者である長男エラクがネダオの戦いで東ゴート族とゲピダエ族の残党に敗れると一挙に瓦解、崩壊した。
→アッティラに一票
posted by ただの中国史好き at 12:26
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