2012年02月25日

カイドゥ

カイドゥ 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 8 / 政治力 5 / 知力 5

カイドゥはチンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシの子。
30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)フビライ率いる元朝と対立、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定付け、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設した。いわゆるカイドゥの乱である。
カイドゥの属するオゴデイ家一門は、モンゴル帝国の第3代皇帝であったグユクが亡くなると、第4代皇帝となったモンケの一門トゥルイ家に帝位を奪われ、ジュンガリア地方(現在の中国新疆ウイグル自治区北部)エミル川流域の所領(ウルス)は没収されなかったものの、有力者が追放されるなど厳しい圧迫を加えられた。これに不満をもったカイドゥは、1259年にモンケが急死しその弟フビライとアリクブカが後継者争いを始めるとアリクブカに与し、この内紛がアリクブカの敗北に終わると入朝して帰順するよう要求するフビライの求めを拒否。この混乱の間にカイドゥはオゴデイ家内での権力を掌握し、西北モンゴリアにいたフビライ配下の軍を攻撃し反抗の意図を明確にする。
これにより、西南で境を接するチャガタイ家のウルス(チャガタイ・ハン国)で権力を掌握したバラクとマーワラーアンナフル(現在のウズベキスタン)にある肥沃なモンゴル皇帝直轄領の支配権横領をめぐって争うが、1269年にバラク及び西北ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の代表者と会盟、マーワラーアンナフル領を両家で分割するとともに、共同してフビライへ反旗を翻すことを決する。

1270年、チャガタイ家のバラクはイランに侵攻するが、イルハン朝の君主でありフビライの甥アバカにカラ・スゥ平原の戦いで敗れて勢力を失い、カイドゥはバラクの後継者に自らの推すニグベイを立てるが間もなく反抗した為に戦死させる。これによりチャガタイ家の権力が空白となり、カイドゥはバラクの遺児ドゥアを擁立してチャガタイ・ウルスを自らのオゴデイ・ウルスの支配下に置くことに成功する。
一方、国号を大元としていたフビライは同年自身の四男ノムガン率いる軍を中央アジアに派遣、チャガタイ家の本拠地アルマリクを占領。しかし、この軍に参加していたモンケの遺児であるシリギが反乱を起こしカイドゥと結び、ノムガンを捕えてカイドゥに引き渡す。シリギの乱はフビライによって直ぐに鎮圧されたが、ノムガンの率いた元の中央アジア駐留軍は解体、アリクブカの遺児メリク・テムルらモンゴリア東部にいた王族・貴族がカイドゥの下に投じた。
これにより、カイドゥの支配地域はジュンガリアのオゴデイ・ウルスを中心に、東はアルタイ山脈東麓のアリクブカ家のウルス、北はトゥヴァ地方のオイラト部族、西はイリ川流域のチャガタイ・ウルスからトランスオクシアナに至り、アム川でイルハン朝と境を接する広大な領土に広がる。このカイドゥが実効支配した領域は「カイドゥ王国」「カイドゥ・ハーン国」「カイドゥ・ウルス」等と呼ばれる。

1287年、チンギス・ハーンの弟テムゲ・オッチギンの子孫でモンゴリア東部を支配する元の貴族ナヤンがフビライの日本遠征政策に不満をもち、カチウン家、ジュチ・カサル家など他の東方三王家を率いて反乱を起こすとカイドゥはこれに呼応、カラコルムを攻略するべく西からモンゴリアに侵攻するが、バヤン率いる元のモンゴリア駐留軍に阻まれる。やがてフビライは親征に出てナヤンを敗死させ、更にカラコルムに出兵したためカイドゥは軍を退き、フビライ打倒は失敗に終わる。
フビライが病没し、テムルが大ハーン位を継ぐと、元の政権安定を見てカイドゥの許から元に投降する者が続出。カイドゥはこれを食い止め、決戦に臨むため1300年に中央アジアの諸勢力の総力を挙げて出征、カラコルムの戦い、タミールの戦いのいずれも元軍の迎撃の前に大敗し、その時の戦いで負った戦傷がもとで間も無く死亡した。
カイドゥの死後、以前にチャガタイ家にカイドゥが据えていた傀儡当主のドゥアが中央アジアの最高実力者にのし上がり、カイドゥの遺児チャパルを追ってオゴデイ家を併合することになる。
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2012年02月06日

バトゥ

バトゥ 能力データ
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 8 / 政治力 6 / 知力 7

バトゥはジュチ家の第2代当主でキプチャク・ハン国(ジュチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・ハーンの長男ジュチの次男で、後にモンゴル人からは「サイン・ハン(偉大なる賢君)」とまで称される。父ジュチの死により、病弱だった異母兄オルダに代わって次男で母の家柄も良かったバトゥがジュチ家の当主となる。
1236年春2月、モンゴル帝国第2代ハーンであるオゴデイの命を受けてヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、四狗の一人であるスブタイやチンギス・ハーンの4男トゥルイの長男モンケ、そしてオゴデイの長男であるグユク等を副司令として出征。各王家の長子クラスの皇子達、又領民を持っていない皇子達、更に帝国全土の王侯・部衆の長子達、すなわち次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子達が出征するという超大規模なものでバトゥは遠征軍に参軍する皇子達を統括、グユクはその下で皇帝オゴデイの本営軍から選抜された部隊を統括、チンギス・ハーンの功臣筆頭ボオルチュの世嗣ボロルタイがバトゥの本営・中軍の宿将としてこれを率いていた。この時バトゥが率いた兵力は4個千戸隊(約1万人)。遠征軍の征服目標はジュチ家の所領西方の諸族、アス、ブルガル、キプチャクの諸勢力、ルーシ、ポーランド、ハンガリー、更に西方のドイツ、フランス方面をも含んだ。

遠征軍は秋までに当時のジュチ家のオルドがあるイリ方面に到着。冬季にまず宿将スブタイはブルガル市を攻撃、春にキプチャク草原全体に囲い込み作戦を実施、左翼をモンケに任せてカスピ海沿岸を進軍、キプチャクの有力首長バチュマンとアスの首長カチャル・オグラと交戦、捕殺。カスピ海沿岸からカフカス北方までの地域にいたブルタス族、チェルケス族、サクスィーン人(アストラハン周辺)等が帰順、或いはこれを征服。
1237年秋、ルーシ(現ロシア)方面に侵攻。12月下旬にはリャザン、コロムナが劫略され、2月にはウラジーミル大公国を攻略し3月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦してこれを討ち破り戦死に追いやる。ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガリーチ公ダニール等の帰順を受け、モスクワも攻略。その後遠征軍は南に進路を転じてコゼリスクを陥落させ、カフカス北部方面へ一時撤退、諸軍を休養させる。4月からはカフカス北部の諸族の征服を行い、この頃に総司令官バトゥはグユク、ブリ等と論功行賞で激しく対立。その報告を受けたオゴデイの帰還命令によってグユクとモンケは遠征軍を離れモンゴル本土へ出発する。
1240年初春にはルーシ南部に侵攻、キエフを包囲して同地を攻略、破壊。ここでバトゥはカルパチア山脈の手前で遠征軍を5つに分け、ポーランド方面とワラキア方面、カルパチア正面からトランシルバニア経由でハンガリー王国へ侵攻。3月にはクラクフを占領、続いてワールシュタットの戦いでポーランド軍を破ってポーランド王ヘンリク2世を敗死させ、シレジア、モラヴィア地方へも侵攻。カルパティア山間に居住していたサーサーン人を破り、山脈のワラキア人を撃破。
一方、同年3月にはバトゥ本隊はトランシルバニアからハンガリーに侵入、ベーラ4世に降伏勧告を行う。やがてモラヴィアからバイダル、カダアン及びスブタイが合流、ペシュト市を陥落させ、ティサ川流域のモヒー平原でハンガリー王ベーラ4世を急襲してこれを破り、ベーラ4世はオーストリア経由でアドリア海へ敗走。こうしてモンゴル軍はハンガリー全土を支配・破壊するに至る。まさにバトゥの行くところ、敵無しの状況だったのである。続く1241年はトランシルバニア全域の征服、クマン人、マジャール人等のハンガリー王国の残存勢力の掃討、冬には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市を包囲攻撃する。

しかし1241年にオゴデイが死去すると、ほどなくバトゥの本陣にもその訃報が届く。バトゥはオゴデイの死去にともなう遠征軍全軍の帰還命令を受けると、ただちにエステルゴムを陥落させ、カダアンにベーラ4世の追撃を命じる。モンゴル軍の一部はウィーン近郊のノイシュタットまで迫るが、この地域の征服は諦めドナウ流域を経由してキプチャク草原へ撤退。こうしてバトゥ指揮下のモンゴル帝国西方遠征軍は、ハンガリー支配を放棄して帰国することを余儀なくされた。しかし、バトゥの支配したカルパチア山脈以東のルーシ諸国を中核とする東欧の領土は、その後のジュチ・ウルスの基盤となる。
オゴデイ死後、バトゥとルーシ遠征中に険悪な仲となったグユクが第3代ハーンになろうとすると、これに強硬に反対してモンケを擁立。オゴデイが後継者と指名していたのはシレムンであったことを主張、帝国西方の重鎮として不参加を表明しトゥラキナの動きを牽制した為、帝国は5年近く大ハーン位が空位のままという状態に陥った。
結果的にグユクが第三代皇帝(大ハーン)に即位するが、バトゥはクリルタイの決定に不満を抱き大ハーンに即位した後も、グユクから再三にわたり臣従の誓約に赴くようモンゴル本土への召還命令を受けるものの、病気療養を理由に拒み続ける。これに対し、以前から患っていたリューマチの療養のためエミル近辺のオゴデイの放牧地へ行幸すると称し、グユク自ら遠征軍を率いて討伐にやって来るが、同年4月にグユクがビシュバリク付近で急死した為、モンゴル帝国は最有力王族とモンゴル皇帝との内戦という最悪の事態を回避。
グユク死後はモンケを新たなハーンとして推挙し、モンケを強行的に即位させる。この時、バトゥが次代のハーンになることを望む声もあったが、バトゥはあくまで帝国の影の実力者に徹して遂にモンゴル皇帝になることはなかった。その後はジュチ・ウルスの領土の統治に尽力し、ヴォルガ河下流域のかつてのイティル周辺に冬営地サライを首都として定める。バトゥの宮廷を訪れたウィリアム・ルブルックによると、バトゥの宮廷は季節によって南北に移動し、春にはヴォルガ河東岸を北上してブルガール方面に留まり、8月には南に戻っていたと言う。そして1256年、ヴォルガ河畔のサライにおいて48歳で死去。
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2012年02月05日

ジェルメ

ジェルメ 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 6

ジェルメはモンゴル帝国最古参の将軍で、四狗と呼ばれるチンギス・ハーンの功臣の一人。同じく四狗の一人でスブタイは弟。
テムジン(後のチンギス・ハーン)が生まれた時、ジュルチダイはテムジンに黒貂の産衣(ネルケイ)を献上し、そのとき産衣にくるまれていたジェルメをテムジンに仕えさせたいとイェスゲイに申し出た。
長じてボルテと結婚したテムジンがトオリルと義父子の関係を結んだ後、ジュルチダイに伴われてテムジンに仕える。弱小だったころのテムジンがメルキトの襲撃を受けた時にはブルカン嶽への逃亡を助け、チンギスがハーンに即位すると、ボオルチュと共にケシクの統率を命じられる。 ナイマンとの戦いではジェベ、スブタイ、クビライら他の四狗と共に先鋒を務め、1206年のチンギス・ハーンの第2次即位にて第9位の功臣として顕彰され、罪を九度まで犯しても罰せられない特権と千戸を与えられる。ジェルメ率いる部衆は六千戸に増え、これをハラチンと号した。モンゴル統一後早くに亡くなり、短命だった為に後世における武名はジェベ、スブタイに比べて低いものとなった。

ジェルメの忠誠を示す逸話として、タイチウトとの戦いにおけるチンギス・ハーンの看護が挙げられる。戦いの中でチンギス・ハーンが毒矢を受けると、ジェルメは意識を失ったチンギス・ハーンに常に付き添って毒血を口で吸出し、夜半にチンギス・ハーンが目を覚まして「喉が渇いた」と言うと、単身タイチウトの中に忍び込んで酸乳を運び出す。チンギス・ハーンは献身的な看護と命がけで敵陣に忍び込んだ勇気を称え、これにブルカン嶽での奮戦を合わせた三つの恩は決して忘れないと言った。また他の者も単身で敵中に入ったジェルメの豪胆さを称賛。
子のイェスン・テエはコルチに任ぜられ、チンギス・ハーンに近侍。チンギス・ハーンが将軍に必要な資質の一つを説いた時、イェスン・テエを引き合いに出す。 「諸将の中でイェスン・テエの武勇に並ぶ者はいないが、イェスン・テエは配下の士卒の疲労を考慮しておらず、将軍には適していない。」と、個人的武勇は高いが指揮官には不向きな人物と評価。後にモンケの治世に諸王が起こした反乱に参加し誅殺される。
posted by ただの中国史好き at 19:46 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
2012年02月02日

スブタイ

スブタイ 能力データ
魅力 8 / 統率力 9 / 戦闘力 9 / 政治力 1 / 知力 5

スブタイはチンギス・ハーンの家臣で、同じくチンギス・ハーンのもとで活躍したジェルメの弟であり、四狗の一人。武勇に優れた猛将で、チンギス・ハーンが即位する以前にタイチウト氏、ジャムカと袂を別かった時に帰順した部将達の一人に数えられている。
1216年にメルキト族追討に派遣され、戦死したメルキト王トクトア・ベキの世嗣達を討ち取るなど功績を挙げる。更にチンギス・ハーンの大西征に従って本営である中軍に近侍、サマルカンドから逃亡したホラズム朝のムハンマドを追撃。これは取り逃がしたものの、その後ジェベと共に各々1万騎を率いてムハンマド捜索のためホラーサーンからエルブルズ山脈南麓を経由しイラン西北部、イラク、アゼルバイジャン、グルジアの各地を劫略、カフカース山脈(コーカサス山脈)を越境。ロシア平原など東欧に進出し、カルカ河畔の戦いにおいてキエフをはじめとするルーシ諸侯の大軍勢を打ち破るという大功を挙げる。

チンギス・ハーンの死後もオゴデイに従って宿老として活躍、1232年にはトゥルイ指揮下で左翼軍団の千戸長として従軍し、汴京(開封)陥落など金の滅亡戦でも功績を挙げる。その後は1236年に始まるバトゥのヨーロッパ遠征に副司令格として本営・中軍の宿将として従軍、更に功績を挙げたがオゴデイの死とともにヨーロッパ遠征軍が帰還すると隠退し、グユク治世に生地のトウラ河畔にあったウリャンカイ部の牧地において72歳で死去した。ちなみに子のウリヤンカダイ、孫のアジュも軍人としてモンゴルに仕えた。
posted by ただの中国史好き at 23:10 | Comment(0) | 宋・遼・金時代
2012年01月30日

ジェベ

ジェベ 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 9 / 政治力 2 / 知力 4

ジェベはモンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)であるチンギス・ハーンの家臣で四狗(スブタイ、ジェルメ、クビライ、ジェベ)の一人。1206年のチンギス・ハーン即位時の功臣表では第47位に数えられる。
ベスト部の出身ではじめタイチウト部に属する隷属民だったが、1201年にタイチウト部がチンギス・ハーンと敵対した為にこれと戦い、チンギス・ハーンの乗馬を矢で射殺するという活躍を見せるものの敗北して投降。チンギス・ハーンは彼の武勇を賞賛して「矢」(もしくは戦馬)を意味するジェベの名を授け家臣に迎える。その後は万人長に昇進、チンギス・ハーンの先鋒を常に務め、金王朝やナイマン部、西遼攻略などで常に戦功を挙げ、大西征においても従軍。ホラズム朝討滅戦ではムハンマドを追撃して憤死せしめ、更に東欧の一部にまで進撃してカルカ河畔の戦いにおいてルーシ連合軍を破る戦功を挙げた。

チンギス・ハーンと敵対したことがあった為に警戒され、ジェベと常に行動を共にした四狗の一人スブタイはチンギス・ハーンの命令でジェベの監視役も含んでいたといわれる。ジェベは軍律に厳しい一面があり、部下が戦利品を私物化したのを知るとそれを没収して処罰、またチンギス・ハーンの帰還命令に対してスブタイが開戦を強硬に主張した時もスブタイを説得してチンギス・ハーンの命令にあくまでも従ったという。西遼征服後にかつて射殺したチンギス・ハーンの乗馬の特徴を備えた馬を大量に献じたりしたが、1225年にモンゴルに帰還途中で病を発し、死去。チンギス・ハーンはその死を深く惜しんだという。
posted by ただの中国史好き at 22:41 | Comment(0) | 宋・遼・金時代