呂蒙 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 5 / 知力 7
呂蒙は三国志屈指のヒーローである関羽を破って捕縛し、斬った武将として有名である。
が故に三国志演義では悪役として描かれており、NHKの人形劇三国志では城に立て籠もった関羽を誘き出す為に罪の無い人々を次々に殺すというとんでもない設定にされてしまっている。
そもそも、呂蒙は姉の夫が孫策の重臣であった縁故で孫策に仕えるようになり、孫策死去の後はその弟である孫権に仕えた。黄祖との戦いでは都督の陳就を自ら討ち取るなど、その武勇で功績を重ねると、208年の赤壁の戦い、その後の江陵の戦いでも戦功をあげて偏将軍・尋陽県令に任命される。その後も呉屈指の勇将として対曹操戦や反乱平定に活躍。
がしかし、呂蒙には教養がほとんど無かった。主君の孫権は彼に教養の大切さを諭し、そこから勉学に励むと、後に魯粛の後任として荊州へ訪れた際には魯粛から「呉下の阿蒙に非ず」(呉にいた頃のお馬鹿な蒙ちゃんではない)と評され、それに対して呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」(日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっている。いつまでも同じ先入観で物事を見ずに常に新しいものとして見よ)と言った。尚、孫権は成人してから学問に励んだ武将として、呂蒙と蒋欽を挙げている。
214年には、孫権統率の下で甘寧と共に曹操領の皖を降し、廬江太守の朱光を捕らえ、数万人を捕虜とする。この功績によって廬江太守の任を授かる。
215年、魯粛が1万の軍を率いて劉備軍の荊州総督である関羽を牽制。呂蒙は長沙・桂陽を降伏させ、ケ玄之を使者として派遣して零陵太守を降伏させる。この後、関羽と魯粛が会談、孫権と劉備は和解し、孫権は長沙・桂陽を領有、劉備は零陵を領有することとなる。
魯粛の後任として後を継いだ呂蒙は、大国の魏を交戦するよりも、劉備が締結を無視して占拠している荊州南部の全域を奪い返すことを主張。
219年、樊城攻めに掛かりきりだった関羽に対し病と偽り、後任として無名の陸遜を任命して油断させ、さらに関羽配下の士仁・麋芳を寝返らせる。これによって関羽は益州への退路が断たれて孤立し、ついに冬12月に当陽県の南方でこれを捕え、その子の関平と共に処刑した。呂蒙は関羽を討ち取り、荊州を奪還するという大功績を挙げたのである。
しかし、以前から病に臥せりがちであった呂蒙はまもなく死去。死後は次男の呂覇が後を継いだ。彼の後任には陸遜が選ばれ、孫呉の軍権を掌握していく。
→呂蒙に一票
2009年11月14日
呂蒙
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| 三国時代
2009年11月08日
諸葛亮
諸葛亮 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 2 / 政治力 9 / 知力 9
諸葛亮、字は孔明。
諸葛一族は三国時代でも有数の豪族であり、一族は魏・呉・蜀の三国それぞれで要職を得て活用。中でも諸葛亮は劉備に三顧の礼をもって迎えられると、蜀の建国と維持に身命を投げうって尽力したが、魏や呉に比べて国力や人材に乏しい蜀は名将の相次ぐ死と劉備の後を継いだ暗愚な皇帝劉禅がために急速に力を失い、巨星孔明の死によって瓦解への坂道を転がり始める。
実際には軍師としての能力は高くなかった諸葛亮が中国三大軍師(他は周の武王に仕えた太公望呂尚と漢の高祖劉邦に仕えた張良)に祭り上げられているのは何とも三国志演義の魔力による読者の誤った思い入れ、贔屓としか言いようがない。
そもそも赤壁の戦い以後の劉備軍の軍師は紛れもなくほう統であり、ほう統が落命した後は法正が軍師として指揮。法正が亡くなって諸葛亮が軍権を掌握してから蜀軍は戦に勝てなくなる。
後に関羽が呉の呂蒙によって斬られると、劉備は臣下の反対を押し切って自ら敵討ちの為に大軍を率いて呉へ出兵。この際に孔明は「法正が生きていたら主君をお止めしたであろうし、止められなくても負けはしなかっただろう。」と嘆いている。こと軍事に関して、劉備は諸葛亮よりも法正の方を信頼していたのだ。
劉備の死後、孔明は劉備の遺志を継いで蜀軍を率い打倒魏、漢王朝再興の為に出兵を重ねるが、司馬懿によって巧みに防がれて遂に一度も魏の領土を奪い取ることが出来なかった。
では諸葛亮は何の才能に優れていたのか?
それはまさに漢の蕭何の役割と同様、劉備軍が出陣した後の守りと前線への補給能力である。実直清廉な孔明は完璧なまでにこの役割を全うしたが為に、劉備軍は戦に勝てていたとも言える。
→諸葛亮に一票
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 2 / 政治力 9 / 知力 9
諸葛亮、字は孔明。
諸葛一族は三国時代でも有数の豪族であり、一族は魏・呉・蜀の三国それぞれで要職を得て活用。中でも諸葛亮は劉備に三顧の礼をもって迎えられると、蜀の建国と維持に身命を投げうって尽力したが、魏や呉に比べて国力や人材に乏しい蜀は名将の相次ぐ死と劉備の後を継いだ暗愚な皇帝劉禅がために急速に力を失い、巨星孔明の死によって瓦解への坂道を転がり始める。
実際には軍師としての能力は高くなかった諸葛亮が中国三大軍師(他は周の武王に仕えた太公望呂尚と漢の高祖劉邦に仕えた張良)に祭り上げられているのは何とも三国志演義の魔力による読者の誤った思い入れ、贔屓としか言いようがない。
そもそも赤壁の戦い以後の劉備軍の軍師は紛れもなくほう統であり、ほう統が落命した後は法正が軍師として指揮。法正が亡くなって諸葛亮が軍権を掌握してから蜀軍は戦に勝てなくなる。
後に関羽が呉の呂蒙によって斬られると、劉備は臣下の反対を押し切って自ら敵討ちの為に大軍を率いて呉へ出兵。この際に孔明は「法正が生きていたら主君をお止めしたであろうし、止められなくても負けはしなかっただろう。」と嘆いている。こと軍事に関して、劉備は諸葛亮よりも法正の方を信頼していたのだ。
劉備の死後、孔明は劉備の遺志を継いで蜀軍を率い打倒魏、漢王朝再興の為に出兵を重ねるが、司馬懿によって巧みに防がれて遂に一度も魏の領土を奪い取ることが出来なかった。
では諸葛亮は何の才能に優れていたのか?
それはまさに漢の蕭何の役割と同様、劉備軍が出陣した後の守りと前線への補給能力である。実直清廉な孔明は完璧なまでにこの役割を全うしたが為に、劉備軍は戦に勝てていたとも言える。
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posted by ただの中国史好き at 20:15
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| 三国時代
2009年10月24日
竇固
竇固 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 6
名門竇氏の出で、父である竇融の功績によって光武帝の娘を娶ったが、明帝の時代に一時失脚。
だが、対匈奴戦に登用されると、以後北方や西域政策に関って成功をおさめ章帝の時代にも高官を歴任。
班超を見出したのも竇固である。
天山山脈を越え遠征して大勝利をあげた後漢時代を代表する名将。
出自の良さと功績によって資産を蓄えるが、自身は倹約家で貧しい人々の援助をしたことで謗りを受けることが無かった。
竇固以後、世に言う三国志の舞台が幕を開けるまで何十年間は名将の登場はない。
→竇固に一票
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 6
名門竇氏の出で、父である竇融の功績によって光武帝の娘を娶ったが、明帝の時代に一時失脚。
だが、対匈奴戦に登用されると、以後北方や西域政策に関って成功をおさめ章帝の時代にも高官を歴任。
班超を見出したのも竇固である。
天山山脈を越え遠征して大勝利をあげた後漢時代を代表する名将。
出自の良さと功績によって資産を蓄えるが、自身は倹約家で貧しい人々の援助をしたことで謗りを受けることが無かった。
竇固以後、世に言う三国志の舞台が幕を開けるまで何十年間は名将の登場はない。
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posted by ただの中国史好き at 16:02
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| 後漢時代
2009年10月19日
班超
班超 能力データ
魅力 6 / 統率力 6 / 戦闘力 7 / 政治力 3 / 知力 5
父が班彪、兄が班固(漢書の作者)、妹が班昭という学者の家に育ったが、班超のみそれを良しとせず軍人となった。
自ら願い出て当時放棄されていた西域経営にあたり、ある時は楼蘭に後漢の使者として赴き、待遇が変わって冷遇されたことから匈奴の使者来訪を読み取り、36名の部下を率いて匈奴の使者と軍隊数百名を襲撃。使者と軍隊100名以上を倒した。
その際に班超が部下を叱咤した言葉が「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。
その後、後漢朝廷は権力闘争の渦と化すが、班超は西域で後漢と友好国は保護し、匈奴や匈奴との友好国とは戦って生涯を砂漠で過ごした。
→班超に一票
魅力 6 / 統率力 6 / 戦闘力 7 / 政治力 3 / 知力 5
父が班彪、兄が班固(漢書の作者)、妹が班昭という学者の家に育ったが、班超のみそれを良しとせず軍人となった。
自ら願い出て当時放棄されていた西域経営にあたり、ある時は楼蘭に後漢の使者として赴き、待遇が変わって冷遇されたことから匈奴の使者来訪を読み取り、36名の部下を率いて匈奴の使者と軍隊数百名を襲撃。使者と軍隊100名以上を倒した。
その際に班超が部下を叱咤した言葉が「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。
その後、後漢朝廷は権力闘争の渦と化すが、班超は西域で後漢と友好国は保護し、匈奴や匈奴との友好国とは戦って生涯を砂漠で過ごした。
→班超に一票
posted by ただの中国史好き at 23:07
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| 後漢時代
2009年09月27日
耿恭
耿恭 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 3 / 知力 5
光武帝の死後、国境警備を強化する為に後漢は西域都護、戊校尉、己校尉を新設。耿恭は戊校尉に任命される。
翌年、匈奴が車師国を撃破し、金満城をも攻めたが耿恭に撃退される。その後、疏勒城(車師国内の後方)に駐屯したがまたしても来襲した匈奴を撃退。
同年8月、皇帝の明帝が死去し章帝が即位するや、匈奴族は直ちに車師国と連合して疏勒城を水路を絶って包囲。耿恭は城内で水源を探し、30メートル以上井戸を掘ったところで水脈にぶつかった為、井戸に向かって拝むパフォーマンスを見せ、湧き出た水を見た将兵は歓喜し、士気は大いに上がった。
その後も後漢と匈奴両軍が援軍を送り、疏勒城包囲戦は続いた為に城内では食料が無くなり、耿恭は将兵達と甲冑や武器に使われている革を煮込んで食べながら、城を固守。やがて匈奴は撤退する。
生き残った耿恭と部下たった26名中、玉門にまで戻った際に更に13名が心身衰弱で死亡。後漢朝廷は班超を代わりに駐留させ、鎮守させた。
他にも羌族が隴西、漢陽に進攻した際には、耿恭は馬防と共に救援として羌族を打ち破り、投降者は数万人にのぼったという。ただ、朝廷に戻った馬防(章帝の親戚)の讒言によって投獄される。解職後は故郷に戻り、静かに息をひきとった。
→耿恭に一票
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 3 / 知力 5
光武帝の死後、国境警備を強化する為に後漢は西域都護、戊校尉、己校尉を新設。耿恭は戊校尉に任命される。
翌年、匈奴が車師国を撃破し、金満城をも攻めたが耿恭に撃退される。その後、疏勒城(車師国内の後方)に駐屯したがまたしても来襲した匈奴を撃退。
同年8月、皇帝の明帝が死去し章帝が即位するや、匈奴族は直ちに車師国と連合して疏勒城を水路を絶って包囲。耿恭は城内で水源を探し、30メートル以上井戸を掘ったところで水脈にぶつかった為、井戸に向かって拝むパフォーマンスを見せ、湧き出た水を見た将兵は歓喜し、士気は大いに上がった。
その後も後漢と匈奴両軍が援軍を送り、疏勒城包囲戦は続いた為に城内では食料が無くなり、耿恭は将兵達と甲冑や武器に使われている革を煮込んで食べながら、城を固守。やがて匈奴は撤退する。
生き残った耿恭と部下たった26名中、玉門にまで戻った際に更に13名が心身衰弱で死亡。後漢朝廷は班超を代わりに駐留させ、鎮守させた。
他にも羌族が隴西、漢陽に進攻した際には、耿恭は馬防と共に救援として羌族を打ち破り、投降者は数万人にのぼったという。ただ、朝廷に戻った馬防(章帝の親戚)の讒言によって投獄される。解職後は故郷に戻り、静かに息をひきとった。
→耿恭に一票
posted by ただの中国史好き at 23:34
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| 後漢時代
